「大日本帝国憲法」の改正手続きにより第90回帝国議会で審議された「日本国憲法原案」は、1946年10月29日、内容は一部修正されて吉田茂内閣の下で成立した。その一部修正とは「芦田(均)修正」とも呼ばれたもので、「戦争放棄」を定めた第9条第2項に「前項の目的を達するため」という字句を追加した事をさす。(他の追加には第25条「生存権」もある。)この表現はのちに、「前項の目的(国際紛争の解決)」以外(自衛)のための戦力保持は憲法違反ではないという論拠となる。
吉田茂は日本国憲法についてどのように考えていたのか。岸信介は『岸信介の回想』で述べているが、吉田茂は「俺も今の憲法は気に食わないけれど、あれを呑むよりほかなかったのだから、君らはそれを研究して改正しなきゃいかん」と述べたと。この言葉から、吉田茂は改憲論者であったという事がわかる。
天皇は日本国憲法をどのように思っていたのであろうか。1975年の外国人記者団との会見では「(日本人の)戦前と戦後の(価値観は)変化があるとは思っていません」「第1条ですね。あの条文は日本の国体の精神にあった(合った?)事でありますから、そういう法律的にやかましい事をいうよりも、私はいいと思っています」「今話したように、国体というものが、日本の皇室は昔から国民の信頼によって万世一系を保っていたのであります。その原因というものは、皇室もまた国民を赤子と考えられて、非常に国民を大事にされた。その代々の天皇の思召しというものが、今日をなしたと私は信じています」「(戦前と戦後の役割を比較して)精神的には何らの変化もなかったと思っています」と述べている。つまり、天皇は戦前と戦後の価値観に変化はなく連続したものとして認識しており、第1条の意味は、「国民」は「無責任」の「象徴」である「天皇」を「象徴」として「統合」されているという事を意味しているという事になる。
1945年12月17日に公布された「改正衆議院議員選挙法」について、天皇や支配層(米国もか?)の意識を知るうえで重要な点を付け加えておこう。女性参政権が付与された事はよく知られているが、植民地支配を受けていた朝鮮人、台湾人の選挙権及び被選挙権が停止されたのである。1925年の普通選挙実施以降この改正まで、日本内地に在住する外国人は、国政・地方のレベルを問わず参政権を有していた。ハングル投票も可能であったのだが。この「選挙法」に見える方針は、米国との共同作業であった憲法制定の段階でも日本側は押し通した。GHQ憲法草案には「外国人は法の平等な保護を受ける」という条文が存在したがそれを削除したのである。日本国憲法第14条には現在「法の下の平等」がうたわれているが、そこから意図的に削除したのである。この件は憲法施行の1947年5月3日の前日(5月2日)に天皇の最後の勅令として「外国人登録令」を出す事により、明確に憲法の権利保障の対象から除外するのである。「日本国籍」を有しているが「外国人」であると見なしたのである。さらに、1952年4月28日のサンフランシスコ講和条約の発効により、国籍選択の自由も認めず日本国籍をはく奪し、「外国人登録法」により、「指紋押捺」と「外国人登録証明書」の常時携帯を義務付けた。それ以降日本政府(自民党)の主導により日本社会は「国籍条項」に基づいて外国人に対する差別を正当化する。
また、米軍の占領軍政下にあった「沖縄県」も「改正選挙法」の施行について日本政府は「例外扱い」とした。そのため、日本国憲法を審議した1946年の国会には沖縄県選出の議員はおらず、日本国憲法は沖縄県民を除外して成立したのである。そして、「日米安全保障条約」締結にあたっても同様に扱ったのである。
また、「安全保障条約」締結については、締結にいたる裏側で、「天皇」の暗躍があった。1947年5月3日に「日本国憲法」が施行された4か月後の1947年9月(天皇の暗躍は憲法違反であるにもかかわらず)、宮内庁御用掛の寺崎英成氏をマッカーサーの政治顧問シーボルトの下へ訪問させ、沖縄の将来に関する天皇の考えを伝えさせた。それは、
「天皇は、米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を継続するよう希望している。そのような占領は、米国に役立ち、また、日本に保護を与える事になる。天皇は、そのような措置は、ロシア(社会主義)の脅威ばかりでなく、占領終結後に、右翼および左翼勢力が増大して、ロシアが日本に内政干渉する根拠に利用できるような事件を起こす事をも恐れている日本国民の間で広く賛同を得るだろう(憲法第9条により軍隊をもたないため、実は天皇制を護持しようとする天皇自身の強い希望)と思っている。さらに、沖縄(及び必要とされる他の島々)に対する米国の軍事占領は、日本に主権を残したままでの長期租借(25年ないし50年あるいはそれ以上)という擬制に基づくべきであると考えている。この占領方法は、米国が琉球諸島に対して永続的野心を持たない事を日本国民に納得させ、またこれにより他の諸国、特にソ連と中国が同様な権利を要求するのを阻止するだろう。手続きについては、「軍事基地権」の取得は、連合国の対日平和条約(サンフランシスコ講和条約にあたる)の一部をなすよりも、むしろ、米国と日本の2国間条約(日米安全保障条約に結実)によるべきである。前者の方法は、押し付けられた講和という感じがあまりにも強すぎて、将来、日本国民の同情的な理解を危うくする可能性がある」というものであった。
(2016年2月11日投稿)
※昭和天皇は戦後の日米両政府の望むべき姿について自ら構想し働きかけ、利害の一致した米国政府とともに、「天皇制護持(象徴天皇制)と軍隊放棄(憲法第9条)」と「日米安全保障条約締結」と「沖縄を犠牲にした米軍事基地化」を実現していったのである。昭和天皇は優しく親しみ安く善人そうな見かけとは異なり、本質は恐るべき冷酷非情で狡猾無比の策士「人非人」であった。現天皇も推して知るべしである。天皇家とはそういう人間の集団なのである。民主主義を大切にする国民はこのような「憲法に規定されない」特殊な価値観を持つ存在をこのままにして置かず、普通の人間の生活ができるようにすべきである。この事によって国民の思考や判断も「思考停止」状態に陥る事無く、すっきりとした科学的論理的なものとなり、曖昧模糊とした日本社会の価値観の混乱も解消されるはずである。
(2016年2月11日投稿)