蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

青春のカクテル

2017年04月25日 | つれづれに

 新聞に思いがけない記事を見付けて、懐かしさがこみ上げた。1959年(昭和34年)、サントリー(当時は寿屋といった)主催のカクテル・コンクールで、グランプリを取ったスノー・スタイルのカクテル「雪国」の生みの親・山形県酒田市の井山計一さんの生涯が、ドキュメンタリー映画になって公開されるという。
 ウォッカ、ホワイト・キュラソー、ライム・ジュースをシェイクし、グラスをシュガーで縁取ってグリーン・チェリーを沈める。ネットの紹介文を借りれば、『味わいのよさもさることながら、色合いが黄緑と寒色系でまとめられ、グラスのふちにまぶされた砂糖が雪の白さを連想させる。カクテル名とぴったりマッチしたこの「雪国」の姿はすばらしい。戦後の日本が生んだカクテルの傑作と謳われるカクテルである。』
 これ以上の言葉は不要だろう。因みに彼は、91歳で今も現役のバーテンダー。「僕は純然たる遊び人。人を喜ばせることが一番楽しい」という。

 時は58年前に遡る。その年、一浪の身をひたすら勉強机に縛り付け、唯一の楽しみは月に一度と決めていた近郊の山の一人歩きだけだった。生涯で一番勉強した時期であり、好きな映画館通いさえも断って、父から「時には骨休みしろ!」と言われるほどのハードな日々だった。
 当然と受け入れて、何の悲壮感もない浪人生活だった。高校3年、始業のベルが鳴ると同時に教室に入ってくることから「消防自動車」という綽名を持つ気難しい担当の数学教師から「君みたいな人間がいないと、生徒会が疲弊する。私の授業はサボってもいいから、頑張りなさい」とお墨付きをもらい、一浪を承知で生徒会にひたすら献身(と自分では思っている)、卒業時には副総務(生徒会副会長)、総務局長、教育局長、生徒総会議長、卒業アルバム編集委員長と、欲張った肩書を5つも持っていた。これでは、勉強に身が入るわけがない。
 思いがけず学業成績優秀以外の理由で館長賞をもらい、答辞を読む栄誉までいただいて卒業、俗称「記念館大学」と称する予備校に胸を張って(?)1年間通うことになる。

 翌年正月明けの夜、今のカミさんと寒い博多駅のホームで運命的な再会を果たし、大学入試を終えて晴れて大学生となった。終戦による引き上げで、小学校1年を2度経験しているから、都合2年足踏みしたことになるが、これが退職時の勤続年数に大きなマイナスになるとは、当時は思ってもいなかった。(61歳で定年退職したが、勤続年数は39年。2年分の退職金を損したことになる)
 大学入学は、同時にアルコール解禁でもあった。尤も、実は私の飲酒歴(?)は中学校に始まる。夏の林間学校を終えて学校に戻り、生徒会の仲間たちと片づけを終えた後だった。何故か医務室の棚に置いてあったウィスキーを無断で持ち出してラッパ飲み、へべれけに酔って、学校裏の西公園で風に吹かれて酔いを醒まし……とんでもない生徒会長だったが、怒られることもないおおらかな時代だった。
 高校時代の文化祭や運動会や部活の打ち上げ(コンパ)は、いつも一升瓶で売っていた安い赤玉ポートワインだった。これがしたたかに悪酔いする。頭痛と吐き気に苦しみながらプールサイドでひっくり返っていたり……決して褒められることではないし、今なら退学ものだろう。しかし、報いは待っていた。赤ワインの匂いがムット鼻につき、ワインは白しか飲めない状態が、実に数十年続いた。……アルコールにいまだに弱いのは、この辺りの原体験によるものかもしれない。
 いくつもの過ちや挫折を繰り返すのが青春、そしてそれが許されるのも青春である。
 
 大学1年のある日のデートの夜、もう店の名前も憶えていないが、バーテンに勧められてカミさんと飲んだカクテルが、前年のカクテル・コンクールで優勝したという「雪国」だった。勿論その考案者が、この井山さんだとは今日の今日まで知らなかった。
 一時期カクテルに憧れ、シェーカーとメジャー・カップ、マドラスなどを揃えて、シャカシャカとシェーカーを振っていたこともある。

 甘い想い出を絡めた青春のカクテル「雪国」。「井山さんの映画が上映されたら、観に行ってみようかな」と思いながら、たったコップ2杯のビールでほろほろと酔う初夏の夜だった。
          (2017年4月:写真:カクテル「雪国」――ネットから借用)


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