尾崎行雄(1859~1954)は、神聖天皇主権大日本帝国政府時代、1913年第一次憲政擁護運動の先頭に立ち、政友会と第1次山本権兵衛内閣(1913年2月~1914年3月)の妥協に反対し脱党。次の第2次大隈重信内閣(1914年4月~1916年10月)の法相。憲政会に属したがすぐ離党し、以後孤高の政治家といわれた。大正後期には普通選挙運動や婦人参政権運動を支持し尽力。軍縮推進運動、治安維持法反対運動など一貫して軍国化に抵抗、反軍演説を行った斉藤隆夫の除名に反対(棄権)し議会制民主主義を擁護する姿勢を示した。昭和に入ると次第に「反軍的」とされ、1942年第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)には大政翼賛会「非推薦」で出馬したが当選。しかし、翼賛選挙での田川大吉郎の応援演説で、翼賛選挙「批判」を行ったなかに引用した川柳「売家と唐様で書く三代目」が昭和天皇の治世を批判するものであると見做され1943年不敬罪で起訴された(最高裁で無罪)。アジア太平洋戦争敗戦後、新国会は名誉議員の称号を贈った。「憲政の神様」。
尾崎行雄の著『憲政の危機』から彼の「議会」についての言葉を一部抜粋して以下に紹介しよう。
「元来議会なるものは、言論を戦わし、事実と道理の有無を対照し、正邪曲直の区別を明らかにし、もって国家民衆の福利を計るために開くのである。しかして投票の結果が、いかに多数でも、邪を転じて正となし、曲を変じて直となす事はできない。故に事実と道理の前には、いかなる多数党といえども屈従せざるを得ないのが、議会本来の面目であって、議院政治が国家人民の利福を増進する大根本は、実にこの一事にあるのだ。しかるに……表決において多数さえ得れば、それで満足する傾きがある。すなわち議事堂は名ばかりで実は表決堂である。」
(2024年1月19日投稿)