日清戦争後の下関講和条約により清国から台湾省を割譲させ植民地化したのをきっかけに、神聖天皇主権大日本帝国政府は「アヘン」との関りをもつ事となった。内務省衛生局長であった後藤新平の主張に基づき、アヘン漸禁政策と専売制度を実施した。その理由が欺瞞的で、「厳禁すると癮者(いんじゃ。アヘン中毒者)に苦痛を与えるので、人道的配慮である」と。加えて、「癮者の反抗とそれを鎮圧する軍事的負担が不要になる事と巨額の専売収入を得る事が出来る」との事であった。
1897(明治30)年1月、台湾アヘン令を公布し、アヘンを政府専売とし、癮者認定された者はアヘン煙膏(えんこう)の吸煙は特許する事を定め、違反する者は処罰した。しかし実際は、癮者の公医証明がなくても、満20歳以上であれば特許を与えた。そして、癮者の救済や矯正措置は行わず、膨大なアヘン収入を獲得した。
神聖天皇主権大日本帝国政府は、台湾でアヘン漸禁政策と専売制度を実施したが、アヘン原料はすべてインド・イラン・トルコ・中国などからの輸入品を当てていた。しかし、台湾総督府は国産化を図り、内務省の合意の下に、1905年から大阪府三島郡で試作を開始した。しかし、輸入品が安く入手できたので、1907年に施策を中止した。その後アヘン価格の騰貴とともに、1913年以降、大阪府豊能郡・三島郡・河内郡などでケシ栽培を拡大させた。三島郡福井村(現在の茨木市)の二反長音蔵(にたんおさ おとぞう)は、後藤新平(台湾総督府民政長官)の支持を得てケシ栽培を行い「アヘン王」と称された。アヘンはすべて神聖天皇主権大日本帝国政府が買い上げ、ケシ栽培とアヘン生産は内務省の管轄に置いた。1930年代には、和歌山県と大阪府を中心に栽培と生産を行った。太平洋戦争下には和歌山県でケシ栽培の強制割当を行った。
ところで20世紀に入って、アヘン戦争後の清国(中国)のアヘン禍は国際問題となり、英国批判が高まり国際条約の成立へ向かう。1909年には上海で、米国の提唱で最初の国際アヘン会議が開催された。1912年にはハーグ会議で国際アヘン条約が調印されたが批准国も少なく、アヘン煙膏の輸出入を禁止及び制限しただけで、生アヘンの生産と輸出入は禁止しなかった。1920年に国際連盟が成立すると、ハーグ国際アヘン条約の実施について連盟が監督権限を持ち、理事会の諮問機関として、関係国によりアヘン諮問委員会が組織された。1924年には連盟によりジュネーブ国際アヘン会議が招集され、1925年には2つのアヘン条約が成立した。1925年に成立した第一アヘン条約は、生アヘン、アヘン煙膏の輸入・分配を政府の独占事業とし、癮者以外の使用禁止などアヘン吸煙の漸進的制止をはかるもの。第二アヘン条約は、麻薬及びその原料の生産・分配・輸出入・販売の取り締まりに関するもので、条約実施の監督のため常設アヘン中央委員会を設置した。1931年にはジュネーブで、麻薬製造制限会議が開催され、麻薬製造制限分配取締り条約(特にヘロインに厳重な制限)が成立した。神聖天皇主権大日本帝国政府は、上記4つの国際アヘン条約を調印・批准した。このようにアヘン国際条約が締結されたが、第1次世界大戦前後から中国では麻薬(アヘン・モルヒネ・ヘロイン)禍が広がった。その麻薬の輸出・密造・密売の主役となったのが神聖天皇主権大日本帝国政府と民間日本人であった。
神聖天皇主権大日本帝国政府は、第1次世界大戦でドイツからの医療用モルヒネの輸入が途絶えたので国産化を図り、1915年以降、台湾総督府から粗製モルヒネの独占的払下げを受けた星製薬株式会社がモルヒネ精製を開始し、のち大日本製薬・三共製薬・内国製薬なども製造に加わり、この国産モルヒネ及び輸入モルヒネを中国へ密輸出した。……つづく
(2023年8月22日投稿)