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台湾嘉義農林学校卒業生・呉連義の人生を、神聖天皇主権大日本帝国政府と戦後自民党日本政府がいかに蹂躙翻弄したか

2024-11-30 09:56:14 | 中国・台湾

 神聖天皇主権大日本帝国政府のアジア侵略政策戦後の日本国政府の政策対応がいかに人権を蹂躙し人生を翻弄したものであったかを、台湾の嘉義農林学校出身の呉連義の人生を通して、知り、現行憲法前文に定めている「政府の行為によって、再び戦争の惨禍が起こる事のないようにする決意」を現安倍自公政権下においてこそ、より固くするために、大切な事実であると考え紹介したい。

 彼の存在については、1991年6月に、日本のテレビ取材班がベトナム北部ニンビン省の彼の家を取材する事により公けに知られる事となった。

 呉連義は、日清戦争の結果、中国が日本に割譲し日本の植民地となっていた台湾で、1924年に生まれ、育った。

 その後、国策会社・台湾拓殖に勤め、戦時中「綿作戦士」としてベトナムに赴任した。農民に綿花や黄麻を栽培させる仕事である。戦争末期には現地で日本軍に徴用され、軍需米の監視などに当たった。

 

 ベトナムに赴任した時は「新井良雄」という名前を使わされた。ベトミン時代は「カウ」と呼ばれた。その後はベトナム風に「ゴ・リエン・ギア」と名乗った。「自分が何国人だか分からなくなる時があった」と語っていた。

 1944年、台湾拓殖の社員として台湾を出航した。米軍の潜水艦に追われ、船は予定を変えてシンガポールに着いた。そこから陸路でハノイに向かった。着いたのは出航から2カ月が過ぎた5月5日、21歳の誕生日だった。

 「新井良雄」という日本名を名乗らされる事になり、北部タインホア省農業試験場で地元の農民に綿花や黄麻などを栽培させた。

 仏印(仏領インドシナ、ベトナムなど)処理の後は台湾拓殖の子会社のクロム工場で日本人職員の警護に当たった。その後、日本軍に徴用され、商社の事務所で砂糖取引を装いながら、南部からくる軍需米の輸送船の監視などに当たった。平服に短銃を忍ばせ、赤いボタンが任務の目印だった。民間人でありながら情報班として日本軍の一線で働いた。 

 日本軍が進駐していた仏印には、台湾から多くの若者が日本人として渡った。日本の外務省資料によると、1945年10月にベトナムで引き揚げのために集まった人は4029人で、うち1400人が台湾と朝鮮出身者だった。

 ベトナムは45年春から夏にかけて、ひどい飢餓に見舞われた。呉によると、やせ衰えて道端に横たわる人々は、下痢で地面を黄色く染め、ハエで真っ黒になって息絶えていった。死んだ母親のしなびた乳首をくわえた赤ん坊が、息のあるまま母と一緒に穴に投げ捨てられたという。そして、日本軍は飢えた人を助けるどころか、軍需米をため込んでいたという。そして、「私もその手先だったのが恥ずかしい」と語っていた。 

 敗戦農業試験場で知った。引き揚げの準備のため集まるよう、クロム工場にも伝える事になった。呉が日本人の主任を載せて行くはずだった。しかし、異動してきたばかりの台湾出身の同僚が最後の機会なので工場を見たいというので交代した。出かけた二人は帰らなかった。工場からの帰りにベトミンに襲われ、二人とも殺されたという。

 ベトナム北部には、日本軍の武装解除のため、中国国民党軍が進駐した。日本軍に協力した台湾出身者の中には処刑される者もいた。北部タインホア省の農業試験場で働いていた呉は、中国国民党軍を恐れて逃げ回った。

  日本敗戦後、ハノイに集まった人たちは、台湾出身者は食べるのにも苦労し、台湾同郷会を作って助け合った。ハノイにいた台湾出身者たちの名簿「台湾同郷会・会員名冊」によれば、1946年3月には、20代の青年ばかり約300人が名を連ねる。

 引き揚げの機会を失った呉は、その後、知り合いの雑貨屋のおやじに出合った。事情を聴いたおやじは、ベトミンで働かないかと呉を誘った。おやじはベトミンの一員だった。呉はハノイから約100㌔南のニンビン省で、ベトミン軍に軍事教練や柔道を教える事になった。呉は共産党系のベトミンに関わった事が、その後半世紀もベトナム北部にとどまるきっかけとなった。

 ベトナムでは1945年9月、ベトミンを率いるホー・チ・ミンが独立を宣言していた。しかし、1946年になると、植民地支配の復活を狙うフランス軍が、国民党軍と入れ替わって北部にも上陸してきた。ベトミンは抗仏戦争を展開した。

 呉は1946年、ベトミンから共産党のニンビン省委員会に移った。当時、党は解散宣言をしていたが、組織は残っていたようだ。その委員会に1948年、新しい書記が着任した。呉は党員ではなかったが、書記は太い声で、呉の事を同志と呼んだ。書記の名前はド・ムオイ。後の共産党書記長である。

 1954年春、ベトナム北部のニンビン省で暮らしていた呉に、引き揚げのために集まれとの連絡が役所からあった。抗仏戦争が大詰めの頃で、ベトミンの支配地域に残る日本人が帰国できるよう、日越両国の民間団体が話し合って実現した引き揚げだった。

 呉はこの3年前に、マラリアで身体を壊して、共産党の省委員会を辞めた。その後、ベトナム人と結婚し、野菜を作ったりして暮らしていた。

 引き揚げる前に、政治学習を受けさせられた。中国国境に近い集合場所に行くと、90人余りがいて、5人が台湾出身者だった。日本の国内情勢や日米安保条約の意味など、ベトナムの共産勢力による学習は半年間続いた。11月、いよいよ引き上げる事になった。ところが、出発の間際になって、台湾出身とわかると、日本人だけが対象だと拒否された。引き揚げのための靴や工員服を支給されて、歓声を上げる日本人を、5人の台湾出身者は呆然と眺めていた。

 引き揚げの通知は59年にもあった。しかし、また台湾出身者は拒否された。南北ベトナムは1976年、正式に統一した。

 引き揚げの機会を失っていた呉は、農村の生活に溶け込むより仕方がなかった。北ベトナムでは55年から土地改革が始まり、農業集団化が進められた。呉も合作社(集団農場)に所属する事になった。配給は月に一人モミ6㌔。山に入って荒れ地の開拓もした。その時は800㌘の米で半月間食いつないだ。飯盒に、拾い集めたイモとタピオカを詰め、その上に米粒をそっと撒いて炊いた。

 ドイモイ(刷新)政策が始まってからは自分の収入のために働けるようになった。ベトナムの農村ではごく当たり前の自転車で物を運んで収入を得る生活を続けた。竹の棒で補強した古い自転車に、モミ袋を5つ積む。重さは130㌔にもなる。それを一日かけて指示された場所に運ぶ。5、6千ドンにしかならない。それでも仕事が欲しい。呉は倉庫の前で夜を明かして、荷を待った。

 

 1991年6月、荷物運びの仕事を終えて、呉が汗まみれで帰宅すると、人だかりができていた。日本のテレビ取材班が、ベトナム北部ニンビン省の呉の家を取材に訪れた。呉には連絡が届いておらず、突然の事だった。

 日本人に会ったのは30年ぶりだった。言葉をすっかり忘れていた。地面に絵を描いて、「なべ」「かま」と一言ずつ思い出した。取材されて、閉じ込めていた望郷の思いが、一気に噴き出した。これがきっかけで、呉はハノイの日本人大使館を何度も訪れた。それまでは、日本のスパイと疑われるのではないかと、怖くて行けなかった。

 日本大使館で呉は訴えた。「日本のために働いたんだから、日本政府が責任を持って帰してほしい」日本には割り切れない思いがあった。しかし、日本国籍がないのだから、何もできない」大使館ではそう言われた。

 1993年夏、細川首相日本の戦争責任を認める発言をした事を、日本から送られてきた新聞で知った。変化があるのではないかと期待したが、大使館の返事は同じだった。「日本政府は昔も今も、口先だけだ」と呉は怒る 

 上記の、引き揚げのために集まった、外務省資料にある1400人の台湾や朝鮮の出身者について、大日本帝国政府は敗戦により日本人として扱う事をやめ、引き揚げの対象から外した。そのため、自力で帰国を試みたり、あるいは各地へ散り、消息が分からない人も多い。

 1992年、台湾はハノイに事実上の大使館である台北経済文化事務所を開いた。呉は1993年末に初めてその存在を知り訪ねた。事務所は呉の台湾の戸籍を確認し、台湾の旅券を発給した。名前は呉義連である。

 1994年5月、呉は、大日本帝国の植民地時代には「新高山」と呼ばれた台湾の最高峰「玉山」の登山口にある嘉義市に半世紀ぶりに戻った。台北空港には、親類や知人が出迎えた。呉は、花輪を差し出した姉の呉彩鳳に抱きついて声を上げて泣いた。両親の墓参りをし、市役所で身分証明書を作った。出身学校の嘉義農林で、呉連義の存在を確認する卒業証書を再発行してもらった。

 日本語教育を受けた呉は台湾語ができない。姉や同級生とは日本語で話せるが、甥や姪には通じないので通訳を要した。呉は、台湾に3ヶ月間滞在して迷い続けた。懐かしい故郷で暮らしたい。しかし、言葉や年齢を考えると無理なように思えた。妻子もいるし余生も短い。そして、結局、7月、ベトナムのニンビン省の自宅に戻った。

(2018年11月19日投稿)

 

 

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