今日、どこの神社においても、「御守り」はその神社の存在意義(価値)を、それがどんな意義(価値)であろうと、示す「アイテム」となっていると考えて良い。しかし、多くの人々はその作られた起源をご存じないようである。
この「御守り」は、元々は「守札」と呼んでいたものであり、神聖天皇主権大日本帝国政府が、国家の精神的支柱とするために政府が創り上げた新興宗教「国家神道」と深い関係を有するものなのである。
それというのも、政府は臣民(国民)を支配するために、江戸幕府が実施していた「宗門改め寺請け制度」を利用して、その寺院を「神社」に替える政策「大小神社氏子取り調べの件」を1871年7月布告実施した。つまり、神社を戸籍の作成と管理に参画させ、神社に全国民を氏子として掌握させようとした事に端を発しているのである。
その「氏子取調規則」は7か条からなり、以下のように規定していた。第1条「一、臣民一般出生の児あらば、その由を戸長に届け必ず神社に参らしめ、その神の守札を受け所持致すべき事」、第二条「一、即今守札を所持せざる者老幼を論ぜず生国及び姓名住所出生の年月日と父の名を記せし名札を以てその戸長へ達し、戸長よりこれをその神社に達し守札を受けて渡すべし」、第6条には「自今六ヶ年目毎戸籍改めの節、守札を出し戸長の検査を受くべし」と規定し、戸長とともに神職が戸籍管理に当たる事にしたのである。
「守札」は木製で大きさは、縦3寸(約10㎝)、横2寸(約6㎝)、表面には所定の事項を記し、裏面には「年月日」と神官が署名捺印していた。この「守札」こそが今日のそれぞれの神社の「アイテム」となっている「御守り」の起源なのである。
ちなみに、政府は、この「氏子調べ」を1年10ヵ月で中止せざるを得ない状況に追い込まれた。