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あなたに「ぬくもり」を届けたくてブログをつくっています

懐かしい思い出にかわるまで

2019-05-13 19:27:35 | 日記

午後になると蒸し暑くなった。夕方は雷の音がする。夏日のようだ。寒さより暑さに弱いので身体がだるい。木曜日から3泊の取材だが、雨の予想もあり荷物が増える。

実家を壊す関係で、近所の許可が必要らしい。1軒だけ長い間人が住んでいない家がある。倉庫のように使っているらしい。持ち主は、私がいた頃から代わっていないらしいが、連絡先が不明だ という。確か、前の家のお友だちだった記憶がある。前のうちの方もだいぶ前に引っ越ている。年賀状だけは、母の所に来ていたのでその方にまず尋ねてみることにした。その方は東京でダンボール会社の社長をしていたが、美浦の競馬場で馬の世話をする仕事に転職されたことは、母から聞いていた。まだ、30代だったと思う。いきなり電話をするのもと、事情を手紙に書いて出した。連休も入り、なんとなく電話がしにくかった。

「もしもし、ああ、まちこちゃん」と奥さんの懐かしい電話の声だった。ああ、人の声や話し方はかわらないのだなぁ と思った。40年くらい歳月が流れていた。建売の住宅は私道を挟んで6軒あった。畳屋さん、タクシーの運転手さん、など仕事もさまざまだったが、仲がよかった。夏になると縁台を作ってみんなでビールをのんだり、子供たちは花火をしたりしていた。父や弟は釣りに行ったりしてもいた。ご近所づきあいが健全な?場所だった。私もよく最寄り駅まで、車で送ってもらった。都内から埼玉の田んぼの中へ、よく理由もわからず越してきたのだから、いい思い出はなく、毎日の通学も苦痛だったはずだが。

奥さんと話していると、懐かしいことが思い出された。あんな不便な狭い家にお友だちが結構遊びに来ていた。2軒隣のこどもたちの勉強をみたこともあったし、前の家の犬の散歩は私がしていた。奥さんは、やはりあの頃が一番懐かしい という。そうだなぁ、悪い思い出ばかりではないなぁ・・・。

最近、つらいことは思い出さないし、いやなかった気もする。一つ一つのことが定位置について安定したというのか。だれもうらむ人はいないし、むしろ感謝する人ばかりだ。一つわかったことは、大変だったかもしれないが、私は意地悪されたり、争ったりすることがなかった。いろいろなことを黙って受け止めてきたような気がする。それだけでもうれしい。『右の頬を打てれたら・・・』左の頬は出せないが、頬を打たれることもなくなった。

弟が帰国したら、美浦まで遊びにきてくださいね といわれて電話は終わった。母の残したすてきな遺産だ。

コメント
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