小村寿太郎は、日露戦争後の米国ポーツマスでの講和会議(1905年8月10日~9月5日)において首席全権をつとめた第一次桂太郎内閣の外務大臣である。
神聖天皇主権大日本帝国第一次桂太郎内閣(1901年6月2日~1905年12月21日)は、なぜ、ロシアとの戦争(日露戦争)に踏み切ったのか?当時、日本そのものがロシアに攻撃される危険性はなかったにもかかわらず。その理由は、以下に示す1903年の小村寿太郎外務大臣の「意見書」が象徴的に表している。
「大韓帝国はちょうど鋭い刃物のように大陸から日本の中心部に向かって突き出している半島であり、その先端は対馬とほんの少ししか離れていない。もし他の強国がこの半島を占領するようになったら、日本の安全が脅かされる。日本はこのような事を決して認められない。これを予防する事は日本の昔からの政策だ」
つまり、小村はロシアが「大韓帝国」を占領したら大日本帝国が危ない。だから、その前に「大韓帝国」を支配しなければならないと考えていたという事である。
そして、神聖天皇主権大日本帝国第一次桂太郎内閣は、1904年2月の「日韓議定書」締結についで、日露戦争中の1904年5月、閣議において、「日本は大韓帝国に対して、政治上・軍事上、保護の実権をおさめ、経済上、ますます利権の発展をはかる。」事を決定した。同年8月には第1次日韓協約締結に成功しその侵略行為を強めていった。
(2023年2月7日投稿)