のんびりしすぎたせいかなにをするのもだるい気がする。今朝はそれでもミサに出かけられた。前にもぶろぐに書いたが、彦根の教会は、彦根城の内堀に面していて、彦根藩のご家老の屋敷跡だ。庭には当時の大きな庭石がそのまま残っているし、灯籠もあるのでおかしい。灯籠の隣にルルドの洞窟が作られマリア様がいらっしゃる。今日は『世界召命祈願の日』。
司祭様がおかしな質問をされた。「司祭は結婚できない ですか?」「司祭は結婚しない ですか?」司祭様は法的には(カトリックの法)では、結婚できません。でも、結婚は「しない」だそうです。司祭になるための修行のなかに、30日の黙想があって、毎日1時間指導者と話す以外は黙想して祈るそうです。司祭様は「どのくらいの思いで司祭になりたいのですか?」と聞かれたそうです。「もちろん100%です」と答えられると「まだ足りないので、もっとよく考えなさい」といわれたそうです。どう考えても90%以下にはならないそうです。「では、司祭にならなかったらどんなことができますか?」と問われたそうです。結婚もできる、家庭も出来る、家族と旅行もできる・・・・。そう考えると、司祭になりたい気持ちは55%になったそうです。「では、そこからもう1度黙想して祈りなおしなさい」といわれたそうです。
司祭になることも結婚して家族を持つ道を歩くことも、どちらも神への道を歩くことだということを話されました。長い年月をかけて修行され司祭になられるわけです。人生は選択であるけれど、うーんと考えさせられました。カトリックでは離婚を禁止しています。ある方は「離婚するときはローマ法王の所まで、名前が報告されるですか?」と聞かれたそうです。(私は答えは存じませんが)洗礼を受けると離婚できないので、洗礼前に離婚をと急がれた人もいるとか?そんな俗っぽいお話も多くあります。
結婚しない、できない?『できる』けど『してはいけない』のかな、と思うのですが・・・。