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宮中祭祀(国家神道・天皇教):神聖天皇主権大日本帝国政府に押しつけられた傀儡国家満州帝国皇帝愛新覚羅溥儀

2020-07-18 19:37:45 | 皇室

 天皇の退位の儀式に関する報道をメディアが頻繁に行うようになった。9つの儀式はすべて、神聖天皇主権大日本帝国政府が国教として作った(つまり、天理教や金光教や大本教などの新興宗教と同じ創唱宗教)、伊勢神宮を本宗とする宗教「国家神道」に基づくものである事は改めて言うまでもない。3月12日には、皇居で、天皇が退位の期日などを宮中三殿に報告する「奉告の儀」、伊勢神宮や皇室が初代とみなしている神武天皇などの墓などに使いを派遣する「勅使発遣の儀」の2つの祭祀が行われた。今後8つの祭祀・行事を行う。宮中三殿とは、賢所天照大神を皇祖として祀る)と皇霊殿(歴代天皇と皇族を祀る)と神殿(国中の神々を祀っている)。ちなみに、日本国憲法の政教分離原則によって否定されたはずの国家神道は、その存続を国民に気づかれないようにするため、国民に公然と強要する姿を見せてこなかった事もあり、その宗教組織は一見解体壊滅したように思われているが、実態はそうではなく、戦後から今日まで壊滅していないだけでなく、その組織は再編強化され、活動は日増しに活発になっており、いつでも敗戦前の姿(政教一致)に復活再起できるほどその勢力は大きくなっているという事である。それは近年の神社神道の活発な政治活動や日本会議の公然たる政治への圧力にも表れており、すべて連動したものなのである。主権者国民は、自らの精神の自由権利を守るため、また民主主義、立憲政治を守るため天皇の退位即位に関わる儀式を軽視看過してはならない。

 ところで、この国家神道の祭祀信仰を、神聖天皇主権大日本帝国政府軍事力を背景に強要した国に、帝国が傀儡国家として作った満州帝国があった事を紹介したい。大日本帝国政府が皇帝として据えた愛新覚羅溥儀は苦悩した。溥儀の著書『わが半生』によると、1940年、当時大日本帝国においては「建国2600年」に当たる年と位置づけていた1940年の5月、関東軍が溥儀に強要して、2度目の裕仁天皇訪問をさせ、「日満一徳一心、分割しえぬ関係を体現するため、私は日本の天照大神を満州国に迎えて奉祀する事を希望する」と伝えさせた。その際天皇は「陛下(溥儀)がそうお望みになる以上、御意に従わなければなりません」と返答したと書いている。さらに溥儀は、満州帝国の首都新京(長春)に帰ると、「帝宮」のそばに白木造りの「建国神廟」(建国神社)を建て、特別に「祭祀府」を組織し、日本の近衛師団長・関東軍参謀長・憲兵司令官を務めた事のある橋本虎之助祭祀府総裁に、沈瑞麟を副総裁に任命、毎月1日・15日には、溥儀が先頭に立ち、関東軍司令官や「満州国」の官吏たちを伴って祭りに行く事になった、その後は東北各地にも規定に従ってこの「神廟」が建てられ、定期的に祭りが行われる事になった、それだけでなく、誰でも神廟の前を通り過ぎる時は、90度のお辞儀をしなければならず、しなければ「不敬処罰法」により処罰される事も規定された、と書いている。

 また、関東軍の強要により、1940年7月15日には「国本奠定の詔書」を発布させられたがその内容は以下の通りである。

「朕、茲につつしんで建国神廟を建て、以て国本を悠久にさだめ、国綱を無彊に張り、爾衆庶に詔して曰く、我が国は建国より以来邦基ますます固まり、邦運ますます興り、烝々として日に隆治にのぼる。その淵源を仰ぎ、この丕績をおもうに、みな天照大神の神庥(神の庇護)・天皇陛下の保佑に頼らざるはなし。ここをもって朕先に自ら日本の皇室を訪れ、誠悃をもって謝を致し、感戴する事いよいよ重し。爾衆庶に詔して、訓すに一徳一心の義をもってせり。その旨は深し。 今茲に東渡して、恭しく紀元2600年の慶典を祝い、親しく皇大神宮を拝し、回らんこれを吉とす。つつしんで建国神廟を建て、天照大神を奉祀し、その崇敬を尽くし、身をもって国民の福祉を祈り、のっとりて永典となし、朕が子孫をして万世祇承し、孚有りて窮まる事なからしむ。こいねがわくは、国本、惟神の道にさだまり、国綱、忠孝の教えに張らん事を。仁愛の安んずるところ協和の化するところ、四海清明にして、篤く神庥を保たん。爾衆庶それ克く朕が意を体し、本を培い綱を振るい、力行しておこたらず、自強して息むことなかれ」(2019年3月21日投稿)

 

 

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