『日西墨交通発祥記念碑メキシコ記念公園』にたどり着きました。
日西墨三国交通発祥記念之碑(にっせいぼくさんごくこうつうはっしょうきねんのひ)は、オベリスク型の記念碑でした。鉄筋コンクリート製で高さ17メートルあるということです。
さて、なんの記念碑なのかな?
調べてみると衝撃の事実が…。
1609年(慶長14年)9月30日の朝、岩和田海岸で当時フィリピン諸島長官ドン・ロドリゴ総督を乗せたイスパニア(スペイン)船・サンフランシスコ号が沈没し、これを岩和田の人達は力を合わせて救助しました。
当時の岩和田の人口は300人程で、助かった人は300人以上、部落の生活は貧乏でしたが、心のやさしい人々は自分のことよりも他人の難儀を救うために、大切な着物や食べ物を分け与えました。
このことがあってから、日本とメキシコとスペインと三国の交通が始まったのです。
このことを記念して、御宿町の東、岩和田の山の上に白く輝く記念塔が1928年(昭和3年)に建ったということです。
サンフランシスコ号の乗員総数373人
生存者317人・死体収容数・行方不明56人。
オベリスクの先には抱擁の像がありました。(画像)
以下、御宿町のホームページから引用した文献です。
これぞ侍魂、日本人の誇りです。
『台風の過ぎ去った後の海は荒れて、海岸には海草や木片など色々なものが漂着していました。部落の人達は朝早くから海辺を捜し歩いて役に立つものを拾うのが慣わしでした。
これからの話は1609年9月30日のことです。村の漁師二人が田尻(現在の岩和田)近く夜明けの山路を歩いていると異様な姿の二人連れがフラフラ歩いて稲穂をむしって食べたりしていました。草むらの陰からよく確かめると、背高の鼻の高い異国民らしいので、びっくりして急いで部落へ引き返し、みんなに知らせました。
みんなを集めて相談し、事情を確かめるため元気な若者6人を選んで様子を見に行かせました。
田尻浜には裸同然の者や破れた着物を着ている者がごろごろしていました。その中に日本人らしい若者を従えて、汚れてはいるが立派な顔をした大将らしい人が「昨日から何も食わずにみんな苦しんでいる」と、日本人通訳と共に遭難の苦しみを語り、助けてくれと身振り手振りで頼むのでした。6人の若者達には同情はしても、どうして良いか分からないので2人を部落へ報告に行かせ4人が残って救助を手伝うことにしました。
間もなく、大勢の部落の人がやってきて散乱する器物を集めたり、苦しんでる人を介抱したりして部落へ連れ帰り、どうするかをみんなで相談の結果、大宮寺へ収容しましたが、この悲惨な様子を見た婦人たちは、夫の許しを得て綿入れの着物を与えたり、乏しい食物の中から米・ナス・ダイコン・魚などを分けてやりました。
数日後大多喜城の殿様本多忠朝は家来300人余りを率いてやって来ました。忠朝はドン・ロドリゴに挨拶し、ロドリゴの手に接吻して友愛の情を示しました。そして、家康の指示があるまで3百余人の食糧一切を供給することを約束したのです。
一行は引き続き37日の間、岩和田で過ごした後、途中大多喜城主本多忠朝にお礼を述べ一泊してから、江戸へ出発しました。』
なるほど…。
この景色からは想像出来ない事実ですが、目を閉じると灼熱の太陽から放たれる光の矢が僕の心を貫いていく気がしました。
その6へ続きます。
日西墨三国交通発祥記念之碑(にっせいぼくさんごくこうつうはっしょうきねんのひ)は、オベリスク型の記念碑でした。鉄筋コンクリート製で高さ17メートルあるということです。
さて、なんの記念碑なのかな?
調べてみると衝撃の事実が…。
1609年(慶長14年)9月30日の朝、岩和田海岸で当時フィリピン諸島長官ドン・ロドリゴ総督を乗せたイスパニア(スペイン)船・サンフランシスコ号が沈没し、これを岩和田の人達は力を合わせて救助しました。
当時の岩和田の人口は300人程で、助かった人は300人以上、部落の生活は貧乏でしたが、心のやさしい人々は自分のことよりも他人の難儀を救うために、大切な着物や食べ物を分け与えました。
このことがあってから、日本とメキシコとスペインと三国の交通が始まったのです。
このことを記念して、御宿町の東、岩和田の山の上に白く輝く記念塔が1928年(昭和3年)に建ったということです。
サンフランシスコ号の乗員総数373人
生存者317人・死体収容数・行方不明56人。
オベリスクの先には抱擁の像がありました。(画像)
以下、御宿町のホームページから引用した文献です。
これぞ侍魂、日本人の誇りです。
『台風の過ぎ去った後の海は荒れて、海岸には海草や木片など色々なものが漂着していました。部落の人達は朝早くから海辺を捜し歩いて役に立つものを拾うのが慣わしでした。
これからの話は1609年9月30日のことです。村の漁師二人が田尻(現在の岩和田)近く夜明けの山路を歩いていると異様な姿の二人連れがフラフラ歩いて稲穂をむしって食べたりしていました。草むらの陰からよく確かめると、背高の鼻の高い異国民らしいので、びっくりして急いで部落へ引き返し、みんなに知らせました。
みんなを集めて相談し、事情を確かめるため元気な若者6人を選んで様子を見に行かせました。
田尻浜には裸同然の者や破れた着物を着ている者がごろごろしていました。その中に日本人らしい若者を従えて、汚れてはいるが立派な顔をした大将らしい人が「昨日から何も食わずにみんな苦しんでいる」と、日本人通訳と共に遭難の苦しみを語り、助けてくれと身振り手振りで頼むのでした。6人の若者達には同情はしても、どうして良いか分からないので2人を部落へ報告に行かせ4人が残って救助を手伝うことにしました。
間もなく、大勢の部落の人がやってきて散乱する器物を集めたり、苦しんでる人を介抱したりして部落へ連れ帰り、どうするかをみんなで相談の結果、大宮寺へ収容しましたが、この悲惨な様子を見た婦人たちは、夫の許しを得て綿入れの着物を与えたり、乏しい食物の中から米・ナス・ダイコン・魚などを分けてやりました。
数日後大多喜城の殿様本多忠朝は家来300人余りを率いてやって来ました。忠朝はドン・ロドリゴに挨拶し、ロドリゴの手に接吻して友愛の情を示しました。そして、家康の指示があるまで3百余人の食糧一切を供給することを約束したのです。
一行は引き続き37日の間、岩和田で過ごした後、途中大多喜城主本多忠朝にお礼を述べ一泊してから、江戸へ出発しました。』
なるほど…。
この景色からは想像出来ない事実ですが、目を閉じると灼熱の太陽から放たれる光の矢が僕の心を貫いていく気がしました。
その6へ続きます。