ヒトラーはナチ党が、1933年3月5日の総選挙において「国民投票」のような形で圧倒的大勝利を収めたため、それに法的な裏付けを施して不動のものにしようとした。
3月23日、ベルリンのクロール・オペラ劇場(1933年2月27日に国会議事堂が炎上したため、臨時の議事堂にあてられた)で「国民と国家の苦難を除去するための法律」案を審議成立させるために国会を開いた。この法案は、ヒトラー政府が必要と見做せば、政府は国会に諮る事なく独断で法律を4カ年にわたって制定できる内容(全権委任法)であった。この「全権委任法」が成立すれば、これまでは国会本来の権能であった立法権は政府(行政権)に引き渡され、大統領の手中にあった法律の承認権は首相に委ねられる事になるのであった。
それは、憲法の機能を停止する事、つまりワイマール共和国の終焉を意味し、かつヒンデンブルク大統領の権限を部分的に無効にし、ヒトラー首相は今後、大統領に「大統領緊急令」への署名を懇願しなくてもよくなる事を意味した。
ところで、独裁的権限を獲得するために、わざわざ改めて「全権委任法」を成立させる必要はなかった。なぜなら、ヒトラー首相は、「国会放火炎上共産党陰謀論」を基にした「クーデター」により発令させた「国民と国家の防衛のための大統領緊急令」(国会炎上緊急令。)により、すでにそうした権限を先取りしていたからであった。
にもかかわらずヒトラーが成立にこだわったのは、これまでワイマール共和国とその憲法に敵対し破壊・無効化する闘争をしてきたからであった。そして、法案成立のために手段を選ばず各政党に賛成するよう強要した。劇場周辺はSS隊員たちが交通を遮断し、国会(劇場)内部ではSA隊員たちが廊下に縦隊で立ち並び、ナチ党が何を意図しているかを誇示し、登院してきた国会議員を威圧した。国会規則などは無視した。SA隊員たちは、国会内で禁止されているシュプレヒコール(全権委任法を通過させろ。否決すれば一発お見舞いするぞ)を議員に浴びせた。議長席の後ろには、これも禁止されている「カギ十字旗(ハーケンクロイツ)」を掲げ、ナチ党員は褐色のナチ党制服を着ていた。ヒトラーも、国会では初めて褐色の制服を着て国会演説を行った。
採決の結果は、賛成441票に対して反対94票で「全権委任法」は成立した。反対票は社会民主党議員たちであった。この他100人以上の共産党や社会民主党の国会議員は、逮捕されたり、国外へ脱出したため、この審議に加わる事ができなかった。
(2022年11月1日投稿)