処遊楽

人生は泣き笑い。山あり谷あり海もある。愛して憎んで会って別れて我が人生。
力一杯生きよう。
衆生所遊楽。

小平秘録

2007-06-30 22:16:20 | 身辺雑記
産経新聞に連載中の伊藤正記者による小平秘録が面白い。すでに3部に入っているが、膨大な取材メモや資料を駆使して現代中国の歴史を、稀有のリーダーの人物像とその周辺をドキュメントして、読者に飽きさせない。高文謙氏の『周恩来秘録』に勝るとも劣らない読み物になっている。日本新聞協会賞が狙えるのではないか。
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宮澤喜一元総理

2007-06-30 22:14:44 | 
自民党単独政権最後の総裁・宮澤喜一氏が亡くなった。享年87歳。日本の一つの時代が終わった。政治部記者として身近で取材をした花岡信昭氏が追悼文を書かれている。なかなか魅力的な人物紹介なので、本人には無断で転載する。

★★花岡信昭メールマガジン★★454号[2007・6・29]

<< 宮沢氏を悼む >>

 宮沢喜一氏が死去した。87歳。「老衰のため」という表現にしんみりとさ
せられる。
 政治記者時代、鈴木内閣の官房長官としての宮沢氏を担当した。いわゆる官
房長官番である。
 3年ほど前、当時の番記者たちが集まって、宮沢氏を囲み、中華料理を食べ
た。酒を愛した宮沢氏だが、さすがに往年の飲みっぷりという感じではなかっ
た。われわれの昔話をにこにこと本当にうれしそうに、首をときおりかしげる
例のポーズで聞いていた。

 吉田ー池田路線を継ぐ保守本流である。軽武装・経済重視路線のリベラルの
代表格のようにいわれるが、もうひとつの保守本流である「国家観重視」の福
田赳夫氏は宮沢氏が好きだった。
 その理由は何だったのかとずっと考えてきたが、福田、宮沢両氏に共通する
のは「頭の良さ」である。筆者は福田首相の「総理番」もやったが、福田氏は
記者の名前と顔をすぐ覚えてくれる。
 宮沢氏も同様だが、宮沢氏の場合はそのことをめったに表には出さない。と
きに「いまの○○さんの質問は・・・」などとやる。名前を言うことはあまり
ないから、言われたほうは悪い気がしない。
 「頭の良さ」で、何か通ずるものがあったのだろうか、などと思ってもみる
のだが、政治信条はまるで違う両氏だっただけに、あの関係はナゾである。

 筆者は宮沢氏のあと、中曽根内閣の官房長官である後藤田正晴氏も続けて担
当した。この経験は政治記者としては、これ以上はない恵まれたものであった
と、今でも思っている。
 宮沢氏はサンフランシスコ講和会議に全権随員として参加している。戦後の
日本の枠組みは自分がつくったという自負があった。
 後藤田氏は内務官僚である。これまた戦後体制を治安の面から構築してきた
のは自分だ、という自負が強烈にあった。
 両氏を近くで見ていて、そうした自負心をちらっと感ずることがときにあっ
た。たとえば、後藤田氏の場合、こんなことがあった。
 当時、「レフチェンコ事件」によって、筆者が所属していた新聞社の大幹部
が犠牲になった。「もう1人出る」というウワサがあった。そこで、社の幹部
から指示されたわけではないが、官房長官室に潜り込んで、後藤田氏に単刀直
入に聞いた。
 「わが社からもう1人出る、という話があるのですが」
 返ってきた答えは
 「大丈夫だ。出さない。あれで終わりにする」
 というものであった。すべてを掌握して指揮していたのだということを知った。

 宮沢氏からはこんな話も聞いた。三木内閣で外相になったとき、外務省内で
非核3原則の見直しが進められていることを知った。
 「持たず、つくらず、持ち込ませず」のうち、「立ち寄り」を認めようとい
うことで、宮沢氏は「非核2・5原則にしようというんだよなあ」といった表
現を使った。核積載艦の寄港を容認しようということだ。
 これを察知した宮沢氏はただちにやめさせたという。その理由を聞いた。
 「だって、抗議船が何10隻も出て、東京湾にあふれたら、どういうことに
なる? 食料もエネルギーも入ってこない。そんな危険をおかすことはできな
い。日本が干上がっちゃうんだから」

 宮沢氏流の合理主義がそこにあった。その一方、リベラル・親中派と見られ
ていた一面で、「日台断交のとき、航空路線の継続をやったのはオレだよ」と
言う話も聞いた。政経分離の思想をそこに見た。

 官房長官は1日に2回、記者会見を行い、夕方、官房長官室で各社1人の担
当記者だけを相手に「懇談」をやる。このときに出る話が「政府首脳」として
ニュースになる。
 宮沢氏の場合、この懇談がいっこうに盛り上がらない。ほとんどニュースが
出ないのだ。
 官房長官番としてはこれは困るなあと思っていたら、秘書官が相談に来た。
 「テレビの記者と一緒だといやだと言っているんですよ。なんとかなりませんか」
 現在なら、そんな話は通じないだろうが、テレビの政治取材がようやく本格
化しはじめた時代である。現代的に見える宮沢氏にしても、新聞優先志向であ
ったのだ。
 そこで、(こういうことも今だから言えるのだが)一計を案じ、「テレビ抜
きの秘密懇談」を週に2-3回、セットした。官房長官室での懇談は適当に切
り上げ、国会裏のTBRビルにあった前尾茂三郎氏が使っていた部屋で、全国
紙、通信社、NHKだけ(つまり民放抜き)の懇談をやった。
 宮沢氏は官房長官室とは別人のようになめらかな口ぶりであれこれ話をして
くれた。このメンバーでときには神楽坂の宮沢氏お気に入りのてんぷら屋に繰
り出した。
 そうこうしているうちに、また秘書官がやってきた。
 「某社の某記者をいやがっているんですよ。なんとかなりませんか」
 たしかに、その記者は、座を盛り立てようとしてか、ときにあまり受けない
冗談を言ったりして、宮沢氏の話の腰を折ることがあった。
 宮沢氏とのやり取りは実に疲れるのだ。こちらの質問に対して、ふたつぐら
いのやり取りのあとに予想される回答をぽんと出してくるのである。中間が抜
けているから、一生懸命に追いつこうとこちらも頭を必死にめぐらすことにな
る。
 これにうまく追いついていけば、テンポのいいやり取りになり、宮沢氏はそ
ういうペースを好んだ。そういう流れの中につまらぬ冗談話が飛び込んだりす
ると、宮沢氏は気に入らないのである。
 そこで、秘書官の要望にこちらも困ってしまい、その社のキャップにこっそ
り相談した。このキャップもたいしたもので、即座に状況を的確につかんだ。
 「それは各社にすまないことをした。次回からその懇談、オレが出るように
する。それでなんとかことをおさめてくれないか」
 官房長官の極秘懇談に1社だけ出られないとなると、これは大変な事態にな
る。以後、その社はキャップが出てきたのだが、その記者はそれからまもなく
政治部から異動となった。
 「酒乱」ともいわれた宮沢氏だが、3回ほど、そういう場を見た。こちらは
下戸なので、1人だけ冷静に見つめていられるのである。
 酒が進み、ある一線を超えると、宮沢氏の口ぶりがおかしくなる。とくに、
そのちょっと前に出た話を確認しようとすると、
 「いつ、私がそんなこと言いましたか」
 と、からんでくるのである。うっかり聞いたほうはたまらない。宮沢氏にす
れば、そこまで話をしたのに、なお詰めようとするのか、という思いがあるの
だろう。
 「わたしゃあ、そんなこと言ってませんよ」
 などとやられて、その話は結局、なかったことになってしまう。確認しなけ
れば、生きていた話が、ダメ押ししたために消えてしまったのだ。
 あれもまた、宮沢氏一流の茶目っ気だったのかとなんとも懐かしい。

 55年体制最後の自民党首相である。政権崩壊の5日前、どさくさまぎれに
出てきたのが、あの「河野談話」だ。そういうことの是非論とは別の次元で宮
沢氏のあの飄々とした笑顔を思い出している。


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