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夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

大和言葉(やまとことば)、齢ばかり重ねた男性の私でも、微苦笑を重ねて・・。

2015-03-16 13:12:08 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
今朝の朝食前に配達された『読売新聞』の朝刊を読んだりしていた・・。

やがて3ページにある『社説』の「中国全人代閉幕 習政権の独善体質が目立った」と見出しを見て、
記事を精読したが、共産党独裁政権の横暴さに、無力な私は憂いたりした。

そして落胆を深めながら、ぼんやりと下段を見ると、
《 日本の大和言葉(やまとことば)を美しく話す
            ~こころが通じる和の表現~ 》
このような大きく明示されたいた。
 

私は瞬時に魅了されて、読んだりしたが、出版社の広告で東邦出版からの広告と解った。
こうした中で、『大和言葉で言えますか?』という例題が掲載されいた。、

      漢語         大和言葉    
①ご遠慮なく -------> ○○○置きなく
②残念ながら -------> ○○む○○は
③一生懸命 --------> ○まず○○まず
④毎日 ----------> ○○な○○な
⑤普段 ----------> ○○日頃

そして恥ずかしながら、齢ばかり重ねた男性の私でも、果敢に挑戦したが、
即答できず困惑したりした・・。
                    

しかしながら下段の片隅に『答え』として、逆さまに回答が明記されていたので、
こっそりと読んでしまった・・。

①こころ(心置きなく)
②おし・らく(惜しむらくは)
③う・たゆ(倦まず弛まず)
④あさ・ゆう(朝な夕な)
⑤つね(常日頃)

この後、私は恥ずかしながら『大和言葉』についても無学であり、
ネットで数多く調べたりして、要約すれば下記の通りである。

大和言葉は、古来より和歌や雅語(がご)で、女房言葉といわれてきたが、
現在では日本語の語種(単語の出自)のひとつであり、漢語や外来語に対する日本の固有語と称されている。
そして雅語は、平安時代を中心とする古典にみえる「正しいことば」であり、みやび言葉ともいわれている。

このような私なりに整理したが、上記の言葉の中で、日常生活の中で使われていることに気付いたりした。
       

①心置きなく
私は定年後の年金生活の中で、平素の買物専任者となり、最寄りのスーパーに行ったり、
或いは住宅街を散策したり、自納会の回覧などで、ご近所の奥様、ご主人と談笑することがある。

私は母の血筋を受けた為か、よくおしゃべりするタイプで、明朗に話し合うことが多いであり、
こうした時、ご近所の奥様などから、心置きなく・・、と言われたりすると、
心まで清麗な方、と私は見惚(みと)れてしまいながら、今日は仏滅であっても大安だ、と思ったりしている。


②惜しむらくは
私は若き青年時代に、映画・文学青年の真似事をして、新劇の長老のアドバイスにより、
やがて小説の新人純文学コンクールに応募したが、最終6作品候補の直前で敗退したりした。

そして3回ばかり敗退した後、やむなく断念しサラリーマンに転身する時、
新劇の長老にお詫びと御礼を記して葉書で送付した。

やがて、惜しむらくは・・という書き出しで、新劇の長老から返信を頂いたりした。


④朝な夕な
この言葉は私が中学生の時、次兄に連れられて銀座の片隅にある数寄屋橋の映画館で、
西ドイツ映画の『朝な夕なに』を鑑賞したことも影響され、
私は今でも、朝な夕なに・・、と使うこともある。


⑤常日頃
常日頃・・は小説、随筆などで読んだりしてきたが、平素の多くは・・と私は使用したりしている。


③う・たゆ(倦まず弛まず)
一生懸命のことを倦(う)まず弛(たゆ)まず・・は無念ながら私は使用したことがなく、
熱中して心身とりこんでも・・と私は代用している。


このように遥か1000年以上の前の頃から、今日まで使われることもある『大和言葉』に、
良きことですねぇ、と私は微笑んだりした。
       

昨今はNHKの若き30代の女性でも、ときおり粗雑な言葉をされているので、
容姿は美しくても、心は貧しい、と私は思ったりしている。

私の幼児の頃、農家で育ったのであるが、言葉が乱暴であったりした時、
祖父、父はもとより、近所の小父さん、小母さんから叱咤を受けたりした。

『その言いかたは何だ・・言葉を粗末にするなぁ・・』
と私はたとえ5歳の幼児であっても、小突(こづ)かれたりしてきた・・。

私は言葉ひとつとっても、貧富とか社会の地位とかは関係なく、
そのお方の人格を表わす、と深く感じたりしている。

しかしながら余りにも丁重な言葉を頂くと、つたない私でも慇懃無礼(いんぎんぶれい)と感じることもあり、
言葉は程ほどに・・と思ったりしている。


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ブログ11年生の私、数多いブログ投稿文の中で、長らく愛読しているサイトは・・。

2015-03-15 13:21:19 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の身である。

過ぎし東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の秋、私は大学を中退し、
映画・文学青年の真似事をしていたが、やがて敗退し、
やむなく何とかして民間会社に中途入社したい為に、
コンピュータの専門学校のソフト科に1年間ばかり学んだりした。

そして1970年(昭和45年)4月、この当時は音響・映像メーカーの大手のある民間会社に、
知人のご尽力もあり何とか中途入社が出来たのは、25歳の時だった。

まもなく創立された外資系のレコード会社に移籍させられ、
音楽に直接に携わる制作畑でなく、裏方の商品、情報、経理、営業を配属され、
2004年〈平成16年〉の秋に定年退職した身である。
       
    
しかしながら最後の5年半はリストラ烈風の中、出向となり、
もとより出向身分は、会社に直接に貢献できる訳もなく、まぎれなく戦力外なので、
私は都心の本社に30年近く勤め放り出され、屈辱と無念さが入り混じ、
私でも失墜感もあり都落ちの無念さを感じたりした。

そして遠い勤務地に通勤し、やがて半年後から何とか馴染み、自分の敵は自分だ、
と自身を叱咤激励しながら奮戦している中、出向先の会社も大幅なリストラが実施されたりした。

或いは私が30年近く勤めてきた出向元のレコード会社でも、リストラ烈風が加速され、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で2004年〈平成16年〉の秋に定年退職を迎えたりした。
       
             
そして、私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。

このように私は敗残者のようなサラリーマン時代であり、もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに
38年前後を邁進し栄達されたエリートとは、遥かに遠い存在である。

そして新聞、本、ブログなどで多くのお方の半生期を読んだりすると、何かしら自慢史が多く、
つたない私は、程遠い世界であったと苦笑したりする
         
更に私は定年退職するまで人生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、つたない言動も多く、
悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしてきた・・。
                
そして私たち夫婦は子供に恵まれずたった2人だけの家庭の為か、
定年退職後の60歳以降は、私は働くことを卒業し、ささやかに年金生活を始めた・・。
       

まもなく私はブログの世界を知り、幾つかのブログサイトを彷徨(さまよ)いながらも、
パソコンの故障、国内旅行をしている以外は、毎日一通はつたない投稿文を重ねてきたりしている。

こうした中、私が現在加入している【gooブログ】であり、
一時は他のブログサイトに加入して投稿を中止したことがあったが、10年は過ぎてきた。

私は年金生活をしていると、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。

私の投稿文の殆どの内容は、幼年期からサラリーマン退職時まで、そして年金生活の日々の心情は、
脚色もないありのままの思い、真情を投稿文に認(したた)めたく、あますことのないように綴ってきた。

私は綴る際は、自身のその時の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情を大切にしているひとりである。
       
従って、数多くの駄文を綴ってきたが、ひとえに自身の為の心の軌跡の発露、と言っても差し支えない。
         
しかしながら私の投稿文の内容は、あふれた思いを伝わるように熱意ばかりで、
一気呵成に書き上げてしまい、ときには長き投稿文になったり、
投稿文を送信した後、読み返したする時、つたない綴りが多いので反省することが多い。
                                                            

こうした中で、この広い世界には数多くのブログの投稿文があるが、
たまたま投稿文を読ませて頂く中、こうした中で瞬時に魅了される諸兄諸姉の投稿文があったりした。

日記として綴られている場合は、その人なりの思いをその方ご自身の言葉で、淡々と綴られているのに、
圧倒的に感動を覚(おぼ)えてきた。

そして日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、と教示されることが多く、
お住まいの地域、これまで綴られた人生の軌跡に思い重ねさせて頂きながら、
何よりも生きた人生の教科書と確信を深めたりしている。

こうして読ませて頂きながら、私は秘かに励ましを感じたり、微笑んだりして、
確かな人生の底知れぬ苦楽の深淵を学びながら、年金生活を過ごしたりしている。

或いはその地域の情景の四季折々の移ろいを背景とし、
デジカメの数葉を掲載され、絵葉書のような観光地の解説でなく、
その方ご自身の言葉で綴られるのに感動させられたりしている。

そして言霊を信愛し、何よりも投稿文で吐露(とろ)しなければ、
この人生を生きて行くことはできない、
このような圧倒的に心の深淵まで描写できる方もいる。
                      

私のブログサイトの左側の『ブックマーク』に於いて、
ご当人様のご承諾も得ずに、掲載させて頂く、と明記して掲げているが、
このお方が投稿するたびに、必ず私が愛読してきたサイトである。

たまたま昨夜、私のサイトの『カテゴリー』区分を新設したりしている中、
下段にある『ブックマーク』に掲げている諸兄諸姉のサイト名を見ていた時、
このお方が抜けていた、或いは昨今は読んでいないお方にも気付いたりした・・。

そして昨夜と本日の午前中で修正した。

私は小学生の頃から何かと女性に憧憬してきた為、女性のサイト名を優先とした後、
男性のサイト名を掲げている。

そして私が初めてそのお方の投稿文に魅せられた年月を優先順位としている。
恥ずかしながら、今でも愛読しているサイトを改めて公開すれば、下記のようとなった。
                    

★下記のブログサイト★ご当人様のご承諾も得ずに、掲載させて頂く

☆☆ 女性 ☆☆ 
☆蝶になりたい
☆うばゆり日記
☆世界の一つだけの姥花日記
☆今が一番素敵
☆マジョリンの気ままにスローライフ
☆My photo booth
☆野いちごひとりごと
☆まさかの坂の途中から・・・
☆あなたがいて私がいて、そして
☆緑仙の日々是好日
☆かのこの部屋
☆一生勉強一生青春・good everyday
☆かをるのワルツ♪
☆赤い実青い実黄色い実
☆ 微笑みがえし
☆ふたりでお茶を
☆らんらんのブログ
☆禅寺丸ばあさんのひとりごと
☆旭川発 ハッピーなくらし
☆心の軌跡
☆夫婦で新しい人生にトライしてます
☆花ちゃんはいつまで1人で暮らせるか
☆ どんぐりブローチ
☆都井岬の野生馬をみにこんね~^^
☆風水光子のブログ
☆徒歩徒歩さんの雑記帳
☆とっとこの雑記帳~♪

★★ 男性 ★★
☆田舎おじさん札幌を見る!観る!視る!
☆田舎暮らしは心が和む♪
☆薪ストーブと高齢者の日々
☆天真爛漫ちゃらんぽらん  
☆雲上の楽園通信
☆野菜、ガーデニング、JAZZおまけにパピヨン
☆小さな里山暮らし
☆林住記
☆翁の笑止な “ガハハ” 問答
☆JAMESの言いたい放題&一人暮らし
☆プー太とにころ山
☆気ままな生活
☆無門の縁台日記・PARTⅡ
☆老いてピンボケ独り言
☆無無無庵
☆浜ちゃんの小豆島写真日記
☆雅勒の散歩路
☆エピローグ
☆フォトログ小旅風草
☆山が好き、花に魅かれて
☆きょうの発見
☆たけチャンネル
☆ 青空貴族

この諸兄諸姉のサイトに関しては、一部のお方とのコメント上で交流を除き、
隠れキリシタンのように秘かに私は、愛読者のひとりとなっている。
              
             
私がブログを書き始めて、丸10年が過ぎて、早や11年生であるが、
何よりもこの広い空の下で、未知のお方に投稿文、或いはコメント上で、
めぐり逢えたこと、秘かに感謝したりしている。

そして偏(ひとえ)に数多くの皆様にささえられて、投稿文が継続できていることも確かな事であり、
その上に、数多くのお方の確かな人生の教科書を学び、改めて感謝している。

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つたない人生を歩んできた私、『この世で圧倒的に魅了された情景は』、ジャンル新設を思い立ち・・。

2015-03-14 14:36:17 | この世で圧倒的に魅了された情景は
私は東京の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
過ぎし一週間前、20世紀を代表される長編小説『失われた時を求めて』などを遺(のこ)された
フランスの作家のマルセル・プルーストに関する書物を読んだりしていた。

こうした中で、フェルメールの『デルフトの眺望』を見て、『この世で最も美しい絵』と絶賛した、
と綴られていた・・。

私は恥ずかしながら絵心もなく、絵画も無知であり、
フェルメール・・って、どういう人なの、と思いながら、
やむなくネットのフリー百科事典として名高い『ウィキベディア』に縋(すが)ったりした・・。

やがてヨハネス・フェルメール(1632年~1675年)は、17世紀のオランダを代表する画家であり、
青いターバンの少女を描いた『真珠の耳飾りの少女』などは世界的に知られている、
と学び、これだったら私も教養雑誌で見たことがあるよなぁ、と微笑んだりした。

そしてフェルメールの『デルフトの眺望』を見たりした。

☆マウリッツハイス美術館が所蔵しているフェルメールの『デルフトの眺望』を転載させて頂いた☆


そして私はフェルメールの生涯をネットで三つばかり読んだりした・・。

やがて私なりにフェルメールの略歴として要約したりした。

フェルメールは、1632年にデルフトに生まれる。
20歳の時にカタリーナという女性と結婚したが、やがて彼らの間には15人の子供が生まれたが、4人は夭折した。
それでも13人の大家族であり、画業では養うことができなかったため、裕福な義母マリアに頼らざるを得なかった。

父親の死後、1655年に実家の家業を継いで、居酒屋・宿屋でもあったメーヘレンの経営に乗り出している。
こういった収入やパトロン、大変裕福だった義母などのおかげで、
当時純金と同じほど高価だったラピスラズリを原料とするウルトラマリンを惜しげもなく絵に使用できた。

そしてフェルメールの代名詞のような鮮やかな青・・今日で称賛されている『フェルメール・ブルー』を描いたりした。
       
       ☆マウリッツハイス美術館が所蔵しているフェルメールの『真珠の耳飾りの少女』を転載させて頂いた☆

1657年から彼は生涯最大のパトロンであり、デルフトの醸造業者で投資家でもあるピーテル・クラースゾーン・ファン・ライフェンに恵まれた。
このパトロンはフェルメールを支え続け、彼の作品を20点所持していた。
彼の援助があったからこそ、仕事をじっくり丁寧にこなすことができ、年間2~3作という寡作でも問題なかったと考えられる。

そして当時としては画家としての評価は、周辺には高かったようであったが、生涯を閉じた。

やがて死後200年過ぎた19世紀、フランスの画壇が評価が高まる中、
作家のマルセル・プルーストがフェルメールの『デルフトの眺望』を見て、『この世で最も美しい絵』と絶賛し、
まもなくフェルメールの作品は、世界の注目を集めるようになり、今日に至っている。


このような要約をまとめ上げた私は、20世紀を代表されるマルセル・プルーストが
フェルメールの『デルフトの眺望』を見て、『この世で最も美しい絵』絶賛されたことに、
つたない半生を過ごしてきた私でも、微苦笑したりした・・。

やがて畏(おそ)れ多くも私なりに喚起させられて、今ままで私は70年の人生を歩んできた中で、
つたないなりに『この世で圧倒的に魅了された情景は・・』と深く思い馳せて、
今後、ブログで新たなジャンルを新設して、私なりにときおり投稿文に認(したた)めようか、と微苦笑している。


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時代遅れの我が家、初めての携帯電話に家内は戸惑いながら、微苦笑を重ねて・・。

2015-03-13 15:06:41 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
我が家は私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、家内とたった2人だけの家庭である。

そして私たち夫婦はインターネットに関して、固定回線の光ファイバーの『フレッツ』を頼りに、
据え置き型のパソコンを利用している。

私は平素に愛用しているパソコンは『ウィンドウズ7(セブン)』のディスクトップ型があり、
広い画面を見ながら、キーボードでブログの投稿文などを綴ったりしている。

そして『ウィンドウズ8。1』ノートパソコン型は予備機としてきた。
          
           ☆左側が現在愛用している『ウィンドウズ7(セブン)』、そして右側は予備機の『ウィンドウズ 8。1』☆

しかしながら私たち夫婦は、恥ずかしながらガラケーと称される携帯電話、
そしスマホと省略されているスマートフォンも使えないのである。

その上にフェイスブック、ツイッター、そしてモバイルパソコンにも無縁であり、
やむなくインターネットは固定回線の光ファイバーの『フレッツ』を頼りに、
せめてと思いながら据え置き型のパソコンとノートパソコンを利用している。

このように無線のモバイル情報機器に遠い世界の出来事のような思いながら、
稀(まれ)な時代遅れの国民のひとりとなっている・・。
                    

そして私たち夫婦は、携帯電話に興味がなく、今日まで至っているが、
6年前の頃から、私たち夫婦のどちらかが、ボケる前には携帯電話が必要と思ったりした。

過ぎし10日に最寄駅のスマホ・携帯電話の販売代理店で、
携帯電話の入門者に最適と思われる『らくらくホン』を一台ばかり買い求めた・・。
そして選択コースは毎月2200円の『かけ放題』とした。

『かけ放題』にした理由は、我が家は固定回線の光ファイバーの『ひかり電話』を愛用しているが、
家内が独り住まい家内の母宅に、毎晩夕食前のひととき30分前後電話をし、
健康の状況など尋ねたり、聞いたりしている。

こうした結果として、固定の廉(やす)いと思われる『ひかり電話』でも、
毎月利用料金として3000円前後となったりしてきた。

このような事情で、従来の『ひかり電話』をできる限りやめて、
これから携帯電話の『かけ放題』を活用すれば・・という思惑があったのである。
       

ここ数日、家内は初めて携帯電話に、ときおり触れている・・。
たとえば毎晩、家内の母宅に電話連絡する時は、携帯電話で通話し、
『かけ放題』だから・・いくら話しても同じ料金だから・・、
と家内は言ったりし、私は夕食の時間が遅れるょ、と心の中で思いながら苦笑したりしてきた。

或いは利用度の多い登録機能で、氏名と電話番号を入力したりしている。
殆ど居間の食卓テーブルで行っている。
『あらぁ・・おかしいわ』
と家内は幾たびか呟(つぶや)いたりしているのを、私は聴いたりしている。
       

現在、私が愛用しているパソコンは、ディスクトップの固定型であり、
キー・ボードでブログの投稿文、電子メール、ネット検索などの入力をしている。
          
私が初めてコンピュータのキー・ボードに触り、ディスク・トップの画面を見たのは、
1969年(昭和44年)の4月であった。

私は東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の秋、大学を中退し、
映画・文学青年の真似事をしていたが、やがて敗退し、
やむなく何とかして民間会社に中途入社したい為に、
コンピュータの専門学校のソフト科に1年間ばかり学び始めた時であった。

その後、1970年(昭和45年)の4月に、何とかこの当時の大手メーカーの民間会社に中途入社できた後、
やがて関連の中小業に移籍された中、情報畑の配属され、20数年ばかり奮戦した。

このような体験があったりしてきたので、私は入力に関しては、
日本の標準とされるJISキー・ボードしかできない身となっている。

            
この間、1995年〈平成7年〉の頃から、世の中は携帯電話が普及し始めた中、
電子メールを打ち込んでいる若き男女を見かけたりしてきた。
私はあのような小さく、わずかなキーを変換させて、よく入力できるなぁ、と感心したりした。

その後に、多くの50、60代の女性も、たどたどしい指先で、この携帯電話に
メールを打ち込んでいる情況を私は見かけたりすると、微苦笑を重ねてきた・・。
              

年金生活の今、我が家のパソコンは私が殆ど独占しているが、
ときおり家内も利用することがあるが、キー・ボードに入力することはできず、
幾たびか私がやさしく教えても、そのうちに覚えますから、と今日に至っている。

家内は検索して確認したい要素・・たとえば旅行の宿泊先、周囲の観光地などは、
私が必要項目を入力し、『お気に入り』に記憶させた後、
家内は長い時間くまなく見て、確認したりしてきたのが実態となっている。

こうした実情から、今回初めて携帯電話を購入した機会に、
家内に入力から初心者の利用できる範囲まで、習得して欲しく、私は願ったりしている。
       

こうした中、家内は添付されてきたマニアル本を横に置いて、
初めて携帯電話を触りながら、『あらぁ・・おかしいわ』
と家内は幾たびか呟(つぶや)いたりしている。

先ほど、家内はデジカメ機能をさわり、私を写したりして、
やがて携帯電話のディスプレー画面を私に見せて、
『ちゃんと・・あなたが表示されているでしょう・・』
と微笑みながら私に言ったりした。

『XXちゃんさぁ・・進歩しているょ』
と私は家内に言ったりしている。


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高齢者の私たち夫婦、春めく中、ときには小庭の手入れに奮戦して・・。

2015-03-12 15:27:15 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
昨日の朝食時に、私は家内に、
『明日・・庭の樹・・少し剪定するよ・・』
と私は家内に言ったりした。

『そうねぇ・・玄関の庭の方だけでも、早めに手入れをしないと・・私も手伝うから・・』
と家内は微笑みながら言ったりした。

我が家の敷地は変形5角形で、家屋を建つと、玄関庭と主庭となり、
原則として小庭の手入れは私の責務の範疇であるが、蚊(か)の出る5月下旬頃から10月頃までを除き、
体力の衰えた私を見かねて、家内の支援を受けることが多くなっている。

我が家の小庭の樹の剪定は、ご近所のお宅の殆どは植木屋さんに年に数回依頼しているが、
我が家は私たち夫婦が自己流でしているのが、私の定年後のここ10年の実態となっている。
                 
                  
私が2004年(平成16年)の秋に定年退職した以前は、
5年ごとに植木屋さんに依頼するたびに50万円前後を要してきたが、
この間は私が物真似て剪定してきた。

そして私が定年後まもなくして、ご近所より少し広い我が家は、
植木屋さんに年に数回依頼すれば、数10万円と教えられたりした。

こうした時、家内は3泊4日ぐらいの私たちの旅行ができるわ、と言い、
小庭の手入れは私の責務の範疇であったが、年に数回は家内の手助けを借りている。
                                

今朝、私たち夫婦は6時に起きて、着替えたりした後は朝食を頂いたりした中、
地元の天気情報を視聴したりした。

朝の6時は0度、昼下がりは13度前後、夕方の6時は9度前後、
朝方は弥生寒気で平年より寒く、ときおり吹く風も冷たく感じますが、日中は快晴に恵まれます、
このようなことを天気情報を担当している麗(うるわ)しきが明言されたりしていた。

私は若い女性なのに、弥生寒気と称した季節感あふれる言葉に、好感したりした。


やがて私は8時過ぎに、玄関庭に下り立った・・。

こうした時の私の容姿は、ストレッチパンズの長ズボン、着古した冬用のジャンパー、スポーツシャツ、
ウォーキング・シューズ、帽子、滑り止めの軍手をしたりしている。
そして剪定鋏(ハサミ)を腰の周りにしている。

まもなく家内も出てきて、冬用のトレーナー姿にエプロンした容姿でタオルを姉さん被(かぶ)り、
ウォーキング・シューズの万全な容姿で、滑り止めの軍手をしている。

そして私は昨年の初夏の頃に買い求めた切れ味抜群の鋸(のこぎり)を右手に持ちながら、
適度な台に乗り、枝葉を切り落としはじめた。

家内も剪定用の鋸(のこぎり)を右手に持ちながら、小枝を切り落としたり、
或いは剪定鋏(ハサミ)を使ったりしていた。
       

私は何にかと暑さに苦手であるが、春到来を予感される晴れ間の10度近い暖かさであったが、
ときおり強く吹く風は、頬(ほお)に冷たく感じて、私は微苦笑したりした・・。

やがて我が家の歩道に面した垣根のカイズカイブキ、アカネモチ、ツバキなどを剪定したりした。
              

私は若き40代の頃は、数多い雑木は樹高10メートル前後にしていたが、
齢を重ねた60代の頃から、樹高3メートル前後ぐらいにしなければ、
手入れが困難になる、と家内の助言に基づいて、小ぶりに剪定したりしてきた。

そして2時間近く私たちは奮戦した後、やがて枝葉を散乱したので、
市の指定された『燃えるゴミ袋』のLLサイズ(45リットル入り、有料・10袋入り、840円)に、
袋に破れないように入れる為、枝葉を適度に剪定鋏(ハサミ)で切ったりした。

こうした中で樹の直径15センチ前後の枝も切り落としたので、
『燃えるゴミ袋』に入れる長さに切ったりした。
その後、散乱した枝葉を掃き清めたりした。

こうした中で、私は玄関の前の石畳に簡易椅子を持ちこんで、
ほぼ30分ごとに5分休憩し、煎茶を飲んだりした。
       

家内は昨年の12月下旬の誕生日を迎えて65歳となっているが、何かしら心身溌剌としている。
私は昨年の9月下旬の誕生日で古稀と称される70歳と昇進したが、
定年退職後は現役時代の緊張感が失くしたせいか、65歳の頃から体力の衰えも実感したりしてきた。

そして私の心情としては、私の母、そして家内の母も更年期が過ぎてから、
新たに甦〈よみがえ〉る程に元気になっていた60代の時期もあったりしてきたので、
女は良〈い〉いよなぁ、と私は家内を見つめたりしていた。

この後、『XXちゃんさぁ・・今日は玄関庭が終わったし、主庭は僕がそのうちするから、
本日はやめない?』
と私の方から家内に提案したりした。


そして風呂を沸いた頃、家内に先に入ってもらい、
私は居間の前にある主庭に移動して、片隅にあるテラスに簡易椅子に座り、陽射しを受けながら煎茶を飲んだりした。

そして静寂の中、満開となった白梅と紅梅に見惚(みと)れたりした・・。
          

私は若き40代の頃は、こうした時はお寿司屋さんから頂いた大きな湯呑茶碗で、
冷酒を二杯ぐらいは呑んで待機していたが、
その後の50代の時は、殆どビールを呑んだりしていたが、
今や煎茶を飲む身となり、やはり齢かしらと苦笑したりした・・。

やがて家内から、お風呂を上がったわ、と12時半過ぎに私は聞いたりした後、
市が指定された我が家の門扉の内側に、『燃えるゴミ袋』のLLサイズが10袋あり、
私は微苦笑しながら、お風呂場に向かったりした。


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なぜ私の昨日のブログ投稿文は、『にほんブログ村』に反映できないの、と戸惑い・・。

2015-03-11 09:39:47 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は中小業の民間会社に35年近く勤めて、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職後、
多々理由で、その直後から年金生活をして、早や11年生になっている。

過ぎし定年退職した私は、まもなくブログの世界を知り、
パソコンの故障、国内旅行をしている以外は、毎日一通はつたない投稿文を重ねてきたりしている。

私は年金生活をしていると、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、私が加入している【gooブログ】のサイトに投稿文を綴ったりしている。

私の投稿文の殆どの内容は、幼年期からサラリーマン退職時まで、そして年金生活の日々の心情は、
脚色もないありのままの思い、真情を投稿文に認(したた)めたく、あますことのないように綴ってきた。

私は綴る際は、自身のその時の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情を大切にしているひとりである。
       
従って、数多くの駄文を綴ってきたが、ひとえに自身の為の心の軌跡の発露、と言っても差し支えない。
                   

こうした中で、ブログのランキングに加入して、程ほどに上位にランキングされれば、
少しでも多くの方に読んで頂けると、つたない投稿文ながら自己顕示欲が増して、加入することとした。
     
そしてブログのランキングのサイトも幾つか彷徨(さまよ)うように加入したが、
『人気ブログランキング』の『随筆・エッセイ』に加入し、今日に至っている。

その後、2010〈平成22〉年の秋に、やはりブログのランキングの『にほんブログ村』に再加入した。

私は2008〈平成20〉年の頃に『にほんブログ村』に漠然と加入し、
何かしら他のブログのランキングに魅了され放置していたが、
投稿文ごとの具体的なランキングに気付かされて、ふたたび本加入させて頂いた。

そして現在は、『人気ブログランキング』に於いては、『随筆・エッセイ』に所属し、
『にほんブログ村』に関しては、加入時は『随筆・エッセイ』系に重点していたが、
2年前の秋の頃から、世代のよしみに甘えてシニア日記系『60歳代』に移行し、
昨年の秋に恥ずかしながら70歳となり、シニア日記系『70歳代』となってきた。
                

たまたま昨日、私たち夫婦は携帯電話を初めて買い求めて、
嬉しさと不安を秘めながら、
【携帯電話、時代遅れの私たち夫婦は、恥ずかしながら初めて本日買い求めて・・。】
と題して一気呵成に書き上げて、16時32分に投稿の発信をした。
http://blog.goo.ne.jp/yumede-ai/e/32562a9dbb5da23407f28ca8c94a2c50

そして私が加入している【gooブログ】に瞬時に反映され、
まもなくブログ・ランキングの『人気ブログランキング』に反映された。

しかしながら、ブログ・ランキングの『にほんブログ村』に反映されず、
投稿数が殺到してサーバーが追いつかず反映できないと私は勝手に思いながら、
更新通知機能のひとつの《Ping代理送信》を幾たびか時間を置きながら、送信した・・。

こうした投稿文が『にほんブログ村』に反映されない場合は、幾たびも成功体験をしてきたが、
昨夕に限り反映されず、戸惑ったりした・・。

この間、【gooブログ】で投稿文を読んで下さった方が、
早々とコメントを16時48分に頂き、感謝したりした。

やがて18時50分過ぎに、やむなく【gooブログ】の投稿日時を最新時に変更し、
再発信したが、『にほんブログ村』に反映されず、戸惑いを深めたりした。

もとより投稿文の内容が、日本の治安を乱すような非国民の内容であれば、拒否されることは当然であるが、
今回の私の投稿文の内容は、単なるドコモの宣伝文のようなことは眼中になく、
私たち夫婦は携帯電話を初めて買い求めて、嬉しさと不安を秘めた心情の発露である。

こうした内容分からして、なぜ私の昨日のブログ投稿文は、『にほんブログ村』に反映できないの、
と幾たびか戸惑ったりしたのである。

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:携帯電話、時代遅れの私たち夫婦は、恥ずかしながら初めて本日買い求めて・・。

2015-03-10 18:52:28 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
我が家は私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、家内とたった2人だけの家庭である。

そして私たち夫婦はインターネットに関して、固定回線の光ファイバーの『フレッツ』を頼りに、
据え置き型のパソコンを利用している。

私は平素に愛用しているパソコンは『ウィンドウズ7(セブン)』のディスクトップ型があり、
広い画面を見ながら、キーボードでブログの投稿文などを綴ったりしている。

そして『ウィンドウズ8。1』ノートパソコン型は予備機としてきた。
          
           ☆左側が現在愛用している『ウィンドウズ7(セブン)』、そして右側は予備機の『ウィンドウズ 8。1』☆

しかしながら私たち夫婦は、恥ずかしながらガラケーと称される携帯電話、
そしスマホと省略されているスマートフォンも使えないのである。

その上にフェイスブック、ツイッター、そしてモバイルパソコンにも無縁であり、
やむなくインターネットは固定回線の光ファイバーの『フレッツ』を頼りに、
せめてと思いながら据え置き型のパソコンとノートパソコンを利用している。

このように無線のモバイル情報機器に遠い世界の出来事のような思いながら、
稀(まれ)な時代遅れの国民のひとりとなっている・・。
                    

そして私たち夫婦は、携帯電話に興味がなく、今日まで至っているが、
6年前の頃から、私たち夫婦のどちらかが、ボケる前には、
迷子のように、私はどこにいる・・と確認できるGPS機能の携帯電話が必要と思ったりした。

そして新聞に添付されるチラシの一部に、携帯電話とかスマートフォンの各社の広告が入っているので、
ときおり私たち夫婦は見たりし、思案するばかりで今日に至っている。

この数週間、固定回線の光ファイバーを利用している方に、
携帯電話回線と光回線のセット販売の利用料金をサービスするのが、ドコモなどから公表されている。

我が家としては、携帯電話かスマートフォンを覚えるラスト・チャンスだ、と私たち夫婦は確信しながら、
恥ずかしながら時代遅れの私たち夫婦は、ここ数週間ばかり検討してきた。
          

そしてスマートフォンも検討したが、私たち夫婦が使用できるのは、音声だけの電話ぐらいが実情と思われ、
携帯電話で充分と思いを重ねたりしてきた・・。


平素、私たち夫婦は外出したりする時は、漏電などが怖くて、冷蔵庫以外の電源元を遮断したりしている。
そして固定の据え置き型の『ひかり電話』は、固定回線の光ファイバーの配線下にあるので、
もとより電話は音信不通となる。

こうした中で、過ぎし年に私たち夫婦は国内旅行の6泊7日の旅路の中、
遠い親戚の小父さんが急死されて葬儀が執り行われたが、
我が家に電話連絡をしても音信不通で戸惑った、と後日に関係者から苦言されたりした。

或いは知人、友人など定年後も親睦を重ねたりする中、携帯電話の番号を教えてょ、と言われるたびに、
使い方を知らないで持っていないょ、と私は言ったりすると、幾たびか苦笑されたりしてきた。


本日の午前中、私たち夫婦は最寄駅のひとつの京王線の『仙川』駅に向い、
スマホ・携帯電話の販売代理店めぐりをした・・。

やがて2店目に於いて、解らないことがありましたら、いつでもお尋ね下さい、
と私たち夫婦は携帯電話を説明して下さった販売員の方から言われたりした。

もとより私たち夫婦は、スマホ・携帯電話にも無知で、
携帯電話は『らくらくホン』、スマホは『らくらくスマートフォン』の用語しか知らなかったので、
何よりも有りがたい言葉であった。

結果として、私たち夫婦が買い求めたは、ドコモの携帯電話『らくらくホン ベーシック4』であり、
付帯条件として、かけ放題を選定した。
       
       ☆ 帰宅後、記念としてたわむれに撮ったりした ☆

本体は2年分割払いとなり、その後は無料となり、
そして使用料は『かけ放題』に伴い月に2200円となり、
最初の2年は毎月4000円ぐらいとなったりした。

そして私たち夫婦は、恥ずかしながらたった一台の携帯電話を遅ればせながら手にでき、
いま覚えなくていつ覚えるょ・・呟(つぶや)くような表情を浮かべながら、家内は触れたりしている。


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何かと気弱な癖に、我執、自己顕示欲の強い私は、ときには項垂(うなだ)れて・・。

2015-03-09 14:52:15 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は中小業の民間会社に35年近く勤めて、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職後、
多々理由で、その直後から年金生活をして、早や11年生になっている。

そして私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしているひとりである。

今朝、洗面した後、いつものように、居間のビデオ・ケースの上に立てかけている
曹洞宗を学ばれた書家・詩人の相田みつを氏の『日めくり ひとりしずか』に毎朝向っている。

そして私は何かと私の独断と偏見の多い日頃の言動の多い中、
生の戒(いまし)めとして、心の中で呟(つぶや)いている。

本日もいつものように向っていると、
          
          
そして深く心の中で読んだりした後、
何かと気弱な癖に、我執、自己顕示欲が強い私は、苦笑させられてしまった・・。

       

私は世の中で著名な『相田みつを』氏を遅ればせながら学んだのは、
過ぎし1999年〈平成11年〉の5月中旬、私たち夫婦は家内の両親と、
伊香保温泉に2泊3日で滞在した時、 ある民芸土産店で私はひとつの品に目がとまった・・。
               
『ひとりしずか』、と大きく題され、みつを、と署名されていた。

そして私は手に取り、ページを捲(めく)ると、
著名なこのお方の名は知っていたのであるが、遅ればせながら初めて接した書物の言葉、そして書体であった・・。
               

この言葉を読み終わった後、瞬時に圧倒的に魅了された・・。
               
私は幾つになっても拙(つたな)い我が身を振り返り、
私の父は、無念ながら私が小学2年の時に病死された体験もあったりした。

そして私はこの『トイレ用日めくり』を買い求めた後、その日に応じたページに、
さりげなく深い人生の教訓の言葉を特有な書体で書かれ、
この日以来、私はこのお方を秘かに慈父のように人生の師と掲げたのである。


やがて2004〈平成16〉年の秋に定年退職した私は、まもなくブログの世界を知り、
パソコンの故障、国内旅行をしている以外は、毎日一通はつたない投稿文を重ねてきたりしている。

こうした中、私が加入している【gooブログ】のサイトは、
2008年(平成20年)の頃は、確か加入数150万人ぐらいで、
この当時の私は写真を添付する技量もなく、ひたすら散文らしき文を綴り投稿文としていた。

私は年金生活をしていると、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。

私の投稿文の殆どの内容は、幼年期からサラリーマン退職時まで、そして年金生活の日々の心情は、
脚色もないありのままの思い、真情を投稿文に認(したた)めたく、あますことのないように綴ってきた。

私は綴る際は、自身のその時の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情を大切にしているひとりである。
       
従って、数多くの駄文を綴ってきたが、ひとえに自身の為の心の軌跡の発露、と言っても差し支えない。
           
         

そして私のサイトは訪問者数は長らく日々300人前後が多く、
【gooブログ】の総加入数の中に於いては、
多くある広大な砂糖黍(さとうきび)畑の中のたった一本の砂糖黍(さとうきび)のような存在であった。

このように私は、やがて埋もれてしまい、誰からも読まれなく無視されることが想像されて、
つたない私でも、余りにも悲しきことで愕然とするので、ひとつの対策をした。
       

こうした思いからひとつの方法として、
やはりブログのランキングに加入して、程ほどに上位にランキングされれば、
少しでも多くの方に読んで頂けると、つたない投稿文ながら自己顕示欲が増して、加入することとした。
                 

そしてブログのランキングのサイトも幾つか彷徨(さまよ)うように加入したが、
『人気ブログランキング』の『随筆・エッセイ』に加入し、今日に至っている。

その後、2010〈平成22〉年の秋に、やはりブログのランキングの『にほんブログ村』に再加入した。

私は2008〈平成20〉年の頃に『にほんブログ村』に漠然と加入し、
何かしら他のブログのランキングに魅了され放置していたが、
投稿文ごとの具体的なランキングに気付かされて、ふたたび本加入させて頂いた。

そして現在は、『人気ブログランキング』に於いては、『随筆・エッセイ』に所属し、
『にほんブログ村』に関しては、加入時は『随筆・エッセイ』系に重点していたが、
2年前の秋の頃から、世代のよしみに甘えてシニア日記系『60歳代』に移行したりしてきた。
         

こうした中で、つたない私の投稿文に於いて、気楽に綴ったのが上位になると戸惑い、
真剣勝負のように綴ったのが評価されず、下位となり落胆したりする時もあったりしてきた。

やがて私が60代の時は、訪問者数が毎日600人前後が多く、私は微笑んだりしてきた。

しかしながら私が昨年の9月に70歳になると、加入している70代の方が少ない為か、
訪問客が減少し、私は苦笑したりしてきた・・。
       
    

平素の私は、ご近所の奥さんたちから、御歳よりお若く、謙虚で明朗活発な方、と褒めたたえられているが、
もとよりオセイジであり、私の日頃の言動はともすれば自己顕示欲もあり、
あとで反省したりしているが、忘れた頃に幾たびも繰り返すことが、若き青年時代の頃からあったりした。

私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
裏返しのような反動心があり、ときおり自己顕示欲が増して、平常心から程遠いことをする時もある。

たとえば確固たる専門知識のない癖に、少しばかり知っていることを断言したりする時もあったりした。

年金生活をしている今でも、ときおりは自己顕示欲が露呈して、
つたないブログの投稿文なのに、ランキングが上位になれば、と思ったり、
齢ばかり重ねた70歳の私は、幾つになったら人知れず純粋な言動ができるの、と反省ばかりしている。

そして怪我は治(なお)るが、性格は直(なお)らないなぁ、と苦笑した後、項垂(うなだ)れている。


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『コレステロール値が高いほど長生きする?』と教示され、高齢者の私は戸惑い・・。

2015-03-08 12:22:31 | ささやかな古稀からの思い
東京の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は民間会社の中小業のある会社に35年近く奮戦し、2004年(平成16年)の秋に定年退職した後、
多々の理由で年金生活を始めたひとりである。

やがて2010年(平成22年)の秋に、私は健康診断の結果、糖尿病と診断され、
内科の医師の指導、家内は野菜を多くした料理、そして私はウォーキングをほぼ毎日したりした。

そして翌年の2011年(平成23年)の3月の初旬、
最寄の内科に4週間毎に定期健診を受けて、糖尿病の範囲の対象から克服でき、
悪玉コレステロールは基準値の90%、これ以外はすべて優等生となった。

この後は、4週間毎に定期健診を受けるたびに隣接した薬局で、
血糖値を下げる薬、そしてコレステロールを下げる薬を頂き、 日々朝食後に飲んでいるが、
これ以外は至って健康だ、と思ったりしている。
        

もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わない。
私自身の糖尿病の再発防止もさることながら、何よりも怖いのは認知症である。

こうした根底があり、自宅の周辺3キロぐらいの中の住宅街の道、遊歩道、小公園などを
ひたすら歩いたりする中で、 季節のうつろいを享受している。
       



こうした中で、本日の午前中のひととき、小雨が降ったりしていたので、
平素の買物と散策も取りやめて、ネットでビジネス総合情報誌として名高い『プレジデント』の配信して下さった記事を
読んだりしていた。

やがて『 コレステロール値が高いほど長生きする?』と題された見出しを見て、
どういうことなのょ、とクリックして記事を精読してしまった・・。

この記事は医学博士・イシハラクリニック院長の石原結實さんが、
『なぜ、おなかをすかせると病気にならないのか』(プレジデント社)から上梓されたご著書で、
この一部を編集部が抜粋して公開された連載のひとつ解り、
読み終わった後、私は戸惑いながら、多々教示された。

無断ながら転載させて頂く。
《・・コレステロール値は下げればいいというものではない

西洋医学では、血液中のコレステロールの正常値を130~219㎎/dlと決め、
少しでも多いと抗コレステロール剤を処方する傾向がある。
コレステロールを動脈硬化、ひいては心筋梗塞、脳梗塞の元凶と考えているからだ。

しかし、コレステロールは、人間を形作っている60兆個の細胞の膜の成分であるし、
胆汁や男性ホルモン、女性ホルモン、さらにはストレスに耐える副腎皮質ホルモンの原料でもある。

だから、「コレステロールを無理に薬で下げたら、ストレスに弱くなり、種々の病気にかかりやすくなる」と指摘する医師もいる。
最近では「コレステロール値が高い人ほど長生きする」というデータも数多く発表されている。
             

フィンランドのヘルシンキ大学で、高脂血症1200人を対象にした調査が実施され、次のような結果が得られた。
高脂血症を食事療法と薬で下げたグループAと、下げる手段を何も講じなかったグループBを比べたところ、
10~15年後の心筋梗塞の発症率、死亡率ともに、Aグループのほうが高かった。

日本でも、1980年、厚生(現・厚生労働)省国民栄養調査対象者1万人に対する14年間の追跡調査で、
「240~259㎎/dl」が「健康長寿」にもっともよいコレステロール値であることが判明している。

また、茨城県で40~79歳の男女10万人を5年間調査したところ
「コレステロール値が低いほど、全死亡率、特にガンの死亡率が高かった」
「240㎎/dl位上の全死亡率が一番低かった」ことが明らかになっている。

抗コレステロール剤である「スタチン剤」は、毎年400万人に処方されている。
しかし、その副作用として、横紋筋融解症(筋肉が溶ける。その前に患者さんは筋肉痛を訴える)、
肝機能障害、血小板減少(出血)などが現れることがある。

コレステロールに対して、過剰な「敵意」をもつことは、むしろ危険なのである。・・》
       
       

私は抗コレステロール剤である「スタチン剤」系の「サワイ」を毎朝食後に、
一錠を服用しているが、幸いには何かと鈍(に)ぶ児の私は、悪しき副作用はなく、現状に至っている。

もとより完全健康体であれば、薬は不要であり、
やはり薬はその人なりに悪しき副作用が発生する、と多く医学の専門賢人から明言されている。

今回、この記事を読み終わった後、日頃の歩き方が少なく、もっと早く多く歩きなさい、
と叱咤激励を受けたように、私は受け止めたりしている。

    
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まもなく39年の私たち夫婦、お互いに呼びあう時の変貌に、ときおり私は微苦笑し・・。

2015-03-07 12:58:34 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅に住む年金生活の70歳の身であり、
家内は私より5歳ばかり若い65歳となっている。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後36年の古ぼけた一軒屋に住んでいる。

こうした中で、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。


私たち夫婦は、結婚してまもなく39年生を迎える。
       

こうした中で私は、外見上は連れ合いと称しているパートナーのことは、家内としている。
奥方というのも、つなない私でも遥か高貴の家から降下され嫁いできたような方と思い、
女房、というのも、私はあえてさけている。

女房の語源は、平安時代に於いて、宮中で私的事務をつかさどった女官の名称、
と若き頃に、井口樹生・文学博士から教示された。

そして、『房』は部屋を指し、奥ゆかしき独り専用の広い部屋のことらしく、
我が家としては、無念ながらこのような家内専用の部屋がないのである。

従って、消却法として、妻というのは何となく恥ずかしく、家内と私は外見上は公言している。


そして内輪の名称は、XX、と愛しき連れ合いを呼び捨てにしている方たちがいる。
私の世代より齢上の方の男性に多く、私の兄も同様で、
私は何となく存在を粗末にしているように感じ受け、論外としている。

XXさん、というのも寝食を共にしているので、他人行儀らしく感じたりしている。

このような幾つになっても私は、可愛げのない独断と偏見の思いがある私である。
                

私がこの広い世界の中で、家内とめぐり逢えたのは、私の妹の嫁ぎ先の義父からの紹介であり、
二度目に私たちは待ち合わした時、私はXXさんでは他人のように思え、
いきなり相手の名前をもとより知っていたので、XXちゃん、と呼んだ。

相手の女性は、驚いたような表情を浮かべた・・。

私の発想の根源は、恥ずかしながら告白すれば、
私が二十歳過ぎた頃に愛読していた小説家・福永武彦さんの『草の花』の中で、
主人公の男性が交遊し好感している女性に対して、XXちゃん、と呼んでいたのである。

私はこれ以降、婚約、結婚、そして子供も恵まれなかったこともあるが、
家内のことを、我が家ではもとより、親族の集いなどを含めて、
XXちゃん付けとして呼んでいる。
       

私たち夫婦は、共通の趣味のひとつとして、国内旅行であり、
子供に恵まれなかった為か、若い頃から国内の各地を旅行をしたりしている・・。

ときには団体観光ツアーで各地を周遊したこともある。

バス、新幹線の車内、休憩所の土産売り場、観光ホテルのロビーとかで、
ご一緒に旅をしている人達から、ときおり笑われたりしてきた。

たとえば、新幹線を下車する直前、旅行のバックを持つ前に、
『あなた・・まわりのお方に注意して・・持ってね・・』
と私は家内から言われたりすることが多い。

こうした時、
『はい!』
と私は明るく大きな声で家内に返事をする。

私は日常生活でも家内から何か言われた時、はぁ~ぃ、と少しだらけた返事は嫌いなので、
短めで明るく大きな声で返事をしているのであるが、
なぜか旅先でご一緒から、笑われたりするのである。


私は家内を呼ぶ時には、
『XXちゃん・・さぁ・・』
と私はいつものように、家内の名前を口にしたりすると、
車内の付近から、くすくす笑われたりしてきた。

私は家内と婚約する前の交際期間から、ちゃん付けで呼んでいるので、
もとより私は平然としたりしてきた。

家内が私を呼ぶ時は、
あなた、が多いが、ときにはXXさん、と名前で呼ばれたりすることもある。

こうした時、ご一緒の特に女性グループ方達から、
『あなた達・・いいわねぇ・・』
と家内は笑いながら言われたりしている。

こうしたことは、私はいつもの日常生活で使っているので、
私は戸惑いながら、ご一緒の方達に微笑返しをしたりしてきた。
       

このように私は家内のことを、婚約する前の頃から、『XXちゃん・・』と呼んでいるが
家内は日頃の多くは、私のことを『あなた・・』と呼ぶことが多いが、
ときには、たわむれで、『XXクン・・』と苗字で呼ぶこともある。

しかしながら2004年(平成16年)の秋、定年退職後、
多々の理由で年金生活を始めてまもない頃、私は家内から依頼された買物の購入品などで間違えたりすると、
『ボケチィンねぇ』
と家内は笑いながら、私に言ったりした。

この日以降、私が何かで日常生活で失敗した時、
『ボケチィンねぇ・・』とか、ある時は『ダメオ(駄目夫)クンねぇ・・』
と家内は微苦笑しながら、私に言ったりしている。

このように長き結婚生活をしている中、家内が私の呼び名に変貌する時もあり、
ときおり私は微苦笑する時もある。


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高齢者70歳の私でも、ときには家内のボディ・ガード、荷物持ち、お供をして・・。

2015-03-06 15:36:03 | ささやかな古稀からの思い
私は東京調布市の片隅に住む年金生活の70歳の身であり、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に築後36年の古ぼけた一軒屋に住んでいる。

こうした中で、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

我が家の平素の買物は、私が年金生活を始めて以来、私は自主的に専任担当となり、
近くのスーパー、或いは駅前のスーパー、専門店などに殆ど毎日独りで出かけている。

                            
      
こうした中で、月に一度ぐらい家内と共に、ホームセンターに生活雑貨品、洗剤など生活消耗品、
或いはドラッグストアーに行ったりしている。
               

こうした時は私は何かと家事の大半は家内にお願いしているので、
せめて家内のボディ・ガード、荷物持ちをして、お供をしなければ、
一家の主(あるじ)としての責務が果たせない、と私は齢を重ねるたびに深めたりしている。

そして我が家は恥ずかしながら自動車も所有できない上、
私は根がケチなせいか、利便性の良い路線バスには乗らず、ひたすら歩くことが多い。

こうした時の私は買物をする時、多くの品を購入する時とか、或いはビール、お米などの重い品を買い求める時、
買物の引き車と称される『キャリーカート』を曳〈ひ〉いたりして歩いたりしている。
          
         ☆過ぎし日、この『キャリーカート』を私は玄関の前で、段ボールを乗せて、
           ゴムバンドで括(くく)り付けた状景をたわむれで撮ったりした☆    

そして私は家内が大量に買い求める買物の時は、
家内は私より数歩先を歩いて、私は段ボールを乗せた『キャリーカート』を曳〈ひ〉いて、歩いたりしているので、
まるで江戸時代の下男のようなお供だねぇ、と私は微苦笑したりしてきた。
                    

本日は曇り空の中、最寄駅のひとつの京王線の『仙川』駅に向い、15分ばかり歩いて、
駅から5分ばかりのホームセンターに到着し、家内は店内で買い求める品を選定したりした。

こうした時の私は殆ど店内の片隅にあるベンチに座りながら、
持参した本を読んで待機したりしている。

やがて家内は精算を終えて、重そうなレジ袋を提げて私に近づいてきた時、
私は素早く受け取り、『キャリーカート』に乗せている段ボールに入れたりした・・。

この後、駅ビルにある『百円ショップ』に家内は寄りたい、と言ったりしたので、
私は微笑んだりした・・。

この駅ビルの2階には、『百円ショップ』と本屋さんがあり、
私はこの本屋さんには10日に一度ぐらい読みたい本を買い求めている店で、
家内が隣接した『百円ショップ』で買物している間、私は本屋でゆっくりと選定すればよかったであった。

結果としては、たまたま長らく愛読している脚本家の倉本聰(くらもと・そう)さんの私が見のがしていたご著書に、
めぐり会えて買い求めたりした。

今回、倉本聰対談集『みんな子どもだった』(エフジー武蔵)、
もう一冊は倉本聰・林原博光の『愚者が訊く』(双葉社)であった。


この後、ドラッグストアーに寄り、やはり家内が買い求めた数多く品を
私は受け取り、『キャリーカート』の段ボールに入れたりした・・。

やがてこうした買物の時は、付近の食事処で昼食をしたりしてきたが、
スーパーのお弁当コーナーで買い求めることにしょうと、三品ばかり選定したりした。

やがて私たち夫婦は帰宅に向かった。

私は今住んでいる家は世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅であり、
私の生家も近くにあり、私は結婚前後の5年を除き、早や65年この地域で過ごしたりしてきた。

そしてこの周辺の変貌を家内に話しかけたりした。
       
            ☆過ぎし日、我が家の周辺の情景を撮ったりした☆  

『私もこの地に引っ越して・・37年近くになるわ・・それでも大きく変わり果てているわねぇ』
と家内は付近の情景を見ながら、私に言ったりした。
       
            ☆過ぎし日、我が家の周辺の情景を撮ったりした☆  

このように私たち夫婦は、月に一度ぐらい駅前に行き買物をしたりしてきたが、
もとよりお互いに元気のある時までは継続できるが、果たして・・と思ったりすることもこともある。

そして私は憂いを打ち消すように、やがて単細胞のプラス思考の私は、
♪しあわせは 歩いてこない だから歩いて ゆくんだね・・
このような歌を心の中で唄い、家内と共に長い坂道を歩き、自宅に向かった。


余談であるが、ここ数年、我が家の最寄駅の周辺には、5店ばかりネット販売するスーパーがある。
何かしらネットで注文すれば、我が家に配達して下さるシステムであるが、
我が家が愛用しているあるメーカーの重く感じるビール、醤油、ソース、洗剤、柔軟剤などを買い求めるには、
確かに利便性がある。

しかしながら果物、生鮮野菜、牛肉、豚肉、鶏肉、ラム肉などは現品を確認した上で、
買い求めたいので、我が家は利用の対象外となっている。

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70歳になっても、敗残者のような私でも、人生最良の時期と感じ深めて・・。

2015-03-05 15:06:20 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の身であるが、
民間会社の中小業のある会社に35年近く奮戦し、2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
年金生活を始めたひとりである。

こうした中で、最後の5年半はリストラ烈風の中、出向となり、
もとより出向身分は、会社に直接に貢献できる訳もなく、まぎれなく戦力外なので、
私は本社に30年近く勤め放り出され、屈辱と無念さが入り混じ、
私でも失墜感もあり都落ちの無念さを感じたりした。

そして遠い勤務地に通勤し、やかて半年後から何とか馴染み、自分の敵は自分だ、
と自身を叱咤激励しながら奮戦している中、出向先の会社も大幅なリストラが実施されたりした。

或いは私が30年近く勤めてきた出向元の会社でも、リストラ烈風が加速され、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で2004年〈平成16年〉の秋に定年退職を迎えたりした。
                     

           
そして私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。

     
このように私は敗残者のようなサラリーマン時代であり、もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに
38年前後を邁進し栄達されたエリートとは、遥かに遠い存在である。

         
更に私は定年退職するまで人生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、つたない言動も多く、
悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしてきた・・。

                 
そして私たち夫婦は子供に恵まれずたった2人だけの家庭の為か、
定年退職後の60歳以降は、私は働くことを卒業し、ささやかに年金生活を始めた・・。

やがて厚生年金、わずかな企業年金を基盤に、程ほど貯金を取り崩しながら、
お互いのささやかな趣味を互いに干渉することなく過ごして、
共通の趣味のひとつの国内旅行を四季折々できればよい、と願いながら年金生活を開始した。
          

          
  
  
年金生活を始めた当初、私は平素の買物に関しては、自主的に専任者と家内に宣誓したりした。

そして私は独りで殆ど毎日のように家内から依頼された品を求めて、
最寄のスーパーに買物に行ったり、或いは駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパー、専門店に行ったりしているが、
根がケチなせいか利便性のよい路線バスに乗るのことなく、歩いて往還している。

その後も独りで自宅から数キロ以内の遊歩道、小公園などをひたすら歩き廻ったりして、季節の移ろいを享受している。

       
こうした根底には、定年前の私は数多くの人たちと同様に多忙なサラリーマン時代であり、
家内は我が家の専守防衛長官のような専業主婦であり、日常の洗濯、買物、料理、掃除などで、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などのささやかな時間で過ごしてきたのである。

私は定年後した直後として、このペースを崩したくなく、平素の買物専任者を自主宣言したのであった。

そして少なくとも家内は、年金生活の今でも料理、掃除、洗濯などをしてくれるので、
家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、私は素早く察知して、日に6回ぐらい茶坊主の真似事もしている。
       

私たち夫婦は幸運にも大病することなく今日に至っているが、
やはり歯の老化だけは避けられず、それぞれ幾たびか歯科医院で治療を受けたりしてきた。

こうした中で、私は66歳の時に糖尿病と診断され、青色吐息となる中、
食事の改善とひたすら歩いて何とか克服してきたので、
糖尿病の再発防止もさることながら、何よりも怖いのは認知症であり、
もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、ひたすら歩くことが多くなっている。
       
       

私の日常の午後の大半は居間で過ごしたりすることが多く、
何かと随筆、ノンフィクション、近現代史、総合月刊雑誌などの読書が多い。

そして定年後の年金生活の単行本、新書本、文庫本の書籍に於いては、
特に塩野七生、阿川弘之、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、三浦朱門、
高峰秀子、松山善三、櫻井よしこ、徳岡孝夫、中西輝政の各氏の作品を中核に購読している・・。

雑誌の月刊総合雑誌としては、『文藝春秋』は45年近く購読し、毎月秘かに逢える心の友のひとりとなっている。
そして『中央公論』、『新潮45』は特集に魅せられた時は買い求めたりしている。

ときおり映画に関しては、20世紀の私の愛してやまい作品を居間にある映画棚から、
DVD、ビデオテープなどを取りだして、テレビを通して鑑賞したりしている。

或いは音楽を聴きたい時は、やはり居間にある音楽棚からCD、DVDなどを取りだして、聴いたりしている。


       
こうした中で、ときおり我が家の小庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行を幾たびか重ねている。

私たち夫婦は、子供に恵まれなかった為か、新婚時代から幾たびか旅路を重ねてきた。

現役サラリーマン時代は、殆ど2泊3日ぐらいの日程であったが、
年金生活を始めると日程の制約から解放されて、5泊6日前後の旅路が多くなっている。

そして私たちは、意欲と体力のあるうちに行きたい所があれば、
という思いで国内の各地を遊学してきた。

こうした中で、私たちは観光ホテルなどに滞在して、周辺の山里、遊歩道、街並みの中をひたすら歩き、
その地の情景を観ながら風土、文化を教示されて、遊学したりしてきた。
       

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。

たまたま定年後にブログの世界を知り、パソコンの故障、国内旅行で自宅を不在した以外は、
10年過ぎた今でも、毎日一通はつたない投稿文を重ねてきたりしている。

私の投稿文の殆どの内容は、幼年期からサラリーマン退職時まで、そして年金生活の日々の心情は、
脚色もないありのままの思い、真情を投稿文に認(したた)めたく、あますことのないように綴ってきた。

私は綴る際は、自身のその時の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情を大切にしているひとりである。
       
従って、数多くの駄文を綴ってきたが、ひとえに自身の為の心の軌跡の発露、と言っても差し支えない。        
                            

年金生活の我が家の基本は、厚生年金、わずかな企業年金を頂き、通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。

そして、毎年年始が過ぎた頃に、新年度の月別の概算表を作る際、
家内の要望などを織り込んで作成し、予算としている。
従って、年金生活の身であるから、今年も赤字が120万円前後かしら、とお互いに確認し合っている。

こうして私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、
と家内がときおり、 呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑したりしているのが、
我が家の実態である。

こうした年金生活を私の60代の10年間を過ごし、
つたない私の長い人生の航路の中、何より安楽な時代、と思い重ねたりして享受してきた・・。
              

私は昨年の9月下旬に古希(こき)と称される満70歳となり、
総務省の公表に寄れば、日本の70歳以上の方は2383万人で、総人口の19%近くの長寿社会を迎えている今日、
古来稀(まれ)なり・・は死語だよねぇ、と微苦笑を重ねたりした。、

しかしながら70代となれば、殆ど方は体力の衰えを実感して、75歳まではこれまでどおりの自立した生活ができるが、
80歳が見えてくる頃には介護を必要とするようになり、
やがて80代後半では何らかの介護付き施設に入居する可能性が高くなる、と専門家の人から数多く発言されている。

このように学んできた私は、これからの70代の年金生活は、どのように過ごせるか、
と思案したりしてきた。

私は何かとプラス思考の単細胞であるので、
年金が減少、医療費の高騰、諸物価は不安定、何かと将来に不安となる中で、
ひとすら歩き、心身ともに自立し健康的に生活できる期間の健康寿命を保つことが肝要、と思ったりしている。

そして私の父は42歳の若さで病死され、母は77歳の『喜寿』の祝いの後、病死されたが、
私は秘かに男性の健康平均寿命の71歳を超え、やがて男性の平均寿命と称せられる80歳まで、
認知症に遭遇せずに、たとえ歩く状態がノロマになっても、駅前までの1キロぐらいの路を自力で買い物に行きたい、
と念願したりしている。

もとより、こうしたことは自助努力も必要であるが、天上の神々の采配に寄ることであり、
定年退職するまで敗残者のような半生を歩んきた為か、先苦後楽の人生航路と感じている私に、
果たして・・と微苦笑したりしてきた。

そして70歳以降の人生は、体力の衰え実感させられる中、
『生きがい』、『気力』あるいは『意欲』があれば、晩年期は、その人なりに充実した人生になる、
と思いながら、微笑んだりしてきた。
              

しかしながら私の現役のサラリーマンの50代に同僚が病死されたり、
知人は定年前の59歳で病死し、残されたご家族の心痛な思いが、痛いほど理解させられたりしてきた。

或いは定年後の62歳で、現役時代の一時時期に交遊した友も、無念ながら病死したりした。
       
私は高齢者入門の65歳を過ぎてから、心身ともに自立し健康的に生活できる期間の健康寿命は、
男性の平均としては71歳であり、平均寿命は男性の場合は80歳と知った時、
恥ずかしながらうろたえたりした・・。

やがて私は70代以上の方で自助努力も肝要であるが、
幸運に恵まれ健康寿命を保った70代以上の方は、選ばれた方かしら、と思いを重ねたりしている。
       

我が家は無念ながら金庫がなく、新築した36年前より、最寄りの銀行の貸金庫を利用している。
こうした時、私たち夫婦は重要な不動産に関する書類、定期貯金通帳などをあずけているので、
私たちは出し入れをする時は、間違いないようにも、必ずふたりで確認してきた。

そして年金生活を始めてからは、どちらかがボケたり、死去することも恐れ、
銀行、郵便局で100万円の出し入れをする時は、お互いに確認したりしてきた。

或いは人通りの少ない道に家内が出かけたり、ときおり家内の要望で駅前に買物をしたり、
或いは年に4回ぐらいは都心の新宿のあるデパートに買い物をする時は、
体力の衰えた高齢者の私でも、一家の主(あるじ)の責務と確信を深めて、
家内のボディーガード兼お供、そして荷物持ちで、共に出かけたりしてきた。

こうした中で、我が家はふたりで一人前だよねぇ、と私は家内に言ったりしている。
       
          

このように私たち夫婦は、ささやかながら安楽な年金生活を続けている今、
いずれは私か家内か大病となり、やがてどちらかが『おひとりさま』となるので、
私たち夫婦としては、今が人生最良の時期かしら、と思ったりしている。

しかしながらこればかりは天上の神々の采配に基づく範疇なので、
日々を大切に過ごせばよい、と深く思ったりしている。

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都立の神代植物公園、私の心の第二のふるさと、と思い深めて訪ねて・・。

2015-03-04 16:57:33 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みに住む年金生活の70歳の身であるが、
昨夜に降りだした雨は、今朝の8時過ぎまで降ったりしていた・・。

そして私は天気情報をテレビで視聴すると、
まもなく雨は上がり、急速にお天気は回復して、曇り空から快晴に向かいます、
気温も急上昇して18度前後の4月ような暖かさになります、と報じていた。

こうした後、都立の神代植物公園に行き、雨上がりの落葉樹の木立の情景を訪ねて見よう、
とぼんやりと思い立ったりした。
       
       ☆今回掲載した写真のすべては、本日の神代植物公園で、記憶の形見として撮った☆
 

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は平素の買物専任者の身となっているので、
『XXちゃんさぁ・・今日は神代植物公園に行った後、買物するからねぇ』
と私は家内に言ったりして、了解を求めたりした。

『今日のお買物・・止めて、明日行って下されば結構ですわ・・ゆっくり神代植物公園を見てくれば・・』
と家内は微笑みながら私に言ったりした。

『助かるょ・・ありがとうねぇ』
と私は明るく大きな声で言ったりした。

私の住む自宅の近くには野川が流れて、川沿いには遊歩道があり、
上流に向かい45分ばかり歩くと『深大寺』があり、そして隣接した所に都立の『神代植物公園』がある。

私は野川の川沿いの遊歩道を歩くのが圧倒的に多いが、
時として安楽なコースを歩き、途中からパスを利用することもある。

今回も私は9時半過ぎに我が家を出て、京王線の最寄駅のひとつの『つつじが丘』駅に15分ばかり歩いた後、
駅前より神代植物公園、深大寺方面の路線バスに乗車し、
やがて10時15分過ぎに神代植物公園の正門前で下車したりした。
       


私は幼年期に農家の児として育った為か、この園内にある雑木林は、
身に心も安らぐ所となっている。
       

この公園は私が通った地元の神代中学校の付近にあり、
入学した1958年〈昭和33年〉の当時は、神代緑地として存在し、この周辺は雑木林、畑などであった。

やがて1960年(昭和35年)の春に中学校を卒業した後、
確か翌年の1961年(昭和36年)の秋に、拡大と整備され上、
神代植物園と改称して、都内唯一の植物公園として開園された・・。

この間の私の中学時代は、生家より自転車で通学し、ときおり開園前の雑木林の中とか周辺を下校の時などに、
学友と自転車で走りまわったりしていた。
その後、人生の節目などを含めて、四季折々通ったりしてきた。
       
          

そして私が心に迷ったりした時などは、樹木を眺めたり、それぞれの花に心を寄せて、
心の濾過をして浄化されたりしてきた。
                    

私がこれまで生きてきたつ拙(つたな)い人生には、
時として心の証(あかし)が梅(ウメ)、椿(ツバキ)、櫻(サクラ)、花水木(ハナミズキ)、躑躅(ツツジ)、紫陽花(アジサイ)、
かえで、花菖蒲(ハナショウブ)、蓮(ハス)、木槿(ムクゲ)などに心を寄せてきたので、
それぞれのコーナー園が私のひとときの迷いも知っていると思ったりしている。
                                                 

過ぎ去り年、東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の初秋、
私は大学2年であったが、この公園の雑木林を歩いたりしながら、小学高学年より映画少年であった私は、
映画の脚本家になりたくて、大学を中退することを決意したりした。

そしてケヤキ、コナラ、クヌギ、エゴノキ、コブシ、アカマツ等の中、下草としてアズマネ笹が、
彩(いろど)る中を彷徨(さまよ)うこともあったりした。

やがて私は結婚して2年が過ぎた33歳の頃、私の生家に近くに家を建てた後、
家内を家の周辺を案内したり、ときには神代植物公園にも訪れたりしていた。
          

そして私が40代の頃は、サラリーマンの多忙の休日の時、
四季折々に家内を誘い、私は純米酒の辛口を弐合ばかり持参して、
それぞれ花咲く時期、梅、或いは椿、そして桜などを観ながら、ベンチに座りながら家内と語り合いながら、
呑んだりしたことが多かったりした。
                 

やがて私が50歳代になると、会社の業務が益々多忙となり、
家内の方はテニスに熱中していたので、
国内旅行だけは何とか休暇のスケジュール合わせる程度となり、
私が日曜日に休めた時は、独りで通ったりしていた。
          

そして私は定年退職後の多々の理由で、年金生活を始めた時に於いても、独りで四季折々に訪ねてたり、
或いは家内と共に来たりしている。
                 
          

私は結婚前後の5年を除き、今住んでいる地域は65年近く過きているが、
心のふるさとの原景は家の周辺に、かすかに亡き祖父、父の知人だった旧家の周囲に残っているだけとなっている。

私は農家の児として生を受けたのは、1944年(昭和19年)の秋であり、
私が地元の小学校に入学した1951年〈昭和26年〉の春の当時は、
祖父、父を中心に小作人だった人の手を借りながら、程ほど広い田畑を耕していた。

そして一角には湧水があり、生家の田んぼが拡がる間に小川が流れたり、
蓮(ハス)の専用もあったりした。
或いは母屋の宅地の外れには土蔵、納屋小屋にあったりし、周辺には竹林、雑木林に囲まれた農家であった。

こうした中、この当時の周辺の情景は、京王腺の駅付近には商店街があるだけで、
周辺は田畑、竹林、雑木林など拡がり、緑豊かな村里の情景であった。
       
          
やがて私が小学生2年に父が病死し、この翌年に祖父も死去し、
生家は衰退したが、小学校を卒業する頃に、東京のベットタウンに変貌しはじめ、住宅街となった。

そして、この間に曲がりくねっていた野川も本格的に大きな川として護岸工事の上、
整備されたり、遊歩道や小公園も新たに設けられたりした。

こうした中で、私が農家の児として育った原景は、殆ど消え去ってしまった・・。
          
こうした思いのある私は、愛惜を重ねるように、都立『神代植物公園』の園内を歩き廻ったり、
雑木林、かえで園の数多くのモミジ林などに身に心も安らぐひとつとなっている。
       
                    
或いは近くにある『水生植物園』に行ったり、田んぼの情景、湧水を眺めたりして、
私が育った小学の低学年の頃までの情景を思い重ねて、見たりしている。


このような心情を秘めた私は、都立の神代植物公園こそが私の心の第二の故郷(ふるさと)として、
少なくとも四季折々に訪ねて、園内を歩き廻ったりしている。


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スーパーで『ひなまつり』特選コーナーを見た後、やがて65年前の生家の情景を思い馳せ・・。

2015-03-03 16:05:14 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む70歳の身であるが、
本日の午前中のひととき、いつものように平素の買い物専任者の私は、最寄りのスーパーに行った。

そして家内から依頼された品を探している中、何かしら華やいだ桃の花が飾られて、
はまぐりと菜の花が入った『ひなまつり 五目ちらし』、穴子の入り『ひなまつり 五目ちらし』などがあり、
この片隅には『いちごのショートケーキ』、いちごの『あまおう』、『とちおとめ』などもあったりした・・。

そして齢ばかり重ねた私でも、『ひな祭』の日だった、遅ればせながら気付き、微苦笑したりした。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
もとより孫娘もいないが、日本の女の子を全国的に祝う日である、と少しボケた私でも認識している。

やがて私は、家内も女性の身なので、私は勝手に少し高価なひなあられセット、
プリンの代わりに桜餅、草餅などを買い求めたりした。

そして帰宅後、小庭に咲いている白梅を眺めたりした。
                 

やがて遠い昔の65年前の頃、私の生まれた実家の『ひな祭り』の情景が甦(よみがえ)ってきた・・。

私は1944年(昭和19年)の秋、農家の三男坊として生を受け、
祖父と父が健在だった頃までは、東京の郊外で農家をしていた。
そして、戦前からの小作人の助力を得たりし、程々の広さの田畑を耕し、雑木林、竹林などがある旧家であった。

長兄、次兄の次に私は生まれたのであるが、
何かしら祖父と父などは、三番目の児は女の子を期待していたらしく、幼年の私でも感じたりしていた。
もとより農家は、跡継ぎとなる長兄、この当時は幼児は病死することもあるが、
万一の場合は次兄もいるので、私は勝手に期待されない児として、いじけたりすることがあった。

やがて私の後に妹がふたり生まれ、 祖父、父が初めての女の子に溺愛したしぐさを私は見たりすると、
私はますますいじけて、卑屈で可愛げのない言動をとることが多かった・・。
       
       
早春の2月の下旬になると、母の実家から贈られたひな人形を
父が宅地の隅にある蔵から出してきて、母や未婚の叔母に手渡していた。

10畳の一角にひな壇を設け、ひな人形の五段飾りを設置し、
この前に桃の花、ひし形の白色、桃色、薄緑色のひし餅を置いたりしていた。

ひし餅は、父が餅米を精米所に持ち込んだ後、
やがて父が杵(きね)で臼(うす)の中にある蒸されたもち米を搗(つい)たりした。
そして何故かしら菱形にして、三色にしていた。

後年の60歳になった私は、初期の菱餅は草色だったが、江戸末期になって、真ん中の一枚が白くなり、
更に明治時代になってから、上の一枚に小豆(アズキ)で色をつけて、
今のような桃色に仕上げるようになった。

そして一枚目の紅は桃の花、二枚目の白は雪を、三枚目の緑は若草を表わす、と学んだりした。


桃の花は、宅地の外れにある陽当たり良い所に3分咲きを活(い)け、
何かしら華やぎ、かぐわしい香りがしていた。

このような情景を私は、ぼんやりと眺めていたが、
華やかな桃の花、3色のひし餅、そして絢爛(けんらん)な17人の人形を見つめていた。

そして、私はため息を吐(つ)きながら、
『女の子はいいよなぁ・・皆に大事にされるから・・』
といじけた私は思ったりしていた。

そして、人形の中のひとつ、護衛のようになっている人形を見つめ、
あのように綺麗な格好でいられたらいいよなぁ、と眺めたりしていた。

やがて 桃の節句』が終り、翌日になると母は五段飾りを撤去し、蔵に仕舞う準備をしていた。
私はせっかく飾ったのだから、せめて桜の咲く頃まで、
このままにして置けばよいのではないか、と幼年心に感じていた。
       

このような思いを抱いた後、桜の咲いた頃、私は地元の小学校に入学した。

やがて私が小学2年の3学期の終る早春に父は病死され、そして1年後には祖父に死去され、
大黒柱となるふたりが亡くなったので、生家は没落をしはじめた・・。

そして確か2年後には、『桃の節句』が到来しても、
私の生家は、ひな壇を設け、ひな人形の五段飾りを設置し、
この前に桃の花、ひし形の白色、桃色、薄緑色のひし餅を置いたりする余裕もなくなり、
これ以降、私は見かけることはなくなった。

このようなことを私はぼんやりと、思いだしたりし、
齢を重ねた私は、65年前の頃に、そうだったよなぁ、と微苦笑したりした。


我が家は無念ながら孫娘もいなく、今としては『ひな祭り』は、せんなきこととなった。

こうした中で、小庭にある紅梅(コウバイ)が、遅ればせながら、数日前に咲き始めた。
          

こうした少し華やかな朱紅色の色あいをしている紅梅を見ながら、
桃の木のない我が家としては、せめて桃の花の代わりに紅梅の花を眺めたりしている。

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年金生活の我が家でも、2月度の月次決算を終えて、やがて微苦笑を重ねて・・。

2015-03-02 15:25:53 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の70歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。
 

昨日の午前中、天気情報をテレビで視聴していたら、
朝の6時は4度、昼下がりは8度前後、夜の6時は8度前後で、小雨が降る寒い一日となります、
と報じていた。

こうした後、『小雨の降り続け日ですので、買物はやめて、2月の家計簿・・締めましょうか?』
と家内は私は言ったりした。

『結構ですね・・』
と平素の買物専任者の私は、責務から解放された為か、
若き自衛官の諸兄に負けないように、明るく大きな声で応(こた)えた。

もとより我が家は企業の月次決算と違い、年金などの収入もほぼ決まっているが、
家内は昨年の12月に65歳の高齢者となったので、
今回の2月より私と家内との間で厚生年金は一部移動したが、合算すれば大勢に影響はないので、
微苦笑したりしてきた。

そして2月度の電話料金、ネットの関連費、電気、ガスなどは銀行引き落とし、新聞代も支払ってきた。

或いは3月2日までの国民健康保険料、家内の介護保険料、そして固定資産税も忘れてはいけないと思いながら、
2月月末の28日に郵便局で振込をしたりしてきた。
       
   

私は2004年(平成16年)の秋に定年退職し、多々の理由で年金生活をし、
現役サラリーマン時代の緊張感から解放されて、やがて65歳の高齢者入門が許された時から、
ボケてはいけない、と家の中でも明るく大きな声で家内と会話することが多くなっている。

私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

我が家の生計は原則として、私たち夫婦はお互いに厚生年金とわずかな企業年金を頂いた範囲で、
日常生活を過ごすことを原則としている。

そして耐久品の購入、冠婚葬祭、そして私たち夫婦の共通趣味の国内旅行に関しては、
程々の貯金を取り崩して、ここ10年を過ごしてきた・・。

そして我が家は、日常は買い物したレシートなどを、
家内が一週間に一度ぐらいノートに簡単に集計している程度であり、
月末を過ぎた数日後に、私たち夫婦は家計簿の月次決算をしたりしてきた。
                                  

昨日の午前中のひととき、家内が支出のそれぞれの区分項目を読み上げて、
私はパソコンの表計算ソフトのエクセルを活用して、入力したりした。

そして2月は厚生年金、企業年金などの収入の項目、そして郵便局の個人年金を入力した上、
やがて銀行、郵便局、信託銀行などの残高を入力した上で、
5表ばかり我が家の独自の資産と収支別明細表を作成したりした・・。

やがて2月の家計簿の月次決算を終え、
連動させた計算で2015〈平成25〉年度の1月度~2月度までの通期決算も終えてしまい、
日本で一番早い決算かしら、と私は苦笑したりした。

結果として2月度は、2か月分の年金の収入があったりしたが、我が家は赤字となってしまい、
こうしたことは衣服費の増加、そして過ぎし9日より紋別~サロマ湖~網走の旅を7泊8日で遊学してきた結果であり、
意欲と体力のあるうちに、行きたい所に行ければ良い、と私たち夫婦の想いであったので、
お互いに微苦笑したりした。
             

私たち夫婦は年金生活をして11年目となるが、我が家の銀行、郵便局、信託銀行などの貯蓄は、
安全利回りが原則で、周知の通り金利はわずかである。

そして年金生活を始めて数年は、200万円前後の赤字となったりしたが、
その後は毎年は120万円前後の赤字の実態なので、予定通り残額は減るばかりとなっている。
                 

私は民間会社の中小業のある会社に35年近く奮戦し2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
最後の5年半はリストラ烈風の中、出向となったりし、敗残者のようなサラリーマン時代を過ごした。

そして私はつたないサラリーマン時代の軌跡であったので、もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに
38年前後を邁進し栄達されたエリートの年収、そして退職金などは、遥かに及ぶことなく、遠い存在である。

その上、私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。
                


2004年(平成16年)の秋に定年退職し、年金生活を始めた直後、私たち夫婦は齢を重ねるとボケたことを配慮して、
銀行、郵便局、生命保険等を出来うる限り集約したりした。

こうした時、ある銀行の窓口で私の退職金を引き出した時、支店長から応接間に招待され、
支店長から『一時払い終身保険』を私たち夫婦に説明して頂ながら、勧誘させられたりした。

しかし10年間の運用利回りが良いと言われても、長期に及び資金が固定されてしまうので、
魅力は感じることなく、対象外とした。

この直後、支店長から3分の2はある投資信託で高い金利、残りの3分の1を安全利回りで運用されれば確実に増えます、
と勧誘するように助言されたりした。
そして支店長が自分もしていますよ、と自身の投資額と金利の推移表のカードを
私たち夫婦に見せて、先月は5万少し・・と提示して、微笑みながら勧誘した。

しかし私たち夫婦は、もとより金利の変動は良いことあれば悪いこともあり、
悪化しマイナスになった場合は、残された人生に狂いが生じるので、安全な国債などした。

私は小心者のせいか株、投資信託などのハイリターン、ハイリスクで、
残された大切な人生に一喜一憂するのは、何よりも心身によくないと思ったりした。

そして、貯金関係は殆ど国債の元本保証プラスわずかな金利、そして定期貯金を選定したのである。
                    

こうした私たち夫婦の根底には、バブル期の終了まじかに、投資信託に失敗したことがあったことが主因であった。
バブル期、私は現役のサラリーマンであり、同僚たちが盛んに株の売買で、高揚していた。

そして私は基本的な私たちの生活資金として、この当時は預貯金は1000万に到達していない上、
小心者の為に株のハイリターン、ハイリスクは避けて、ボーナスを頂くたびに定期貯金に加算したりしていた。

やがてある証券会社より、投資信託の勧誘のパンフレットが郵送され、
何かしら四半期毎に8%~12%の利回りがあった、と直近の四半期実績推移表が添付していた。

こうした中で、私は天下のXX証券が、世界中の資金を運用するプロの集団だから、と信頼して、
取りあえず100万円だけ、我が家は投資した。

やがて一年過ぎた頃、結果として元本の100万円の消えて、精算は85万円にお詫び状が付いていた。
そして我が家は少なくとも15万円も損失したので、これ以来どのような証券会社より勧誘が来ても、
無視をしたりしてきた。
       

我が家は国債を二千万円足らずを購入しているが、絶対的に大丈夫、と問われれば、
『国債が駄目になった時は、日本が滅びる時である・・その時は私たちの生命財産はもとより保障されないので・・』
と私は今でも公言をしている。

このように我が家は預貯金に関しては、元本保証プラスわずかな金利主義となっている。

確か年金生活を始めた翌年の2005年(平成17年)頃に、
外資のシティバンクの新聞に《・・金融資産1億円の方に・・》と掲載していた。

私はこっそりと読んだりしたが、金融資産と住宅の敷地の固定資産評価額を加算したら1億円は超えるが、
とても金融資産1億円は・・と項垂(うなだ)れたりした。
                 

このように拙(つたな)い年金生活をしてきたが、
確実に増えているのは、現役サラリーマンの時は苦楽の激しかった時が過ぎ、
年金生活の中で、家内と共に過ごしてきた平穏な生活の中に於いて、日常生活のささやかな想いでの数々である。

こうした中で、デジカメで季節の移ろう情景を撮った写真は、記憶の数々のかたみであり、
或いはブログの日々の思いの投稿文であり、ときおり過ぎ去り日々に愛惜を重ねたりしてきた。

或いは私たち夫婦は、国内旅行を幾たびか重ねてきたので、旅先の情景、こぼれ話を
のちの想いとなったりしている。

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