夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

神様の神棚、仏様の仏壇もある私の生家、私も違和感なく育ち、そして今は・・。

2012-03-17 11:34:27 | 定年後の思い
過ぎし10日前、私は本屋に寄った時、新書コーナーに於いて、
宗教学者・作家として名高い島田裕巳(しまだ・ひろみ)氏の著作された『神も仏も大好きな日本人』(ちくま新書)を見かけ、
思わず微苦笑させられた。

私はここ数年、氏の『平成宗教20年史』(幻冬舎新書)、『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)を購読し、
多々教示され、好感している著作人のひとりとなっている。

『神も仏も大好きな日本人』は、《 日本古来の神道と外国から伝わった仏教。
両者はお互いに影響しあい、日本独自の混合宗教となって・・》
と解説に明記されていたので、私の生家を思い浮かべ、微苦笑させられたりした。

私が小学校に入学した1951〈昭和26〉年の春の当時は、
生家は祖父と父が中心となって、程々に広い田畑を小作人だった人たちの手を借りて、耕していた。
そして母屋の周囲には竹林、雑木林、そしてお稲荷さんを所有し、
宅地の外れには蔵、納戸などがある農家であった。

母屋の中のひとつの10畳の和室には、梁の近くに神棚が備えられ、
ある10畳の和室には、片隅みの一角には仏壇があり、朝には新たにお茶、お線香を捧げていた。、
この部屋の梁の近くには、昭和天皇のご一族の皇族の写真が掲げられていた。
そして土間の竈(かまど)のある梁の近くに小さな神棚が備えられいた。

そして生家から程遠くない所に神社とお寺があった。
陵山と言われる少しばかり小高い丘陵があり、仲良く二分化され、
低い処にはお寺となり、高いの所には神社であった。

神社は『糟嶺神社』と命名されて、後年に私は、農業の神様の糟嶺大神を祀っている、
と知ったりした。
そしてお寺は『明照院』と称されて、やはり後年に、
16世紀の中頃に開かれた天台宗のお寺で、観音堂に祀ってある弁財天は、美人の神様、
と私は学んだりした。

この当時の幼年期の私は、神社で初詣、節分の時は豆まき、秋のお祭りの会場となったり、
お寺では幼稚園がなかった当時で託児所、そして夏には境内でラジオ体操、
ある時は野外の映画が上映されたりしていた。

生家の墓地は、この当時は生家の近くにあり、この地域の住む方たちの墓地であり、
ある地主のご厚意で借地された場所であった。
この当時は土葬となっていて、私が小学2年の時に父が病死されて、
生家でお通夜、告別式の葬儀、そして墓地で埋葬したのを私は少し心の片隅に残っている。

その後、この墓地は1960〈昭和35〉年の頃に解消され、
生家は曹洞宗であるので、本来の程遠い『泉龍寺』に母は移して、今日に至っている。


このように生家も日本の各地に数多くある神様と仏様の仲良くしている混合宗教であり、
違和感なく私は育ってきた。
その後、高校生の頃に歴史に興味を始めた頃は、
明治新政府の方針で強制的に分離され、神様が主役となり、
お寺の仏像などが粗末に扱われる風潮を学んだりして、少し悩んだりした時もあったりした。

そして現在、三男坊の私は生家の近くに住み、
長兄は生家を跡継ぎを順調にし、この実家も新築されて50年近くになっているが、
この家族の居間のようになっている和室には、仏壇と神棚が、仲良く同居している。

分家のようになった我が家は、神棚を設けず、お札を頂いた時は失礼にならないように、
居間の飾りケース棚に入れている。
そして仏壇は、私たち夫婦は子供に恵まれなかったため、無縁となっている。

私たち夫婦は、神も仏も特に関心はないが、お彼岸、お盆の時は先祖や両親に感謝して、
お墓詣りをしている。
そして神社やお寺に出逢ったりした時は、手を合わせたりしている。

ここ20年近く、居間のビデオ・ケースの上に立てかけている
曹洞宗を学ばれた書家・詩人の相田みつをの『日めくり ひとりしずか』に毎朝向っている。
そして彼の綴られた本日の格言を、心の中で、呟(つぶや)いている。

私はこの相田みつを氏の遺(のこ)された名言を、人生の生きた哲学のように学び、
私の独断と偏見の多い日頃の言動の多い中、
人生の戒(いまし)めとして、日々教示されている。


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メリル・ストリープ、テレビに出演され、私は思いがけずに拝見し、改めて魅了され・・。

2012-03-16 15:35:17 | 映画・テレビ
私はいつものようにスーパーで買い物し、帰宅したら、
家内は居間でテレビを視聴していた。

私は何気なしにテレビ画面を見たら、
女優のメリル・ストリープさんが映し出されていて、
どうしてなの、と思いながら、
齢ばかり重ねた67歳の私でも、しばらく見惚(みとれ)れていた・・。
そして思いがけないプレゼントを頂いたので、
今日は『大吉』かしら、と私は勝手に解釈して、高揚しながら見たりした。

そしてテレビ朝日の『徹子の部屋』の番組に於いて、インタピューを受けられていると解った。
昨今、最新作の英国初の女性首相マーガレット・サッチャーを演じた『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』で、
アメリカのアカデミー賞の主演女優賞に輝いたことは知っていたので、
この映画の宣伝で来日されて、
たまたま『徹子の部屋』に出演されている、と私なりに理解した。

私は映画を鑑賞するの好きなひとりであるが、
ここ10数年の作品は殆ど観ていないが、
古き良き時代の20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したりしている。

居間にあるビデオテープ、DVDの1000作品くらいある映画棚から、
ときおり抜き出して鑑賞している。

私は小学4年生の1955〈昭和30〉年の頃から、
独りで映画館に通い映画に圧倒的に魅了され、数多くの作品を鑑賞した映画少年で、
このことが原因で、やがて大学に入学しても熱愛が変わらず、
そして映画の脚本家になりたくて、中退し、映画青年の真似事をしたりした。

その後、文學青年の真似事に転じたが、数年後には挫折して、
やむなく民間会社に中途入社したのは、1970〈昭和45〉年の春であった。

数多くの方と同様にサラリーマンの多忙な生活を過ごし、
定年退職となったのは2004〈平成16〉年の秋であった。

私の映画青年の真似事を終わるまで、少なくとも邦画は2000作品、
洋画は3000作品を鑑賞してきたが、
その後のサラリーマンの多忙な時に少しは鑑賞してきたが、無念ながら激少した。

この激少した期間に、最も好感した俳優に於いては、男優だったならば、ロバート・デ・ニーロ、
女優はメリル・ストリープであった。

今回、テレビ番組に出演されたメリル・ストリープの容貌、しくさを拝見した後、
この方の出演され映画作品の中から、私が鑑賞してきた作品を思い重ねたりした。

◎『ディア・ハンター』 (1978年)
◎『クレイマー、クレイマー」 (1979年)
◎『ソフィーの選択」 (1982年)
◎『恋におちて』 (1984年)
◎『激流』 (1994年)
◎『マディソン郡の橋」(1995年)
◎『判決前夜/ビフォア・アンド・アフター」(1995年)
◎『ミュージック・オブ・ハート 」(1999年)

確かこのような作品だったと思い、この映画作品の数々のシーンを思い浮かべたりした・・。
もとより、メリル・ストリープさんは、これらの作品以外でも数多く出演され、
長らく第一線で活躍している状況・・20代から60代の今日まで人生を重ねると、
私は脱帽している。

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『吐露(とろ)』と『発露(はつろ)』、そして『自殺(じさつ)』と『自裁(じさい)』、表現について。

2012-03-15 13:00:52 | 定年後の思い
今朝、私はいつものように読売新聞の朝刊を読んでいた。
そして、何気なしに週刊誌の広告の記事があったので、読んだりした。
『週刊新潮』そして『週刊文春』の見出しのフレーズを見て、思わず微苦笑されることが多かったが、
『週刊文春』の見出しのフレーズのひとつを見て、私は小首をかしげた。

《 天皇が吐露された
         雅子さま「ご病状」への懸念 》

このような見出しのフレーズを掲げられていた・・。

確かな天皇陛下が皇太子妃の雅子さまの「ご病状」に懸念を思われるのは、
もとより当然と思われるが、《吐露》の表現の方法はに於いて、
『週刊文春』の記者か取材された契約フリー・ライターか解らないけれど、
もう少し天皇陛下の心情に、お気配りされた表現の方が適切ではなかろうか、
と私は思ったりしたのである。

そして私だったならば、《発露》と綴る、と思ったりした・・。

この後、私はひとつの国語辞典を開いた。
私が二十歳以来から何かと教示を受け、私としては秘かな言霊(ことだま)の恩師となっている辞書である。
久松潜一・監修の『新潮国語辞典 ~現代語・古語~』(新潮社)であり、
発行は1965(昭和40)年11月30日の古い国語辞典である。

《・・
『吐露(とろ)』
    心に思っていることを隠さず述べること。

『発露(はつろ)』
   (古くは露顕・暴露・発覚などと同じく悪い事に用いたが、今は良い事についていう)
    表面にあらわれること。
・・》
このように明記されている。

私は日常生活で心に感じたこと、思索していることなどの良きこと、
悪きことを素直に文章に認(したた)める時、《発露》という言葉で表現している。
《吐露》の場合は、今日に普及している言葉であるが、何かしら《吐く》の語源よりも、
私の感性から、《発露》を使用している。

今回の天皇陛下の思いを表現されれば、《吐く》の語源よりも、
《発露》という言葉の方が適切ではないかしら、と感じたのである。


この事とは、まったく別のことであるが、ここ50年ぐらいの風潮として、
《自殺(じさつ)》という言葉があるが、この言葉に憂いているひとりである。
私の場合は、《自裁(じさい)》という言葉を使用している。

いずれも《 自分で生命を断つこと 》の意味合いは変わらないけれど、
漢字の表現にすると、天と地の差が歴然とする。

ここ幾10数年、警視庁が発表されるニュースのひとつに、
《 昨年一年間の全国の自殺した人は
      動機の多くは、借金苦や生活苦などが多くは・・》
このような新聞記事などで見るたびに、私はやりきれなくなる。

自殺者、とサブ・タイトルにも書かれていたが、
私は無神経な記事を書く人多くなった、と嘆いたりするひとりである。

私としては、ご当人としてやむにやまれなく命を絶った人に、自裁、
少なくとも生前への尊びの言葉で綴るのが、礼節として必要と思ったりしている。

かって、文藝評論家の江藤淳(えとう・じゅん)氏は晩年は脳梗塞の身であり、
やがて奥様が亡くなった後、まもなくして1999年7月下旬に自裁されたが、
心ある人は、自裁、という言葉で綴っていた、と私は記憶している。

私は新聞などを読んだりしている時、特に定年退職前の現役の諸兄諸姉の1部のお方が、
人生のなかばで、命をみずから絶たれるのは、私は悲しく、辛いのである・・。

私は民間会社の中小業に勤めていた30代の後期、
次兄が自営業していたのであるが、
経済的な理由で、次兄は自宅の布団の中で、毒物を飲み自裁された・・。

私は次兄が突然に自裁した後、
会社から帰宅するたびに、深夜になると、
居間の外れのテラスの前で腰かけて、茶碗酒を呑みながら、
どうしてそこまで踏み切ったの、と戸惑いながら、ため息をしたりし、
前方のモミジの樹木に問いかけは、涙ぐんだりした・・。

そして10日ばかり過ぎた頃、私なりに次兄の追い詰められた心情を
遅ればせながら私になりに了解したりした。

こうした私なりの体験もさることながら、
どのお方にしても生前への尊びがあり、私は自裁という言葉で表現している。


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ブロクの投稿文さえも、それぞれの個性を秘めた独創性に、私は圧倒的に魅了され・・。

2012-03-14 17:36:18 | 定年後の思い
私は先ほど、【Yahoo! JAPAN】の『雑誌』コーナーを見て、
ひとつの記事のタイトルに思わず興味されて、最後まで読んでしまった・・。

『雑巾がけも楽しくなるポジティブ心理資本とは』と題された記事であり、
東京大学大学総合教育研究センター准教授の中原 淳さんが、
ビジネス総合情報誌として名高い『プレジデント』に寄稿された文である。

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20120314-00000001-president-bus_all
☆【Yahoo! JAPAN】<==『プレジデント』
      中原淳 東京大学大学総合教育研究センター准教授 『雑巾がけも楽しくなるポジティブ心理資本とは』 ☆

私は民間会社を定年退職した年金生活をしている8年生の身であるが、
昨今のビジネスの問題、そして提起に多々教示をされた。

こうした中で、私が一番関心させられたのは、
《・・
第三に、自分自身の業務経験を「ひとつのストーリー」として語れるようにしておくことです。

いまの社会は多くの物事が、コピー&ペーストできてしまう社会だといえます。
その中では、資格のようなポータブルなスキルはあまり役に立ちません。
他者との差異化の源泉となるのは、コピー&ペーストできないものだけです。
その一つが「ストーリー化された経験」でしょう。

人がやっていない新しい仕事に挑戦することは大切です。
しかし、挑戦ばかりしていても、経験はストーリーになりません。
折りにふれて、自らの業務経験をふりかえり、
それを「一つのストーリー」としてまとめることが重要です。

それは、「いろんな仕事をしてきたけれど、
結局、仕事人生を通じて追求したかったこと、大切にしてきたことは何か」ということを見出す作業です。
私も大学に勤める研究者として、自分のこれまでの研究を振り返る時間を意識的につくるようにしています。
・・》

この一節は、もとより今後のヒジネスの提起であるが、
こうしたことは小説、詩、映画、テレビのシナリオライター、
或いは音楽の作詞・作曲など創作者をめざす方たち、
そして誰でも投稿の機会のあるブログの投稿文でも、
同様と私は受け止めたのである。

私は多くの方が綴られる内容、受け止め方が、
工業製品のように均一化された金太郎飴では、困るのである。

私の苦手な言葉のひとつに、《世界に一つだけの花》とあるが、
それぞれの方の個性を秘めた独創性の思いが、発露された内容に、
私は圧倒的に魅了される。

ここ一年半ばかり私が読んできたブログの投稿文の中で、
その人なりの独創性ある思いに、私は瞬時に魅了されて愛読者のひとりとなり、
少なくとも、この一年は読み続けている・・。

こうした人に私は感謝を致したく、あえて私のサイトに於いて、
《ブックマーク》に掲げたりしている。


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『ちょこっと共済』保険、年金生活の私たち夫婦の外出時の『お守り』代りにして、早や7年となり・・。

2012-03-14 10:54:47 | 定年後の思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みに住む67歳の身であるが、
2004(平成16)年の秋に定年退職した後、年金生活を始めた。

この後、保険関係をすべて見直して、現役時代より生命保険、死亡保険、医療保険、傷害保険、火災保険等を
ほぼ半減に修正した。

まもなく、東京都の住民である私は、わずかな掛け捨てで、
交通災害保険を知り、加入した。

『ちょこっと共済』と称された可愛らしい名称で、
自動車、電車、船舶、航空機などの交通機関で、万一交通事故に遭われた時、
わずかであるが保証される保険である。

この当時の私の記憶に寄れば、
《 みんなで一緒。ちょこっとサイズのたしかな安心
                 小さな交通事故もカバーします! 》
と明示されて、
例えばひとり年額1000円の保険料で
不幸にして最悪の死亡となった場合は、300万円の見舞金が受け取れる保険である。
http://www.ctv-tokyo.or.jp/kotu/chokotto/index.html
☆『東京市町村総合組合』ホームページ<== 『ちょこっと共済』☆


私は定年退職後は、反射神経が鈍(にぶ)くなった感じ、その上に小心者の為、
万一、交通事故で人さまに傷つけたりして、お互いに心身の傷を残すので、
自動車の運転免許証の更新を取りやめて、自動車の運転を断念した身である。

こうした中で、公共交通機関に恵まれた地域であるが、
何よりも歩くことが健康の源〈みなもと〉と確信している私は、買い物、散策などで、
歩いたりしている。
駅までの15分前後の道のりも、冠婚葬祭、旅行などの時以外は、
バスなどに頼らず、ひたすら歩いたりしてきている。

家内も62歳となった今、栄養剤の薬に頼らず歩くことが何よりだわ、
と遅ればせながら昨今目覚めて、私たち夫婦は遊歩道、大通りの歩道を歩いたりしている。

年金生活を私が始めた時、大通りの歩道を自転車で疾走する下校時の学生、
買い物の主婦など、中には携帯電話を話すたり、見たりする方たちがいていた。
或いは、我が家の近くの大通り、そして住宅街でも、
特に高齢者の方が覚束ない自動車を運転される方たちを見かけたりしてきた。

こうした状況を見かけてきた私は、万一、交通事故に事故に遭遇した時の用心として、
この後に、『ちょこっと共済』加入した。

そして、私たち夫婦は国内旅行が共通の趣味のひとつなので、
旅行先で万一交通事故に巻き込まれた時のことを配慮したりした。

私たち夫婦は、それぞれが毎年1000円ほどの掛け捨て保険をして、
確かに若き時代よりも、身体は衰え、少しボケを感じることもあり、
外出の時のお守り代わりに加入して、早や7年を迎えている。

この間、『ちょこっと共済』のお守りの効力の為か、
幸いにして私たち夫婦は交通事故に遭遇しないで、無事に今日に至っている。

そして、この『ちょこっと共済』は、それぞれの都道府県別の自治体で、
運営管理されている、と私は風の噂として聞いたりしている。


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私はB型、家内はA型、風変わりなカップルであるが、まもなく37年目の春を迎え・・。

2012-03-13 07:19:42 | 定年後の思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市の隣接した調布市の片隅みに住む年金生活の67歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のように独りでスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

定年前の私は、現役時代のサラリーマンの時は数多くの人たちと同様に多忙で、
家内は専守防衛長官の専業主婦であり、日常の洗濯、買い物、料理、掃除などで、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などの時間で過ごしてきたので、
定年後の年金生活を始めた私としては、このペースを崩したくなくなったのである。

私はときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしているが、
家内は私がパソコンに向っていることは解っているが、内容に興味はなく、
飽きずにしているわ、と苦笑している。

そして年金生活を始めた私としては、家内は相変わらず洗濯、掃除、そして料理などをしているので、
もとより家内の方が負担が多いので、私は茶坊主に徹している。

1年の大半は私の方が目覚めるのが早いので、
コーヒーをマグカップに淹れて、家内の枕元に置いたりしている。

私は家内に、日に少なくとも6回ぐらいは、
さりげなくコーヒー、煎茶を淹れたりしているので、
茶坊主にふさわしい、と思ったりしている。。


家内は血液型がA型のせいか、
私から見れば掃除、洗濯、料理などを完璧にするタイプである。

私はB型の血液らしく、何事もアバウトであるが、
好きな事に関しては1食抜いても、大差がないと思っているタイプである。

私たち夫婦は、お互いの趣味の世界には、介入せず尊重している。
私たちは、いずれどちらかが独り身となった時、
趣味の世界があれば、それなりに生きがいを失うことなく過ごせると思っている。

共通の趣味は国内旅行であるが、こうした時は共有する時間が多いが、
多少の差異があったりする。

家内は、和菓子屋で煎茶か抹茶を頂きながら、
その地の銘菓を味わうのが趣味のひとつであるが、
私は家内に準拠して、その地の文化のひとつを享受したりしている。

旅先から帰宅後、買い求めた地酒を呑みながら、家内が選定してきたその地の食べ物を頂だき、
旅先の風土に思い馳(はせ)せながら、まぎれない文化のひとつである、
と家内に話しかけたりしている。

『XXちゃんさぁ・・先ほどの食べ物・・イマイチであるが、
これは絶品だょ・・奥が深いょ・・』
と私は家内に言ったりしている。

家内は、私の独断と偏見の悪い癖がはじまったわ、と苦笑している。


私は日中のひととき、買物に行ったり、散策をする以外は、
居間にいることが多く、ときには本棚をぼんやりと見る時もある・・。

私のパソコンを置いてある机の後方には、少し大きめの本棚が2本ある。
この本棚の最上段には最も敬意している本を置いている。

『世阿弥芸術論集』(新潮日本古典集成)、
栗山理一・編の『日本文学における美の構造』、
北 一明・著の『ある伝統美への反逆』、
上田三四二・著の『この世 この生~西行・良寛・明恵・道元~』、
安田章生・著の『西行』、
中野孝次・著の『西行の花』などの単行本が並んでいるが、
先ほどの背後の本を眺めていたら、配置の順番が変わっていなく、
永久欠番のようだ、と微苦笑することもある。

私は高校に入学して、突然に読書の底知れぬ魔力に魅了されて、
映画・文学青年の真似事をした時期もあったので、
この間に友人に上げたり、月刊の雑誌などは捨てるようにしてきたが、
結果として高校時代より買い求めた5000冊前後の本となり、
書庫の本棚や押入れに入れたりしている。

そして昨年の東大日本震災後、本格的に本の整理をし、
やむなく2000冊を処分したが、3000冊は残している。
この中には、私の青年期に定職に就かず、食事を抜いて買い求めた本もある。


こうした中で、居間の本棚は本を並列に置いてある前の15センチぐらいのスペースに、
家内がディズニーランド、シーなどで買い求めたキャラクター・グッズが、
ここ10数年置いてある。
もとより家内が置いたのであるが、ミッキー・マウスなどが、ちょこんと居座っている。

ときおり私は苦笑しながら、私の苦手のディズニーのキャラクター品を見詰めたりすることもある。

そして私は、人生を過ごし生活を共にするには、ときには妥協も必要、
と心の中で呟(つぶや)く時もある・・。


遥か遠い昔、1975(昭和50)年、私は家内と交際して婚約する前の頃、
家内は茶事を中学生から習い続けていたことに好感し、
私は無知な和事を少し学べるかしら、と秘かに微笑んだりしていた・・。

そして翌年の春に結婚日が近づくと、
新居の賃貸マンションの一室に、私たちはお互いに荷物を運び入れたりしていた。

この時に、家内の荷物の中から、数多くの茶道具は予期し、
私は家内と共に、梱包された箱から取りだしたりしていた・
その後、もとより衣服などの箱もあり、そうした箱の横に、ひとつの箱があった。

そして家内は嬉しげに、この箱を開けたら、
何故かしら10センチぐらいの背丈のミッキー・マウスを見た時は、
私は驚きながら、
『俺・・知らなかったよ・・聞いてもいなかったし・・』
と私は小声で家内に呟(つぶ)やき、そして溜息をしたのである。


私は家内と結婚して、まもなく37年目を迎えるが、
私の結婚生活で、何より最大の誤算は、家内がディズニーのキャラクター品が好きである、
という現実である。
私は、ネズミを変貌させたミッキーなどが、どうして可愛らしいか、
いまだにわからない。

もっとも私は幼年期から犬、猫も苦手な身であり、植物をこよなく愛し、
植物園だったならば、日参しても苦にならない。
しかし家内は動物大好きで、遠い北海道の旭山動物園に、
私たちは3度も遠征し、私はお供で付き合わされた。

このように私たち夫婦は、風変わりなカップルであるが、
離婚騒動もなく、一年に一度ぐらいは、夏季のクーラーの冷気で険悪となったぐらいである。
家内は冷気が苦手で、私は何よりも熱さが苦手で、クーラー大好きなタイプなので、
私の現役時代には、毎年の夏の初めの頃に、冷たい戦争があったりした。

定年後の私は体力も衰え、なぜかしら家内に従順となり、
『ハイ! XXちゃんのおしゃる通りです!』
と私は自衛隊の若き諸兄に負けないように明るい声で、家内に応えている。


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NHKのBS『人生のロングトレイル ~現代のアメリカ人の心の旅』を視聴し、心の浄化をされ・・。

2012-03-12 14:59:49 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
この一週間は、東日本震災と福島原発に関して、
購読している読売新聞を精読したり、NHKテレビのドキュメンタリーの番組を多く視聴したりしてきた。
この間、『文藝春秋』の3月臨時増刊号として、
『3.11から一年 100人の作家の言葉』を購読したりしてきた。

そして、昨夜の深夜、『文藝春秋』の4月号の中で、
読み残した猪瀬直樹(いのせ・なおき)氏の『東京電力の研究』を読んだりした。
氏は東京都副知事をされ、ノンフェクション作家であり、
副題として《 埋蔵金は必ずある 》、《 膨張するファミリー企業にメスを入れよ 》、
と掲げられ寄稿文である。

改めて多々教示されたが、戦後の経済発展に電力の安定した供給の責務に、
電力各社は多大に貢献をしたことは、まぎれない事実でもある。
しかしながら、原子力に安全神話を作り上げ、危惧される方は排除してきた原子力村の仲良しグループ
(文部科学省の『資源エネルギー庁』、経済産業省の『原子力安全・保安院』の基で、
電力会社などの規制・審査権の権限を保有)に於いて、省内利益の拡大、
そして協調してきた電力会社は、独占地域の基で、国民に対して余りに甘えて、
権限と業容の拡大と利益に邁進してきた。

こうした中で、東電グループの諸兄諸姉は、稀にみる優遇な恩恵を受けてきた。
福島第一原子力発電所で事故が発生、その後も相次ぐ事故に関して、主要国の諸国まで注視された中、
私は恐れていた周辺の一時避難、放射能洪水してきた一年、
これまで職務に携わってきて、特に退職された東電グループのOBの諸兄諸姉は、
この一年、安眠をされているのかしら、と小心者の私は思ったりした。

このようなことを考えても、私も無力ながら、このサイトに福島原発に関して、
無学なりに数多く投稿してきたが、むなしさを感じながら深夜の2時に布団にもぐった。

今朝、7時半過ぎに起きだして、ぼんやりとひとときを過ごした。

その後、居間で家内と遅い朝食を頂く頂いた後、家内はテレビを視聴した、
私は茶坊主のひとりであるので、コーヒーを淹れて、家内の手元に運んだ後、
何気なしにテレビを見て、森林の中をひとりの男が歩いていたので、
この情景に見惚れて、私はこの番組を途中からであったが、視聴した・・。

NHKのBS『人生のロングトレイル ~現代のアメリカ人の心の旅』と題された番組であった。

アメリカの東部にあるアパラチ山脈の全長3500キロ、
この長い森林の中に『アパラチアン・トレイル』と称された山道があり、
圧倒的に自然が息づく深い森となり、ロング・トレイルとなっている。

このロング・トレイルを半年ぐらい歩く過酷な旅であり、
スルーハイク(Thru-Hike)と称されている言葉を、私は初めて教えられ、
過ぎし大戦後の60数年、次第にアメリカ人の間では増えている、とのこと。

こうした中で、解説の寄れば、《・・失業や離婚、戦争からの帰還など、人生の転機に際し、
自分自身の生き方を見つめ直し、新たな目標をつかもうとする人々だ。
荒々しくも美しい自然の中、それぞれの人生をかけた現代アメリカ人の心の旅を追う・・》
という内容である。

この中のひとりは、1970年に海兵隊に入ったが、事務方に配属され、
多くの友人、知人がベトナム戦争で亡くなったり、帰還兵には後ろめたい辛い長い期間を過ごした後、
裸足でロング・トレイルを歩き続ける・・。
この男は、ベトナムに派遣される直前に、
自分は人を撃ち殺すことはできない、と上官に抗弁して、
結果としてはベトナム戦場に派遣を免れた体験も告白したりした・・。

番組は、それぞれの人の思いを発露されながら、展開していく。

私は番組を視聴した後、主庭にあるテラスに降り、
白梅は遅ればせながら、三分咲きを見つめたり、
紅梅は3輪ばかり咲いているのを長らく見つめたりしていた。

こうした中で、玄関庭の白梅は満開となった情景も思い重ねたりし、
世の中の心の節度を失くされた人たちは、彼方の出来事と思えたりした。


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大震災から一年、無力な私は哀悼を秘めながら、過ぎし日々に読んできた本は・・。

2012-03-11 08:10:37 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
洗面した後、主庭のテラスに下り立ったのは、朝の7時過ぎであった。

そして襟を正して、
北の岩手県、宮城県、そして福島県の方面に向かい、手を合わせながら黙祷した・・。

もとより昨年の2011年3月11日のこの日、
観測史上最大の地震の東日本巨大地震に伴い、岩手県、宮城県、福島県などの太平洋の沿岸に、
大津波が発生して壊滅的な大惨事となった。

その上、福島第一原子力発電所で事故が発生、その後も相次ぐ事故に関して、主要国の諸国まで注視された。
そして、私は恐れていた周辺の一時避難、その上に農作物、畜産、水産、
農地、牧草地、森林、水の汚染などに影響をもたらした。

私はテレビでNHKニュースを視聴したり、
新聞、ネットでニュースを読み、各地域で甚大な災害に、知るたびに動顚したりした・・。
この間、大惨事の被災した地域で、亡くなわれるた方が日ごとに増え、
私はただ呆然としながら、犠牲者の多数に悲しみに、ときおり黙祷をしたりしてきた。
そして特に、行方不明となられた方、せめてご遺体だけは、ご遺族のお手元に、と思ったりしてきた。


このような思いで、無力な私でも、その後の日常は、
テレビでNHKニュースを視聴したり、読売新聞を読んだりして、
この大惨事に関して、本を買い求めて、読んだりしてきた。

6月下旬に、ノンフィクション作家の佐野眞一(さの・しんいち)氏の著作『津波と原発』(講談社)、
武田邦彦(たけだ・くにひこ)氏の著作『エネルギーと原発のウソをすべて話そう』(産経新聞出版)
9月中旬に、作家・曽野綾子(その・あやこ)氏の著作『揺れる大地に立って ~東日本大震災の個人的な記録~』〈扶桑社)
この三冊の単行本を精読した。
そして昨今は、『文藝春秋』の3月臨時増刊号として、
『3.11から一年 100人の作家の言葉』を購読したりしてきた。

この間、月刊総合雑誌の『文藝春秋』は、定期購読していたり、
特集に関心があった時、月刊総合雑誌の『中央公論』、『新潮45』などを買い求めたり、
藤原正彦(ふじわら・まさひこ)氏・著作『管見妄語 始末に困る人』(新潮社)、
佐野眞一〈さの・しんいち〉氏の・著作『劇薬時評 ~テレビで読み解くニッポンの了見~』(筑摩書房)、
もとより時事批評文も掲載されているので、多々教示されてきた。


東日本震災と福島原発には、無力な私でも動顚しながら、
心の片隅みに深い痛手が、今でも残ったりしている。
佐野眞一〈さの・しんいち〉氏の『劇薬時評 ~テレビで読み解くニッポンの了見~』(筑摩書房)の中の一節を引用すれば、
《 津波と放射能洪水は、従来の常識をすべて押し流した 》
こうした明記されたことに、確かにそうですよねぇ、と同意を深め、
心の根底に秘めながら、過ごしてきた。

尚、私もこのサイトに東日本震災と福島原発に関して、
無学なりに数多く投稿してきたが、重複をさける為に省略する。

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ビートルズの『イエスタディー』、突出した青春の日々の愛惜歌、と私は確信を深め・・。

2012-03-10 07:28:02 | 定年後の思い
ビートルズの数多くの名曲の中に、『イエスタディー』がある。

確か1966(昭和41)年の初めの頃だったと思われるが、
1948〈昭和23〉年生まれの妹がビートルズに熱愛して、
数多くのレコードを買い求めて、盛んに聴いていたので、
たまたま私はこの曲を知った・・。

この頃の私は、大学を中退し、映画、文学青年の真似事をしていて、
食寝を忘れるくらいに映画作品を映画館で観たり、
小説の数多くの作品を読みふけっていたので、音楽を聴く余裕もなかった時だった。

ときおり妹が生家の応接間にあるステレオで、
ビートルズを大きな音量で聴いていても、
私はうるさいと感じながら、騒音のような音楽としか聴こえてこなかった。

こうした中のある時、メロディー・ラインが良く、英語の詩も良い、と直感した曲が、
この後に、妹から曲名を教えて貰ったのが『イエスタディー』であった。

その後、妹はビートルズが1966(昭和41)年の6月下旬に来日公演の時、
学校では禁止されていたが、無視して何とか日本武道館に行って、
公演には満足した、と私に言ったりしていた。

このように妹は、団塊世代でこの当時は高校の初めの頃であったから、
何事も一番感化されやすい時であるので、
音楽面はたまたまビートルズに熱中した、と思われる。

私は二十歳を過ぎたせいか、或いは映画・文学に熱愛していたので、
音楽を聴く余裕もない時でもあり、ビートルズからは音楽の影響は受けなかった。


その後、私が1970(昭和45)年にある民間会社に中途入社して、
音楽のポピュラーとして影響を受けたのは、
サイモン&ガーファンクルの『スカボロー・フェア』、『明日に架ける橋』等の一連であった。

私は音楽に関しては楽譜も読めない素人であり、つたない感性を頼りに聴いたりしているが、
もとよりメロディーも大切であるが、
このアーティストは、何を伝えたいのか、という命題を重要視するので、
作詞を優先するひとりである。

まもなくして、私はシャンソンの世界にに魅せられ、
百枚程度のアルバムを買い求めたりし、聴き込んだりしていたが、
特にシャルル・アズナヴールには魅了させられた。
ある程度の大人の年齢になり、若き日の青年時代の愛惜を秘めた『帰り来ぬ青春』(1964年)、
そして『遠い想い出』(1971年)は、友人たちに絶賛したりした。

このような時に、ビートルズの『イエスタディー』(1965年)が甦(よみがえ)ってきた。
そしてビートルズのメンバーが、
あの若い時に《青春時代》を凝縮させた表現出来たのは、
天才という言葉以外は見つからず、唖然とさせられながら、絶賛した。

この『イエスタディー』の曲は、世界の著名の歌手に多く歌われ、
日本に於いても名のある歌手も多く取り上げていた。

私は、少なくとも10人以上の歌い手のレコード、カセット、
その後はCDで聴いて、今日に至っている。


こうした間に、映画の『ワンス・アホン・ア・タイム・イン・アメリカ』(1984年)に於いて、
ロバート・デ・ニーロが扮する主人公が駅構内で過去を回想するシーンに、
この曲が流れた・・。
私はこの感性には思わず(うな)り、そして瞬時に魅了された。

映画の音楽は、このように使うと映画の画面が引き立ち、
効果のある見本でもある。

このことは、監督・脚本のセルジオ・レオーネ、
そして音楽のエンニオ・モリコーネの功績であるのは、いうまでもない。

私はビートルズからは影響は受けてはいないが、
このたった一曲の『イエスタディー』の曲だけは、
最初に聴いてから、突出した青春の日々の愛惜歌である、とここ45年絶賛しているひとりである。


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私のブログ発信名称『夢逢人』の命名した発想、そして秘かな願いは・・。

2012-03-09 12:21:56 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
定年退職した2004〈平成16〉年の秋であった。

そしてまもなくブログの世界を知り、パソコンの故障、旅行で不在でない限り、
パソコンの故障、旅行で不在でない限り、
毎日投稿してきたので、習性になってしまったかのように投稿を重ねてきた・・。

ブログの多くは匿名制度であり、ある程度の良識を根底に於けば、
自在に私の生活のことから、無知なりに政治の分野まで発露でき、
何より従来のホームページ形式より手軽に開設、運営できると思ったりした。

そして私は、2004年(平成16)年11月12日に【アメーバ・ブログ】に加入し、
『極楽とんぼ~団塊世代のひとりとして~』とタイトルを掲げ、
『kaze-hikari』という発信名で投稿をはじめた。

私は初めてブログの世界に入り、【アメーバ・ブログ】に加入した時、
タイトル名は私なりのブログ・サイトで要(かなめ)をなすこと思え、
深く思案したりした。

結果として、『極楽とんぼ』と命名することとした。
ひとつの根拠は、他のサイトで綴ったが、私の幼年期からの深い想いでがあった。

私が小学校に入学したのは、1951〈昭和26)年の春だった。
東京の郊外の調布市であるが、この頃は田畑、雑木林が圧倒的に多く、
緑豊かな町村であった。

私は長兄、次兄に続いて生を受けた3男坊で、
祖父と父は女の子を期待していたらしく、私は幼児なりに何となく感じていたのか、
いじけた可愛げのない子の上、無口であった。

兄の2人は学校の成績が良く、私は通信簿を頂くたびに、
お兄さんの2人は優秀だったのに、
と担任の女の先生がため息まじりに云われたりしていた。

私が下校で独りぼっちで歩いて帰る時、
或いは家の留守番をしている時は、

♪笛にうかれて 逆立ちすれば
 山が見えます ふるさとの
 わたしゃ孤児(みなしご) 街道ぐらし

【 『越後獅子の唄』 作詞・西條八十  】

私は何となくこの歌に魅了されて、唄っていた。
唄い終わると、何故かしら悲しくなり、涙を浮かべることが多かった。

そして、私が気分が良い時は、
私は街の子、田舎の子・・、
と勝手に『私は街の子』を変更して、唄ったりしていた。

このように、この『越後獅子の唄』の名曲の悲しげな歌の裏返しの思考、
そして小説家・山口 瞳(やまぐち・ひとみ)・著の『還暦老人極楽蜻蛉』から拝借し、
定年退職後の自由自在でブログの世界で綴ってみたい、秘かな思いであった・・。


【アメーバ・ブログ】に投稿を初め、
コメントを頂き、私なりに喜びであり、コメントをして頂いたお方の日記に、
私も盛んにコメントを書き込みをしたりした。

ただ、【アメーバ・ブログ】の日記投稿欄の書き込み、送信に、
たびたびエラーなどが発生し、初心者として技量もなく、
何度も書き直し投稿をしたりした。

その上、各部門による賞金制度が設置されていたので、困惑し、
私は他ブログ・サイトを探した。


そしてブログに準じたサイトの【goo簡単ホームページ】を知り、
『風のように光のように』とタイトルを掲げて、入会したのは11月17日であった。

これ以降、2つのサイトが並行として投稿し、1ヶ月を過ぎた頃、
【アメーバー・ブログ】の投稿を中止し、
【すくすくブログ】に『極楽とんぼの奮闘記』とタイトルを掲げ、
『yumide』の発信名で、極楽とんぼシリーズを移管した。


私は【すくすくブログ】の加入した短い間、
この当時、人気の漫才コンビに『極楽とんぼ』の存在を知り、
1部のお方から誤解されたり、
その後、この人気コンビのひとりが女性に不祥事を起こしたりしたので、
私は『極楽とんぼ』の命名の由来を明示した通り、
何かしら60数年の心の純潔を汚されたようで、憂鬱な心が、しばらく続いたりした。

その後、私は【すくすくブログ】は投稿を中止し、
この当時、百万人以上加入している大手のブログ・サイトの【gooブログ】に、
恐れながら移行した。

『続・極楽とんぼ』とタイトルを掲げ、社会、経済、政治の諸問題を無邪気に投稿し、
『yumede-ai』の発信名とした。

この後、【goo簡単ホームページ】、で、
しかし、この分野に専門知識のない素人の私にとっては、
ほころびも感じはじめ、一年半ほどで中断した。

やはり力量と筆力に乏しい私にとっては、
ふたつのブログ・サイトで全く違った分野を併行に投稿し、
コメントを返信するのは、日常の時間が余りにもとられ、
肝要の読書の時間も少なくなり、ひとつだけ残すこととした。


そしてこの当時の私の本命の【goo簡単ホームページ】で、
肝要のブログ管理元ま閉鎖される2007年の9月までの加入し、
この後は【OCN Cafe】に加入したりした。

この間、2008年の春先から、少し悩んだりした・・。
定年退職後の3年半、このように4つのブログ系のサイトに加入して書き散らしてきたが、
4月の初めに、振り返った時、何かしら鍋物の《ごった煮》のような思い、
ひとつのブログ【gooブログ】の『年金青年のたわむれ記~かりそめ草紙~』に、
今まで書き散らかした投稿文3000通前後を整理、統合しはじめたりした・・。

そして本格的に2008年4月中旬から開始し、
私が幼少時代から年金生活までの生きてきた心の軌跡であり、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)の残したいからである。

私の【OCN Cafe】の『風のように光のように』は、
あたかも新聞の当日分のような存在であり、
余程のことがない限り、過ぎ去った投稿文はわざわざ読んでくれない、
と改めて認識したのである。

そして、集約した【gooブログ】の『年金青年のたわむれ記~かりそめ草紙~』に於いては、
カテゴリーのジャンル別に改めて編集した。
そして区分した結果として、あたかも14冊の旧刊本が並んでいると思いながら、
どの本の中で、一編読んでも、もとより私なりの愛惜を秘めたりしている。

そして併設していた【OCN Cafe】の『風のように光のように』(のちに『風、そして光のように』と改題)は、
2010年7月で中止し、
これ以来【gooブログ】の『年金青年のたわむれ記~かりそめ草紙~』として、
本年の初めの頃に、いつまでも《年金青年》ではないと思い、
『夢逢人たわむれ記~かりそめ草紙~』とタイトルを改称している。

そして発信名だけは、2005(平成17)年の春過ぎの頃から『yumede-ai』として、
長らく継続している。

この『夢逢人(yumede-ai)』の発想に関して、恥ずかしながら初めて記載する。


私の若き頃の高校生の2年になった1961〈昭和36〉年4月過ぎ、
生家の居間で、次兄と共に何気なしにテレビを視聴していた。

すらっとした大人の女性が、上半身を右に傾けてお辞儀をされて司会をされ、
何かしら毎回のテーマに基づいて、これに伴いショートコントが展開したり、
その間に踊りやジャズ演奏、外国曲の歌唱などがあった、
とぼんやりと記憶している。

この番組はNHKの『夢であいましょう』であり、番組の内容もさることながら、
何よりも司会をされた中嶋弘子さんの都会の大人の麗人のしぐさ、顔立ち、声質に、
圧倒的に魅了されて、私は見惚れていたのである。

この後、何故かしら中嶋弘子さんは降板され、この後は苦手な黒柳徹子さんが司会をされたので、
これ以降、私は『夢であいましょう』を視聴をやめた。
そして私は17歳であったが、中嶋弘子さんに関して、高嶺の花のあこがれの君のような存在となり、
長らく私の心の片隅みに残影し、今でも残っている。


私はブログの投稿文を綴ることに内容は、誰しも光と影を有しているので、
つたない私でも書くことのためらう影の内容もある。
たとえば幼児の時は、いじけたことが多く、小・中学生は通信簿『2』と『3』の多い劣等生であり、
文学青年の真似事した時期、新人賞に3回応募したが落選した、
或いは母は生まれてまもなく里子にだされて、やがて私たち兄妹の母親となった・・など、
多々、私なりに屈折した出来事を余すことなく投稿してきた。

このことは匿名であることで発露できたことであり、
心のわだかまりを吐露しなければ、私としては一歩先でも進めない時もあったりした。
このような心のうめごきをリアルな現実の日常生活では、
たとえ私が言葉にしても、対人の受け止めることに困り果てることもある、と感じたりした。

小説、随筆などは、あくまで間接のワンクションンとして読者は受け止めることができ、
ブログの匿名で公開する内容も、ある意味合いでは同じかしら、と思ったりしている。


このような理由も重ねて、私は『夢逢人』と命名したのである。
私の綴ってきたことは、まぎれなく私の知る限り真実を発露してきたので、
リアルな現実でお逢いするのは、私の心の裸身を見られたようで恥ずかしく、
もじどおり、夢の世界でお逢いしたいですね、と思いながら命名したのである。


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私の幼年期のある日、危篤の状況となり、この世と別れの宣告をされ、やがて蘇生して・・。

2012-03-08 07:20:07 | 幼年・少年時代の想いで
私は東京郊外の世田谷区に隣接した北多摩郡神代町(現・調布市)で、
1944〈昭和19)年の秋にに農家の子として生を受けた。
この当時の生家の地域に於いては、田畑、竹林、雑木林が圧倒的に多く、緑豊かな町村であり、
生家は祖父と父が中心となって、程々に広い田畑を小作人だった人たちの手を借りて、耕していた。

私は長兄、次兄に続いて生を受けた3男坊となったが、
この当時は戦時中で、食糧、医療条件が乏しく、やむなく病死することもあったが、
跡継ぎの候補は、兄ふたりのいずれかとなって、万全と思え、
このような中で、祖父と父は三番目の児として女の子を期待していた思いがあった。

やがて、私の下に1947(昭和22)年1月に2歳下の妹が生まれ、
祖父と父は、女の子を待ち焦がれたように溺愛し、
私は幼児なりに疎外されたように感じで過ごしていたが、
いじけた可愛げのない子の上、無口であった。

このような状況下で、私は3歳過ぎた時、
風邪をこじらせて肺炎となり、町の内科の医師に来て貰い、
診察を受けたのである。
父と母は、幼児を放置していたかのような状態に、医師から叱咤を受けたりした。

しかしながら、あの頃は敗戦後のまもない時であり、
あの当時の私の地域の農家は、
富山の薬の販売員が、担当地域のそれぞれの家を2ヶ月に1度ぐらいで巡回し、
家庭置き薬として常備薬を配布していた時代であった。

そして家庭の誰かが風邪などの場合は、この常備薬の風邪薬を飲んでいたし、
腹痛、歯の痛みなどは、この常備薬に対応した薬を飲んで、治したりしていた。

まして、あの当時は専門の小児科などは私の住む地域にはなく、
1955〈昭和30)年の頃から、住宅街に変貌して、
初めて小児科の病院が開業された時代であった。


私は医師から診察を受けたが、
熱が高く、ときおり呼吸が困難となり、やがて危篤の状態となった・・。
そして、医師から父と祖父に、
手遅れで治療のしょうもないので、残念ながら、まもなく・・
と宣言された。

この後、やむなく祖父は、親戚のひとりに、
3番めXXX(私の名前)が危篤状態であるが、無念ながら助からない、
と意味合いの言葉を親戚、隣人、知人に伝達するように依頼をしたりした。

私は次第に青ざめ心臓が止まったかのような状況が30分ぐらい続き、
死の淵をさまよう表情に苦悶し、
まもやく祖父と父は断念して、ガーゼを水に浸したのを私の唇につけたのである。

私の住む地域では、古くから医師などにより死の宣告をされると、
家族はもとより兄弟姉妹などをはじめとした近親者が、
ガーゼなどで水に浸し、亡くなった人の唇につけてあげる習慣があり、
長老の言葉に寄れば、『末期の水』と称していた。

そして、母、叔母に続いて、長兄、次兄は、ガーゼを私の唇につけたのである。
この後は、『死に水』と称された、おのおの茶碗に少し水を入れ、
各自が飲んだのである。

このような状況の時、医師が、祖父と父、そして母に向かい、
『残念ながら・・まもなく亡くなると思われますが・・
この注射を最期の手段で・・試みて診(み)ます・・』
と言いながら、強心剤の注射をした。

そして、30分過ぎた頃、私は赤味を取り戻した身体になり、蘇生した・・。


こうしたことは、父は私が小学2年、まもなく祖父も亡くなった後、
まもなく父の妹のひとりの叔母から、私は教えて頂いたことである。

その後、長兄とか次兄に、
私が二十歳になるまで数回、
『XXXの・・死に水・・俺は飲まされた・・』
と苦笑しながら、私に言ったりした。

或いは叔母のひとりが何かの会合の時、
『XXXは・・一度死んだ身なので・・長生きするわょ』
と私に励ましの言葉のような意味合いで、言われたこともあった。


私の父は肝臓を悪化して42歳で亡くなったので、
私は中学生の頃から、父の死の42歳を乗り越える責任がある、と漠然と思ったりした。

やがて私が42歳になった時は、せめて60歳のサラリーマン定年退職までは、
生きる責務を強く感じてきた。

そして、定年退職の5年前の55歳の頃は、
定年後10年間だけは、何とか五体満足に生かして貰らえれば、
あとの70歳以降は余生と思ってきたりした。

このように私は死生観は移り変わってきたが、
もとより死は、天上の神々の采配に寄るものだ、と67歳の今は受け止めている。


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ブログの投稿文、齢を重ねた私でも、言霊(ことだま)の力を信愛し、日々あふれる思いを綴り・・。

2012-03-07 06:36:07 | 定年後の思い
私は中小業の民間会社を35年ばかり勤め、定年退職したのは2004〈平成16〉年の秋であった。
そして、まもなくブログの世界を知った。
その後の私は、各サイトのブログ、ブログ系に加入して投稿をし始めて、早や8年生となっている。

私は定年後に年金生活を始め、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、無念ながら写真、イラスト、絵などに素養もないが、
何より言葉の力を信じて散文のような形式で投稿してきた。

古来、日本は人々の会話の伝達の時代が過ぎた後、
少なくとも飛鳥の時代の頃から言葉を綴り, 日記、随筆、小説、詩、短歌、俳句、
川柳などは文字で表現してきた。

そして、その時代なりに数多くの人々により、
心を思いを満天の星空のように、数多くの文を遺〈のこ〉されて、現世に至っている。


私は確固たる根拠もないが、私なりの拙(つたな)い感性と感覚を頼りに、
できうる限り随筆形式で綴ってみようと、投稿文としている。
そして若き頃に小説の習作のように幾たびか校正することなく、
ブログの投稿文と甘え、一気呵成〈かせい〉に書き上げてしまうことも多い。

しかしながら、その日に応じて、簡単に言葉を紡(つむ)ぐ時もあれば、
言葉がなかなか舞い降りてこなくて、苦心惨憺とすることも多いのが実情でもある・・。

このような時、言霊に対して自己格闘が甘いのかしら、
或いは幼年期からの何かと甘さの多い人生を過ごしてきたから、
このような拙〈つたな〉い文章を綴るしか表現が出来ない、
と深刻に考えたりすることがある。

このような時、私は文章を綴ったのは、少年期の何時頃であったのかしら、
そして、その後は・・と拙(つたな)い我が身を振りかえることもある。


私は東京郊外の世田谷区に隣接した北多摩郡神代町(現・調布市)の片隅みの農家の三男坊として、
1944〈昭和19〉年の秋に生を受けた。

初めて文字を書いたのは、1951〈昭和26〉年の春に、
地元の小学校に入学したからだった・・。
この当時、私の住む村では、幼稚園が設立したのは確か私が小学校3年頃だったと思う。

私は最寄の託児所で2年ばかり通い、小学校に入学したが、
託児所は、文字などは教えることのない時代で、礼儀作法、お遊戯で過ごしていた。

小学校に入学すると、『こくご』の授業で初めて、文字を覚え、
真っ先にひらがなで、私の名前を升目の大きなノートに書いたりしていた。

そして、ひらがな、カナ字、そして漢字を学び、
3年生頃から『さくぶん』の授業で、
この当時に多く利用されていた粗雑な藁〈わら〉半紙で書かされたりした。


この頃に生家にある本と云えば、
農協の発刊する月刊誌の『家の光』ぐらい記憶していなかったので、
小学5年の時、近くに引っ越してきた都心に勤めるサラリーマンの宅に行った時に、
居間にある書棚に本が並んでいたを見た時は、
私は子供心でも、眩暈(めまい)を感じたりした。

この当時も夏休みには、宿題として作文があったが、苦手な私は苦心惨憺で綴ったのは、
今でもほろ苦く覚えている。

私が都心にある高校に入学してから、
遅ればせながら、突然に読書に目覚めて、活字から綴られた底しれぬ内容はもとより、
行間から感じられる深淵に、圧倒的に魅せられた。
そして高校二年の夏に、初めて小説の真似事をし、原稿用紙に習作をしたりした。


東京オリンピックが開催された1964〈昭和39〉年の秋の直前に、
小学4年からの映画少年の影響で、映画の脚本家になりたくて私は大学を中退し、
アルバイト、契約社員をしながら映画青年、やがて文学青年の真似事を4年ばかり過ごした。

この間、演技と演出のある養成所に学び、
やがて、この養成所の講師のひとりが、ある月刊誌の記事の連載を契約していたので、
この講師の下で、私は取材、下書きなどをして、
ノンフェクション・ライター気取りで取材し、指定された原稿用紙に綴り、
講師に手渡し、幾ばくかの金銭を受けたりしていた。

或いは養成所の関係により、アメリカのテレビドラマの準出演を演じたり、
斡旋して下さるアルバイトで生活費を賄〈まかな〉ったりしていた。

そして、講師の知人の新劇のある長老から、小説を書いた方がよいとアドバイスを頂き、
確固たる根拠もなく、独創性はあると思いながら小説の習作したりして、
純文学の新人賞に応募したが、最終候補6編の選考の直前で3回ばかり落選した。

こうした時、お彼岸の懇親の時、親戚の小父さんから、
『今は若いからよいとしても・・30過ぎから・・家族を養えるの・・』
と素朴に叱咤され、私は30歳頃に結婚をして果たして妻子を養っていける自信もなく、
あえなく敗退した。


この後、やむなく大手の企業に中途入社する為に、
コンピュータの専門学校に一年通った後、
何とか音響・映像の大手メーカーに中途入社できたのは、1970〈昭和45〉年の春であった。
その後、この会社の音楽事業本部の大手レーベルが、レコード会社として新設され、
私も異動させられて、管理畑など35年近く勤めて、定年退職時となった。


私は幼年期にたくさんの本のあるサラリーマンの家に生まれ、
学生時代は素直に文学部の国文学を専攻した後、最終として大学教授の国文学関係になった人に、
嫉妬と羨望を感じたりすることもある。

或いは私が読書を中学生の初めの頃、5年早く目覚めれば、
文学部の国文学を専攻した、と文学青年の真似事の習作の時、自責をしたりした。

しかしながら、この世はもとより、どの人も人生は2度とない、と古人からの鉄則通り、
私はやむえず、亡くなわれた小説家のひとりの方が、
マイナスの人生を体験すれば、何よりの言霊の支えになる、
と遺(のこ)された格言を信じて、今後も随筆らしき散文を綴り投稿したりしている。


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作家・南木佳士(なぎ・けいし)氏の発言の一部に、私は考えさせられ、苦笑し・・。

2012-03-06 11:27:08 | 真摯に『文学』を思考する時
過ぎし3日前、たまたま私は読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】を開き、
【本よみうり堂】のコーナーに於いて、作家・南木佳士(なぎ・けいし)氏のデビュー30年に伴い、
読売新聞のインタビューに対しての発言を読んだりしたが、
この発言の一部に、果たして筆一本だけで作家の生活は成り立つかしら、
或いは現在、作家をめざしている若き諸兄諸姉に、
多少なりとも意欲などを削(そ)ぐなどの危惧を与えるのではなかろうか、
と思ったりし、ここ数日、私は考えさせられた・・。

http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20120301-OYT8T00828.htm
☆【YOMIURI ONLINE】<==《デビュー30年 南木佳士さん…表現の欲を越えた悟り》☆

この中で、作家・南木佳士氏の発言の一部に、
《・・
「小説を書き始める根底には、『自分がここにいます』と外に向けて発信したがる過剰な自意識がある。
でも、その『ほかの人と自分は違う』と表現したい欲のために自分は具合を悪くした。
それからは、存在するだけで意味があると思うようになりました」
(略)
「自宅の前は、かつて田んぼでした。
 体調を崩した私は半日で病院を終えて家に帰り、
 原稿を書いていると窓の向こうで、農家が作業をしていた。
 あちらが本当の仕事だな。書くことに特権的な意味はないとつくづく思うようになりました」
・・》
このように発言されて、特に後半部分の発言に、霊感のような感銘させられたが、
前半部分の《・・外に向けて発信したがる過剰な自意識がある・・》
に関しては、もとより創作者の作家はもとより、映画の脚本家、画家、音楽の作詞・作曲家などは必要不可欠であり、
まして、ここ10数年はネットのブログなどで、内容の質が問われない誰でも発信できる状況下である。

もともと作家の場合は、商業ジャーナリズムの状況下の中で、筆一本で妻子を養う家庭生活の中で、
確かな作品を発表するのは理想と思われるが、
特に純文学の世界では稀なケースとなっているのが、昨今50年の実態と思われる。

やむなく大学の教師、氏のように医師と両立させるか、
或いは余技のように随筆を綴り、何とか筆一本で家族を養ってきた阿川弘之、遠藤周作・・氏などがあり、
または丸山誠二氏のような稀なスタンスで、
この間に作品を発表してきているケースもある。

このように私は若き頃に文学青年の真似事をして、あえなく挫折し、
やむなく35年ばかり民間会社に勤めて定年退職し、年金生活の身であるが、
ここ数日、氏の発言の一部に、大いに考えさせられたのである。

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過ぎ去りし昭和30年代に、私が『都電』に乗ったささやかな想いでは・・。

2012-03-05 11:58:17 | 幼年・少年時代の想いで
先ほど、小庭に雨が降る情景をぼんやりと見たりした後、
机の脇にある本棚から一冊の本を取りだして、見たりしていた。
正井泰夫(まさい・やすお)氏が監修された『東京の昭和』(青春出版社)であり、
副題として『図説 地図で暮らしを読む東京の昭和』と題されている。

私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みで、
1944〈昭和19〉年に生を受けた67歳の身であるが、
定年退職した翌年の2007〈平成17〉年の晩秋に、
たまたま本屋で見かけて、懐かしさの余り買い求めた雑誌であった。

先ほど何気なしに《路面電車》のページを読んだりしていて、
そうだったよねぇ、あの頃は都心でも盛んに『都電』が走っていたよ、
と私は心の中で呟(つぶや)いたりした・・。

都心に住む若い世代の人には、都電と綴ってもお解りにならないと思うが、
東京の都心で昭和30年代は路面電車が隈(くま)なく走っていた・・。


私が地元の小学校に入学した19ね51〈昭和26〉年の春、
この頃から母に連れられて京王線の金子駅(現在・つつじが丘駅)から新宿駅まで乗車し、
母はデパートなどで、年に数回ぐらい買い物をしたりしていた。
或いは父の妹の叔母に連れられて、親戚が住んでいる高幡不動駅まで電車に乗ったりしていた。

その後、私は小学4年の頃から、圧倒的に映画に魅せられて、
独りで映画館に行ったりしていたが、あくまで近場の布田駅、調布駅、
或いは千歳烏山駅の映画館であった。

私が小学6年の1957(昭和32)年の時、
次兄から有楽町で洋画のロードショーを観に行こう、と誘われた。

この頃の私は、電車に乗ってきたが、乗り物に酔いやすい少年であった。

次兄に導かれて、私は京王線で新宿駅まで30分前後で到着したが、
何となく気分が悪かったたりした。

新宿駅より西口の地下ガートを通り、確か歌舞伎町の前の大通りの中央に、
都電の新宿駅があり、築地駅、月島(通り8丁目)駅方面に行ったりしていた。
そして私たちは数寄屋橋駅まで利用する為に乗車した。
確かこの当時の都電の電車賃は、終点の築地まで乗っても、13円と記憶している。

私は初めて乗った都電は、一両編成で大通りを走ったが、
自動車も両脇に走って折、繁華街、ビル街が車窓から観え、
その上、都電は揺れるので、気分が悪くなった。
普通の電車のように枕木、砕かれた石などの弛緩材などはなく、
敷石の間に線路を敷いていたので、揺れるのであった。

私は次兄に、
『まだ・・遠いいの・・』
と私は言った。

『もうちょっと・・我慢してよねぇ・・』
と次兄は言った。

次兄が私に言った言葉の中には、一区間が13円で降りたら、もう1度支払う必要があると、
意味合いの言葉が含まれていたので、私なりに我慢をしていた。

私はどんよりとした曇り空り中で、皇居のお堀が観えた頃、
『もう無理だから・・降りよう・・』
と私は次兄に懇願した。

結果として、目指した数寄屋橋駅のひとつ手前の日比谷駅で降りた。

私は青白い顔で次兄に謝(あやま)り、
とぼとぼとお堀端を歩き、数寄屋橋のガートの近くの映画館に到着した。

映画は『朝な夕なに』であったが、
綺麗な白人女性の教師とトランペットを吹く生徒が心に残った。

後年になると、私としては洋画の初めてのロードショーであり、
綺麗な女性はルート・ロイベリックで、
映画の主題歌は『真夜中のブルース』が流行した、と判明した。


こうした私は都電で関して苦い体験をしたので、
この後も都電を観るたびに、苦手意識を持っていた。

その後、私は1960〈昭和35〉年の春、都心の中野にある高校に入学した。
京王線のつつじが丘駅か仙川駅から新宿駅まで乗車した後、
西口が5分ぐらい歩いた先に青梅街道の大通りがあった。

この当時は、この西口の大きなガード下に近い場所に、
新宿駅から荻窪駅までの都電の路線があった。
私は中央線の新宿駅から中野駅まで乗車することがあったが、
大半はこの都電の路線で通学していた。

新宿駅より混雑時には二両連列となり、新宿駅の街並みを離れ、
商店街の情景に変わったが、この区間の沿線に美術短期大学、女子高校等が三校あり、
私は車内で数多くの綺麗なお姉さんに気を取られたせいか、
乗り物酔いなどは忘れ去ってしまった。

私が卒業した1963〈昭和38〉年の春を過ぎて、まもなく地下鉄が開通して、
この区間の都電は廃線となった。

この間、私は青梅街道の都電の新宿駅の近くに『小田急デパート』(現在・小田急ハルク)が
1962〈昭和37〉年に開店したりしていたので、
やがて西口、周辺はどのように変わり果てるのか、私は戸惑いを覚えたりしていた。

そして新宿の西口の郊外にあった淀橋浄水場は移転された後、
後年に西口の高層ビル群、そして都庁も移転してきて新宿副都心として大きく変貌した。


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たかが『かいわれ大根』、されど『かいわれ大根』、私が秘かに愛食するひとつとなり・・。

2012-03-04 09:28:18 | 食べ物、お酒
私は中小業の民間会社に35年ばかり勤め、2004〈平成16〉年の秋に定年退職をした後、
年金生活をしている身である。
この直後から、自主的にな日常の買物を宣言して、早や8年生となっている。

買い物に行く前、いつものように家内がスーパーのチラシに、
サインペンで赤丸の印(しるし)を付け、これが必須の購入品となり、
あとは私が店頭で魅せられた品を買い求めることになっている。

今の時節、野菜売り場なども寄ったりすると、もとより蕪(カブ)、大根(ダイコン)、白菜(ハクサイ)、
キャベツ、ホウレンソウ等を見たりしているが、
三つ葉、春菊、菜の花、独活(ウド)なども見たりしている。

今年の冬は寒気が多く、農作物に多大に影響され、
私の幼年期は農家の児であったせいか、
作ってくださる農家の方は、労苦の成果がなくお気の毒と思ったりしている。
しかしながら、農作物は何より新鮮が優先されるので、鮮度が落ちていると、
晩酌の友が欠けているようで、少し気落ちしたりしている。

こうした時、私は迷わず『かいわれダイコン』に手を伸ばし、
買い求めたりしている・・。


私が『かいわれ大根』を初めて知ったのは、確か25年前の頃で、
家内が購入して、私は頂いた時、この世に最も美味しい食べ物で、確かな味だ、
と私は絶賛の言葉を家内に重ねて言ったりした。
これ以来、私は好きな食べ物のひとつとなっている。

10センチ前後の可愛らしい大根であるが、
それなりの辛味があり、口に含んだ香り、そして辛味が増してくる。
こんな小さな食べ物なのに、それなりの自己主張のある食べ物であり、
一人前に大根の風味、味わいを満喫できるのである。

私が現役時代のサラリーマンの時、上層部の方から、業務改善の指示で、
予算は少なく、早く成果を、と難題を受けたりすると、
帰宅後の晩酌の時、かいわれ大根を食べたりしている。
そして、一寸の虫にも五分の魂、と心の中で呟(つぶや)いて、
ストレス解消としていたこともあったりした。

年金生活の今は、NHKのニュースを見ながら、夕食の時、家内と他愛ない話をしているが多い。、
ときおり政局の混迷のニュースを視聴したりする時、
心の節度の欠けた議員の諸兄諸姉の言動に、
馬鹿なことを・・、有権者から託されたふるまいかょ、恥を知りなさい、
と心の中で呟(つぶや)いたりしている。

こうした時、無力な国民のひとりとして、
かいわれ大根をつまんで、純米酒の辛口を呑んだりしている。

私は恥ずかしながら、ときおりストレスを感じたりする時もあるが、
このような時、かいわれ大根は心身の安定剤の上、何より特有の風味、味わいに魅了され、
食事の際に、一品に付け加えていることが多い。


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