太平洋のまんなかで

南の島ハワイの、のほほんな日々

ニルヴァーナ

2021-03-08 10:15:14 | 不思議なはなし
不思議系のドキュメンタリー番組を観ていたら、夫が
「バリ島に行ったときにさ」
と話し出した。

夫は最初の結婚後、ユタ州で暮らしていたが、数年後に離婚してハワイに戻ってきた。
その端境期に、人生2度目のバックパッカー的な旅をして、バリ島には一月ほど滞在したらしい。
このバリ島で、夫はいくつか不思議体験をしている。
そこで出会って友人になった人が宇宙人説とか(その辺の記事はコチラ「ゲッディは宇宙人説」
泊まった宿で寝ていたら、バリの神様が現れたとか、そういう話。

その宇宙人疑惑のゲッディが、地元のお祭りに連れて行ってくれたそうだ。
人が輪になってマントラを唱えながら踊る、儀式のようなお祭りで、
それを見ていたら、突然涙がダーダー溢れてきたのだという。
感動しているわけでもなく、気持ちの上では普通なのに、涙だけが勝手に溢れて止まらない。
立ったまま号泣しているノッポの白人を、人はジロジロと見ているが
ゲッディは何も言わずにただ横に立っていただけ。

涙が止まると、突然、言いようもないヨロコビに包まれた。

「うまく説明できないんだけど、つまづいたこともうれしかったことも、あーなんかどうでもよかったんだ!という気持ち。
僕が僕だと思っている存在は、僕が思っていたよりずーーーっと大きくて、
広くて、この世界すべてが自分だったんだ、っていう・・・
なんか変なんだけどさー」

祭りが終わっても、その至福感はずっとあって、
すれ違う人全員が、とっても大事に見えて仕方がなく、全員に挨拶しながら宿に戻った。

その時は、それが何だったのかわからなかったけれど、
翌日、お昼を食べに入った店で、1冊の本を手にした。
バックパッカーたちが集まる店には、読み終わった本を次の誰かのために置いていく。
それもそんな本のうちのひとつで、スピリチュアルな本だった。
それまでスピリチュアルな本など読んだこともなかったが、なぜか夢中で読み進めていったら、
前日のあの体験が  ニルヴァーナ と呼ばれる境地だったことがわかった。


一種の悟り、というのだろうか。


ニルヴァーナなんか行ったこともない私は、夫が羨ましい。

「でもさ、すぐに元の僕に戻っちゃって、あれはなんだったんだよ?」

まあ、確かにそうだ。
感情のコントロールが不安定になる持病はそのままだし、
些細なことで上がったり下がったり、三次元的な価値観でいう世の中を
渡りにくいタイプだろう。

「ニルヴァーナに行ったきりじゃ、もう肉体をもって生きてる意味ないじゃん?」

「そうなのかなあ」

「私達、ニルヴァーナからここにやってきたんだよ。あっちは退屈だから、わざわざ来たんじゃないのかね?」




悟りを見たあとでも、普通に嫌なこともいいことも起きる。
そういうことにジタバタすることこそが、人間として生きる、ということで、
そのドタバタ劇は、あっちから見れば最高にエキサイティングでおもしろいことにみえるのではないだろうか。

それでも、たった1日でもいいから私もニルヴァーナを垣間見たいものである。




どれでも同じだった

2021-03-08 09:29:49 | 不思議なはなし
三姉妹のうち、適齢期以内に結婚したのは1番下の妹だけで、姉と私は晩婚だった。
今では信じがたいことであるが、昔は女の結婚適齢期は24歳である、と公然と言われており、誰もそれに疑問を抱かなかった。
子供に恵まれない人に、「作り方を教えてあげようか」などと平気で茶化せる、そういう時代であった。


適齢期を過ぎてもヨメにいかない私に、母親はキリキリとし、焦るあまり

「誰と結婚したって一緒だよ!」

と言い放った。
言われてから、つい最近まで、それは暴言だと怒っていたのだけれど、
今は、いや、あれは実は真実をついていたかもしれない、と思っている。

結婚する相手によって、体験する内容はまったく違うに決まっているが、
人間が死んだあとに持ってゆけるものは体験したことだけなのだから、
何かを体験するために生まれてきたといっていい。
だったら、何を選んでもそれが『体験したかったこと』なのではないだろうか。

むろん、母は娘をなんとか結婚させて安心したい一心で言い放った言葉なんだろうけど。



あのとき、あの人と結婚していたら、
あのとき、転職しなかったら、
結婚しなかったら、
離婚しなかったら、
どうなっていただろう、などと思うことがある。

今、こうしてハワイにいてパソコンを前にしている私は存在しないが
今の私には想像することもできない体験があり、今の私とは違う考え方をして、
まったく違う場所に着地をしているのだろう。
私はいつどんなときも、「今が1番幸せだ」と思える、お得な性格なので
戻ってやり直したい過去はひとつもないし、
違う人生を同時に生きることはできないのだから、どれが良いのかわかりようもない。
ただ、どれを選んでも、私が体験したかったことが体験できるのだ。


以前、非常に落ち込んだ時、私に起きたことも起きなかったことも受け入れよう、などと殊勝な気持ちになったことがあったが、それも実は、

私には起きなかったということを体験した
つまり、体験しなかった、ということを体験した

ということに思い至り、妙に納得してしまった。

昨日、暗い顔をしている同僚に、どうしたのか尋ねたら
シュートメとうまくいかなくて辛いのだという。
彼女のダンナさんが職場で怪我をして働けなくなり、今はダンナさんの親の家に住まわせてもらっているのだが、
シュートメが何かにつけ干渉してくる。
人種も文化も違うからなのか(同僚はハワイアン系、義両親はフィリピン人)、そういう性格なのかわからないが、
とにかく窮屈でしかたがないのだという。

私が、自分たちの家を建てるに至った、私 VS シュートメの3年の日々の話をすると、
同僚は食いついてきて、根ほり葉ほり聞き、
「あーー!聞いてよかった!シロの話を聞いて、ものすごくすっきりしたよ」
と、晴れ晴れとした顔で言った。


誰かの体験が、ほかの誰かの役に立つ。
人はそうやって、体験しきれないことを補充していくのだとしたら、
誰かの体験はその人だけのものじゃなく、みーんなのものなのだということだ。
うまくできてるなあ。