日韓条約とは、1965年6月22日に日本政府(佐藤栄作首相)と大韓民国政府(朴世煕大統領)の間で調印された日韓基本条約と、それに付随する一連の協定・外交公文の総称である。これにより国交を開いた。朝鮮半島は日本の敗戦により、日本の植民地から解放(独立)されたにもかかわらず、その後の、米国の介入により南北分断を余儀なくされ、38度線を境にして、先ず南部に「大韓民国」、そして北部に「朝鮮民主主義人民共和国」が成立し、朝鮮戦争をへて、分断が固定化する状況となった。
朝鮮戦争は、1950年6月25日に勃発し、53年7月27日に休戦協定が結ばれたが、勃発の翌年の51年11月に「日韓予備会談」が開始された。米国、日本(第3次吉田茂首相)、韓国(初代大統領:李承晩)3国政府の意図で「朝鮮国」を「排除」し「韓国」だけと交渉が進められた。その意図は、基本条約の第3条に「韓国政府は、国連総会決議195号が明示するとおりの朝鮮にある唯一の合法的な政府である」と定めた事からも明らかなように、「朝鮮国」は半島北部を「侵略」し「不法占拠」している「殲滅すべき不法勢力」であるとの認識を共有していたからである。日本政府は第3条については「休戦ライン以南を現に管轄している事実を確認したものに過ぎない」と子供だましの説明したが、その後今日に至っても「朝鮮国」との国交を開いていないだけでなく敵視政策を強めていることから判断して日本政府は、韓国政府の説明を故意に認めず否定し、国民を騙すために「ウソ」をついた事を自ら暴露し開き直っていると言ってよい。その意図はまた、「在日韓国人の法的地位および待遇に関する協定」で、「協定にともなう日本側の特別法により66年1月から5年間の間の本人申請にもとづき、協定永住権を賦与する」として、在日朝鮮人に一方的に「韓国籍」を取得させようとした事でも明白であり、「朝鮮半島の分断」と「朝鮮人の分断」を意図したものであった。
ちなみに、日韓国交交渉についての外交文書の公開の1回目はほとんどすべて墨塗り状態で、2回目は韓国の新聞や雑誌の翻訳文ばかり。未公開部分を公開させる事が重要で急務である。
さて、「日韓予備会談」は53年の第3次(第5次吉田政権)で中断(4年余り)された。それは、日本側の首席代表「久保田貫一郎」の「日本の朝鮮統治は悪い面ばかりでなく、良い面もあった(恩恵を与えた)」という、日本の植民地支配を正当化する発言をしたためである。日本側は代表を交代させ「久保田発言」を撤回したうえで、58年4月に第4次(第1次岸政権)が再開された(代表交代後も「久保田発言」と同様の姿勢と発言を続けた)。韓国では李承晩政権が独裁化していたのに対して、民主化と南北統一を求める「四月革命」が起こり、李政権を打倒し、野党を基盤とした張政権が成立したが、それを軍人である朴正熙が1961年5月にクーデタを起こし、政権を打倒し李政権と同様の独裁政治に戻した。朴政権は日本資本による経済発展をめざした。日本政府は独占資本の韓国進出を目論んでいた。米国は、ベトナム戦争に深入りするため、韓国に対して日本に肩代わりを求めていた。3者の利害が一致し、会談は急速に進展した。しかし、韓国国民は、会談が自主的平和的統一を阻害するだけでなく、再び日本への従属を招く事になるとして、64年3月から6月にかけて反対運動が高まり、朴政権は「非常戒厳令」を出して抑圧し、65年6月に調印した。日本でも反対運動が起こったが、日本による植民地支配の責任追及やそれに基づく再侵略批判は目立たなかった。
また、「批准」の過程は、朴政権は65年8月14日に野党議員が総辞職するという状況下で、与党だけの単独採決を強行した。日本では第1次佐藤政権が、65年11月6日の「衆議院日韓特別委」で、11月12日の「同本会議」でも、12月11日の「参議院本会議」でも「強行採決」を行った。そして、12月18日に批准書が交換され条約が発効した。
※1910年に日本が締結を強要した「韓国併合条約」やそれに至る条約や協定については、日韓基本条約第2条では、朴政権が「そもそも無効である」と主張したのに対し、佐藤政権は「もはや無効である」と押し通し、日本による植民地支配を認めないあいまいなずるい決着?をした。
※在日朝鮮人も「日韓条約」により、分断を強いられる事となり、現在の在日韓国・朝鮮人問題を生み出した。
※請求権問題では、日本政府は、植民地支配は「合法」であるとして、韓国の「賠償金」請求を放棄させ、「経済援助」として、「無償贈与」と「有償借款」を合わせて「5億ドル」を供与するとした。
※「相手を理解しようとする努力と、自己を省みる真摯な態度を持たないと、真の友好を育む事はできない。」
(2019年8月27日投稿)