蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

それぞれの時、それぞれの想い

2017年09月16日 | つれづれに

 光陰は、時に矢のように速く、時にまどろっこしいほどに緩やかに過ぎていく。そして、速くとも遅くとも、それぞれの時に、それぞれの想いがある。

 全国有数の歓楽街、博多中洲……すぐ目の前の博多湾に向かって、那珂川がゆったりと流れていた。吹き過ぎる夜風が水面に縮緬の波を走らせ、色とりどりのネオンを砕く。昼間は何処か侘しさや荒廃を感じさせる中洲の街も、日暮れと共に夜のヴェールが全てを包み隠して、あたかもそこに美しい夢があるかのように思わせる。儚い一夜限りの夢を追って、今夜も酔客が千鳥足で中洲大橋を渡っていく。
 夜風が心地よくて、しばらく川沿いの公園のベンチで酔いを醒ましながら坐っていた。

 同期入社のOB会の帰りだった。ゴルフで集う会だから、私は時たまゲストとして懇親会に顔を出すだけである。9人が珍しく揃い、中洲の川の畔に建つビルの6階で宴席を囲んだ。以前は、大ジョッキを重ねていた仲間たちが、9人中7人までが「ワイン!」と叫ぶのが面白かった。「明日に残らないから」と言い訳しながら、実は歳と共に酒が弱くなったり、ドクターストップを抱えていることを、お互いに触れようとしない。
 「2時間飲み放題」の宴席では、下戸の私はいつも割り勘負けする。

 みんな6歳前後で終戦を迎え、戦後の食べるものもろくにない中で栄養失調気味の成長期を送った同期である。野草やイナゴを食った経験があるから、貧しさには強い。400人採用され、名古屋と神戸で200人ずつ自称「見習い天国」と大事にされながら研修を受けて、全国の工場や営業所に散って行った。高度成長期を企業戦士の尖兵として支え続け、残業や休日出勤をものともしない時代を戦ってきた。40年を勤め上げて、バブルがはじけた直後にリタイアした。退職と共に、待つことなく失業手当と満額の年金を受け取った最後の世代である。
 「俺たちは、いい時代を生きたよなァ」
 集えば必ず誰かの口から洩れる言葉である。そこには、どん底から始めて、自らの力で日本の繁栄を築き上げたという、ささやかな誇りが滲んでいる。

 会社のOB会は、ともすれば昔の上司と部下のしがらみに縛られ、仕事の自慢話などを延々と聞かされることが多いから、全社的なOB会には出たことがない。しかし、この9人の仲間の集いには、そんな話は滅多に出ない。勿論、想い出話はいろいろ出てくる。しかし、全国に散った仲間だから、共通の仕事や上司に関する話題が乏しいのが幸いして、「この頃、どうしてる?」と、今の生活に纏わる話が多いのだ。
 体質もあって、ビール一杯で真っ赤になるほど酒は飲まないし、意地もあって40年間、ゴルフ、麻雀、パチンコなどとは無縁で営業を全うした。入社間もないころ、ある先輩社員に「酒も呑めずマージャンも出来なくて、営業が出来るか!」とそしられ、「よし、酒もマージャンもなしで、営業やってやろうじゃないか!」……それが意地となった。
 若気の至り……しかし、人生の多くの転機や方向付けは、意外に若気の至りが決めているものだ。だから、今も悔いは微塵もない。
 ひとつの時代を生きた仲間たち、一人一人に、それぞれの時、それぞれの想いがある。

 久し振りに、博物館裏山の散策路を辿った。3ヶ月のご無沙汰だった。梅雨時から秋の半ばまで、この山道は藪蚊と蜘蛛の巣に悩まされる。博物館裏の散策路ののり面は夏草が生い繁り、湿地は早くもイノシシがぬたばとして狼藉の限りを尽くしていた。
 その道の一角、3メートルほどの間で20匹以上のコオロギが死んでいた。まだ弱々しく足掻きながら地べたを這っているコオロギもいる。何が原因だろう?昨夜まで秋を謳っていたコオロギたちの非情の死……自然界には、つかみ切れない不思議がある。
 やぶ蚊に散々苛まれ、頭から蜘蛛の巣を浴びながら、ほうほうの態で山道から逃げ帰った。「野うさぎの広場」にシートを敷き、木漏れ日を浴びながら風の歌を聴くのは、まだまだ先のことである。

 腰から下は、びっしりイノコヅチの実に覆われていた。ここにも秋の使者がいた。
                  (2017年9月:写真:夜の中洲)