2018年8月5日の新聞「日曜に想う」の「新しいものが生まれる夏」に、メディアが決して行ってはならない「全体主義」「ファシズム」に対する讃美やそれを「善い事」として読者を洗脳しようとする目論見を感じた。また、曽我豪氏がこの記事を通して讃えている「意識」、「価値観」こそが全体主義である。もしも、氏が「全体主義」を讃美しており、それを理想的な「善い事」として煽る洗脳行為をしているのだと気づいていないとするならば、この状況はメディアの意識思考価値観がひじょうに危険な状態にある事を示していると言って良い。かつての日本的「ファシズム」のしくみから何も学ばず理解しておらず、かつての「全体主義」「ファシズム」の意識思考判断を自己の主観的「理想」として、それにクレームをつけず承認する公的情報伝達機関を利用して記事とし、読者に理想的な「善い事」として理解するようにしているという事であり、読者にとっては恐ろしさを感じざるを得ない。
曽我豪氏は嬉々として書いている。
「33年前の夏、僕が目撃したのは、高校野球であってそれだけではない、一つの高校が生まれ変わる物語だった。熊本城公園にある熊本の甲子園こと、藤崎台球場。創立わずか10年の新設校、県立(公立)熊本西高校。一回戦は組織だった応援はなく生徒が30人ばかり。しかし、熊本ではまれな新設校の快進撃が始まるのだがスタンド応援も同じだった。女子応援団長の出現、男子応援団登場、保護者会誕生、ブラスバンド愛好会の急成長、新米教師の参加。準々決勝では、校長が緊急の職員会議を開き、校内放送で『課外延期、全校応援』を発表し600人の応援となった。決勝も課外授業を済ませて生徒たちは駆けつけた。生徒たちは甲子園へ向かった。甲子園のアルプススタンドの応援は最初の日の100倍だ。藤崎台で生まれて『高校が初めて一つになった』と言い合った応援団やブラスバンドが指揮をとる。」
ここには、校長や教員(教員はすべてではないと考えられるが)などの大人がその権力や地位を私物化して利用しそれが結果的に生徒たちに全体主義思想を理想とすべき「善い事」として押し広め、メディアがそれを讃え、読者にも全体主義を理想とすべき「善い事」として洗脳しようとしている意図が明確に見える。
2018年8月22日の同じ新聞の社説「100回大会閉幕」にはご丁寧な事に以下のように書いている。「選手たちの全プレーに、学校や地域の人々が一体となって声援を送る、観客がそれを見守り、後押しする。地方大会から甲子園まで、高校野球のすばらしさを改めて感じた人は多いだろう」と。一体となり行動する事を「善い事」とし、理想的な姿として「讃美」しているのである。このように考える事を「考え過ぎである」とする人がいるかもしれない。そのような人は「全体主義」思想に絡めとられ利用される思考様式を備えていると言って良い。
このような地位と権力を有する者の動きが、意に沿う集団をつくりそれを多数派に育てそれを利用し、その意に沿わない人間を一方的に「異常」と断定し、いわゆるかつての「非国民」としての非難と弾圧の社会を生み出すのである。全体主義(ファシズム)は何気ない日常生活に潜んでいるのであり、全体主義への回帰を理想とする勢力はそれを都合よく利用し彼らの理想とする社会を実現しようとするのである。その動きを主権者国民は歴史から学び見逃してはいけない。全体主義を讃美賛同、洗脳行為をするメディアを見抜き批判し改めさせなければならない。
(2018年8月27日投稿)