道の駅ふくしまの「雪うさぎ」…
生きた牛や鶏を見て、「美味しそう」と思う人はいないのではないだろうか。やはり、食肉として加工され、生きているという実感が湧かなくなって食べることができる。赤いお目目の『雪うさぎ』…正対してみると『助命嘆願』されているようで、一瞬フォークを刺すのを躊躇した。(所詮、お菓子であるから、お尻を向けてブスリと^^;)目を見てしまうといけないのかも知れない。ましてや、名前など付けて一緒に暮らせばなおさらである。幾何学的な形状のケーキは平気で、動物を模ったムースにためらいを覚えるのは何故?決して『優しさ』を強調しようなどとは思わないけれど、このお菓子、反則技だわ(笑)
はて、震災地への岸田首相の初訪問…行けば行ったで「遅い。何をしに来たの?」と言われ、行かなければ「首相に見捨てられた。」と言われるに違いない。単なるパフォーマンスと揶揄されたとしても、手土産には復旧予算として予備費の倍増を持参し、続く復興予算の確保を約束する…こうした『儀式』を演じなければいけない。だって与党だもの…予備費の増額に野党だってマスコミだって、少ないと言うことはあっても反対することはないだろう。けれど、使途目的を予め限定しない予備費は、支出にスピード感が伴ったとしても、本当に必要なところに支出されたのかという検証が難しくなる。「被災者の心に寄り添った…」この『枕詞』を添えれば、何でも許されるような使い方には注意が必要な気もしますけれどねぇ…。
どうイメージしても結構です…
さて、ベンチで日向ぼっこを楽しんでいると思うのも、独り暮らしの寂しい老人であるとイメージを湧かせていただいても、見る方のイメージ次第で結構でありますが、この方の気持ちの有り様など分かる訳もない。これが降りしきる雪の中の画像ならば、何かがあったに違いないという気持ちに大きく傾くかも知れないけれど、日向(陽)と独り(陰)の組み合わせはどちらの解釈も成り立つものである。(とは言え、「独り(陰)」=「孤独」と結び付けてしまっている感もあるけれど…。)
はてさて、「人はひとりでは生きられない。」などと勝手に決めつけて、「他人の気持ちに寄り添って…」などと、ズカズカと心の中にまで踏み込まれるのも願い下げである。「独りで動ける内は、手助け無用」と今は鼻息の荒い『おやじぃ』ではあるけれど、たとえ家庭内で孤立していたとしても、まだ家族が居るという安心感がどこかにあるような気もする。もしかすると、「国民目線に立って…」とか「被災者の気持ちに寄り添って…」を連発する岸田首相その人が、もっとも孤独なリーダーなのかも知れないねぇ…。好きでその任に当たっている訳だから、何も『おやじぃ』が慮る必要もないのではあるけれど。同居猫『シロ♀』も『おやじぃ』にスリスリ…エサが欲しいに違いない。エサ(お金)が無くなると、途端に離れていく人間こそ必要のない『関係』なのかも知れないねぇ(笑)