高村 薫 著、 講談社文庫(全2巻)
毛頭、差別化する気はないのだが、著者には ” 女だてらに ” との献辞を敬服の意を込めて贈りたい。
冒頭の熱処理工場の濃密かつ微細な描写や捜査に奔走する刑事達の生態や会話のやり取り、秦野組長と合田刑事の手ホンビキの息詰まる臨場感など、男の作家でもこれほどまでには到底表現できないのではないか。一体どうやって取材したのだろうか。性のハンディの前に幾重にもの壁があったろうに。ただ敬服するしかない。
主人公の二人の男の心理描写あるいは心象風景が、これでもかこれでもかと描かれる。これはもう読者への挑発としか言いようがない。生硬い文章の不条理な展開を追うのは読者にとって相当な体力・知力が要る。「どうだ、ここまではついてこれるか?」「これならどうだ?」と。
沼野充義は解説の書き出しで、「高村薫は現代日本のドストエフスキーである」と明言している。我が意を得たりである。そして末尾で、「『照柿』は余計な形容を必要としない、要するに小説なのだ。それも人間の妄執と感情の渦を描いた--もはや優れたといった形容では間に合わないので、私はむしろ"強い”と読んでみたい--小説である」とも。
高村薫は、私にとって、読む前に相当の覚悟の要る作家である。そして、社会時評をもっと読んでみたい作家である。山崎豊子よりもより日常社会に強くコミットする作家であるから。
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