蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

やり残した夏

2017年09月12日 | つれづれに

 汗と泥にまみれた身体を熱いシャワーで洗い流し、いつものように冷水に切り替える……「うっ、冷たっ!」……水道の水の夏は終っていた。

 気になっていた庭の手入れに手を付けた。朝食後のまだ涼しい時間、コロ付き庭仕事椅子を持ち出し、庭中に生い茂った夏草をスクレーパーで一気に削ぎ取っていく。1本ずつ抜き取るなんて、まどろっこしい。椅子を転がしながら、陣取りゲームのように根っこからこそげ取るのが私の流儀である。
 雨を含んだ湿った空気に次第に汗ばみ、半ば削ぎ取った頃には額から汗が滴っていた。所々散らばっているスミレは残す。庭石を囲んで5センチほどの厚みでふかふかに広がっていた杉苔は、30年の間に姿を消した。その後を小さな踊り子を見たくて、庭の西半分の庭石の根方にはユキノシタを繁らせた。東半分には、春の白波を見たくてタツナミソウに縄張りを拡げさせている。間にはいりこんだ雑草を、つまむように抜き取っていく。
 「雑草と言う名前の草はない」と昭和天皇はおっしゃったが、庭いじりする身には雑草は確かにある。綺麗に始末しても、すぐに又逞しく繁り始めるしたたかさに、時に圧倒されて不毛の戦いの空しさを感じることもあるが、実は「庭の草取り」には無心になれる癒しの効果がある。だから、この作業は嫌いではない。心を空っぽにして汗にまみれる心地よさは、私にとっては捨て難いひとときなのだ。
 ドングリを探す熊のように地面を這いずる私を見かねて、カミさんが玄関先からカーポートまでの道路の落ち葉を掃いてくれた。ハナミズキ、ロウバイ、イロハモミジ、キブシ……これから木枯らしが吹き募る頃まで、朝晩の落ち葉掃きが私の日課になる。

 ついでに、伸びすぎたキブシの枝を払った。夏の日照りをものともせずに、この樹は猛々しく成長してカーポートの屋根を掃き、道行く人の傘に悪戯を仕掛け、走り過ぎる車の屋根を叩く。長く伸びた枝を20本余り伐採した。来年の3月に咲く花穂を、もう数百付けた枝である。少し心が痛むが、この程度でめげる奴ではない。
 3時間の作業で、庭に静寂の空間が蘇った。曇り空に法師蝉の声も遠い。今日の作業はここまでしよう。

 雨を挟んだ翌々日、玄関から勝手口側を綺麗した。二日前に草を取り終った前庭の庭石の脇から、白い彼岸花の花穂が小筆のように伸びはじめていた。

 もう一つ、数年前から気になっていた作業を片付けることにした。我が家を囲んで雨水の溜め桝が9つ並んでいる。放置しておくと、雨と共に流れ込んだ土砂が桝を埋め、土管を詰まらせてしまう。ひとつひとつ桝の蓋を開け、膝をついて蹲りながら中にたまった土砂をスコップで掬い上げていく。ショウケに5杯、掬い取った土砂を庭土に返して、土管をホースの強い水流で洗い流して作業を終わった。これで5年ほどは大丈夫だろう。

 3時間半が経過していた。膝から下、肘から先は泥にまみれ、這いつくばった足腰に鈍い痛みが溜まっていた。毎朝続けているストレッチとスクワット……日常生活ではあまり使わない筋肉を鍛え、体幹を整えるストレッチ、「痛みが出る寸前の、気持ちいい状態」を20秒保つこの体操を、自称「いたきも体操」という。起き抜けのベッドの上で続けているこの体操のお蔭で、これだけの作業をしても、翌日の凝りもさほどのものではない……筈である。

 夏前から綺麗な花を咲かせ続けているお向かいの木槿が、黙って秋風を呼んでいた。息の長い花である。この花は、ムクゲと書くより木槿と漢字で書きたい。同じく漢字で書きたい百日紅(サルスベリ)は、そろそろ花時を終えようとしていた。
 亡びと誕生と……移ろうものがあるから、日本の四季は趣が深いのだろう。
                    (2017年9月:写真:風に揺れる木槿)