「種痘」とは、牛痘を人体に接種し、「天然痘」に対する免疫性を得させ感染を予防する方法である。1796年ジェンナーが発明した。植疱瘡。中川五郎治は江戸時代の日本に初めて初めて「種痘(牛痘)」をもたらした。1768年陸奥国北郡川内村(青森県下北郡川内村)に生まれた。松前に渡り奉公働きをするうちに、北方開拓を決意し「択捉島」に渡った。そこで認められ幕府番小屋の番人小頭になり、ロシア語の通詞(通訳)助役ともなった。1807年ロシア人に襲われシベリアに抑留された。1812年釈放され「国後島」に帰ったが、帰国前にロシア語の「種痘書」を入手し「種痘法」も見学した。
※英国の外科医ジェンナーが「種痘法」を発明したのは1796年の事であるが、「天然痘」に苦しんでいた欧米諸国に急速に伝わった。ロシアでは1801年に「種痘」が始まり、シベリアにもかなり普及していた。
五郎治は江戸に送られて取調べを受けた後、松前の役人となった。1824年松前地方に「天然痘」が大流行した。五郎治はシベリア抑留中に見聞した「種痘法」により人命を救おうと決意し、「田中イク」という名の11歳の少女に「種痘」をしたのを手始めに、次々と多くの人々に「種痘」を施していった。「痘苗」は「天然痘」患者の「膿」を牛に植えて「牛痘」を発病させ、それから得たものであった。人間の腕に小刀の先端で血の出るまで傷をつけ、その部分に水を溶かした「痘苗」を塗り付けた。「種痘」を受けたものたちは、「天然痘」にかかる事がなかった。五郎治の「種痘法」は松前の一部地域に限られ、わずかに白鳥雄蔵により秋田に導入されたに過ぎなかった。
※シーボルトは長崎で「種痘」を試みて失敗、1839年にはオランダ商館医のリシュールが「牛痘苗」を長崎に持ってきて接種したが失敗、長崎で「種痘」に成功したのは1849年(五郎治は1848年80歳で死去)で、オランダ商館医モーニッケに依頼してバダビアから「牛痘」の「かさぶた」をもらい、佐賀藩医楢林宗建の子息建三郎らに接種して成功し、それ以後全国的に広まった。
五郎治がシベリア抑留中に入手した「種痘書」は幕府の役人に没収され、オランダ語の通詞であった馬場佐十郎に渡された。佐十郎はオランダ商館長から「種痘」の事を聞いていた事もあって、この書の翻訳にとりかかった。1811年に箱館・松前に捕らえられていたゴローニン(1776~1831。『日本幽囚記』。高田屋嘉平が釈放に努力)についてロシア語を学び、1820年に訳し終え、『遁花秘訣』(日本最初の種痘書)と名づけた。1850年医家の利光仙庵により『魯西亜牛痘全書』と題して刊行され広く知られるようになった。
神聖天皇主権大日本帝国の大正時代になって、日本に初の「種痘法」をもたらした功績が認められ、北海道庁から表彰された。墓の所在は不明である。
※天然痘(疱瘡)は江戸時代には毎年流行した。死を免れた者も「あばた」をのこし、身体に欠陥ができたり、失明する者も多かった。『雨月物語』をのこした上田秋成は、少年時代に重い天然痘(疱瘡)にかかり、指が不自由になったが、この時、神仏の恵みに感じ、ひいては神秘現象への関心を抱くようになった。天然痘(疱瘡)のために世継ぎが死亡し「お家断絶」「一家離散」の憂き目にあった武士たちや、「あばた」が原因で一生不縁に終わった女性たちや、失明して座頭や瞽女(ごぜ)になったなど秘話悲話がある。
(2025年1月31日投稿)