中学生の我が子が通っている私立中学において、本年度から中3に限り能力別クラス編成制度が採用された。高校へは基本的に全員が内部進学のため、高校受験を経験しないことによる学力低下を阻止し、生徒全体の学力向上を図ろうとする狙いだ。
現在、この能力別クラス編成を採用する学校は急増傾向にあるようだ。
小学校においてすら、習熟度別学習と称して算数等一部の教科で能力別学習を採用している学校が今や一般的である。
さて私事であるが、今年中3に進級した我が子がこの能力別(正確に言うと成績別)クラス編成の最上位クラスの所属となってしまった。こういう場合、通常は喜ぶ保護者が大多数なのであろう。ところが、我が家では親子共々頭を痛めてしまっている。なぜならば、最上位クラスにおける学習方法が我が子に合わないであろうことを懸念していたのだが、1ヶ月が経過した今、まさに嫌な予感が的中してしまっているためなのだ。
成績が良いことを否定する訳ではない。良いに越したことはないのであろうが、学校における成績とはそもそもある一定時点の相対評価に過ぎない。この数字にこだわり過ぎると個性ある子ども個々の成長の観点からは先を誤る危険すらあると私は懸念するのだ。
我が家の教育方針は子どもの全人格的な成長に重きを置くことにある。その中で学力という項目ももちろん重要な成長の要素ではある。この学力の伸びを判断するに当たって、目先の学校の成績もそのひとつの指針にはなるが、もっと広い視野で子どもの学力を捉えたいと私は考え、日々子供の教育指導に当たってきている。その指針とは席次や通知表の評価では決してなく、子どもが学習内容を真に理解できているがどうかなのである。これを、私なりの判断においてずっとチェックしてきている。
学習において最重要なのは概念理解である。数学を例にとって話すと、公式というものがある。これを暗記する事はもちろん重要であるが、それに先立ち公式が成り立っている理屈を筋道立てて理解しておく事が肝心だ。
つい先日も子どもが数学の因数分解の問題の答がどうしても合わないと言うので見てみると、単に公式を誤って暗記してしまっている。例えば簡単な例として、
(a+b)(a-b) = aの二乗 - bの二乗(二乗の数字が出せず、すみません。)
という公式があるが、これは元の式を乗除加減の法則に従い順序立てて計算していくと誰でも簡単に導き出せる。
ところが、計算の量をこなさせるために担当教員が早く公式を暗記するように指導したらしい。そのこと自体に問題がある訳ではないのだが、それを力不足の我が子が誤って暗記してしまったのである。
そこで私は、初心に戻り公式を導く計算から何度もやり直させた。どうしてその公式が導かれたのかを理解することが暗記の近道であると、私は自分自身の学習経験から考えるからである。
この概念理解学習は時間を要する作業であるかもしれない。丸暗記して計算をどんどんこなして計算力をつける方が、とりあえずの成績アップのための近道ではあろう。ただ、自分の確かな学力として長年定着させるためには、回り道ではあれ概念理解はかかせないのではなかろうか。
さて能力別クラス編成の話に戻すが、我が子の学校の場合、最上位クラスはさらなる成績向上のために各教科共ドリルを他クラスより1冊増やし、早い話が「詰め込み教育」を行っているのである。これがそもそも私の教育理念に合わないし、加えてスローテンポで力不足の我が子にも向いていないのである。これを日々強制されてしまうと、我が子の場合は逆効果だ。案の定、もうオーバーフロー気味である。
これでは我が子は潰されてしまう。何とか我が子の学習スタイルに合う方法で学習に取り組ませてやりたいのだが、学校の課題を無視する訳にもいかない。それで頭を痛めてしまっているのである。
この連休も学校の大量の宿題をこなすのに精一杯で、行楽にも行けない。親子で趣味のバレエ公演も観たいのに…。やっと半日美術館へ行けただけである。こんな状態では、私が目指す全人格的成長は望めない。
高校進学時は特進クラスの希望は出さないことを既に子どもと話し合った。後1年、何とかこの不健全な状況を耐え抜いて欲しいと今は願うばかりである。
以上のように、能力別クラス編成は子どもの個性によっては大きなマイナスとなる場合もある。生徒全体の学力向上を目指すならば、成績別ではなく、学習タイプ別、学習環境別、すなわち生徒の学習への取り組み方の個性に応じたクラス編成が効果的なのではないかと私は考えるのだが…。
現在、この能力別クラス編成を採用する学校は急増傾向にあるようだ。
小学校においてすら、習熟度別学習と称して算数等一部の教科で能力別学習を採用している学校が今や一般的である。
さて私事であるが、今年中3に進級した我が子がこの能力別(正確に言うと成績別)クラス編成の最上位クラスの所属となってしまった。こういう場合、通常は喜ぶ保護者が大多数なのであろう。ところが、我が家では親子共々頭を痛めてしまっている。なぜならば、最上位クラスにおける学習方法が我が子に合わないであろうことを懸念していたのだが、1ヶ月が経過した今、まさに嫌な予感が的中してしまっているためなのだ。
成績が良いことを否定する訳ではない。良いに越したことはないのであろうが、学校における成績とはそもそもある一定時点の相対評価に過ぎない。この数字にこだわり過ぎると個性ある子ども個々の成長の観点からは先を誤る危険すらあると私は懸念するのだ。
我が家の教育方針は子どもの全人格的な成長に重きを置くことにある。その中で学力という項目ももちろん重要な成長の要素ではある。この学力の伸びを判断するに当たって、目先の学校の成績もそのひとつの指針にはなるが、もっと広い視野で子どもの学力を捉えたいと私は考え、日々子供の教育指導に当たってきている。その指針とは席次や通知表の評価では決してなく、子どもが学習内容を真に理解できているがどうかなのである。これを、私なりの判断においてずっとチェックしてきている。
学習において最重要なのは概念理解である。数学を例にとって話すと、公式というものがある。これを暗記する事はもちろん重要であるが、それに先立ち公式が成り立っている理屈を筋道立てて理解しておく事が肝心だ。
つい先日も子どもが数学の因数分解の問題の答がどうしても合わないと言うので見てみると、単に公式を誤って暗記してしまっている。例えば簡単な例として、
(a+b)(a-b) = aの二乗 - bの二乗(二乗の数字が出せず、すみません。)
という公式があるが、これは元の式を乗除加減の法則に従い順序立てて計算していくと誰でも簡単に導き出せる。
ところが、計算の量をこなさせるために担当教員が早く公式を暗記するように指導したらしい。そのこと自体に問題がある訳ではないのだが、それを力不足の我が子が誤って暗記してしまったのである。
そこで私は、初心に戻り公式を導く計算から何度もやり直させた。どうしてその公式が導かれたのかを理解することが暗記の近道であると、私は自分自身の学習経験から考えるからである。
この概念理解学習は時間を要する作業であるかもしれない。丸暗記して計算をどんどんこなして計算力をつける方が、とりあえずの成績アップのための近道ではあろう。ただ、自分の確かな学力として長年定着させるためには、回り道ではあれ概念理解はかかせないのではなかろうか。
さて能力別クラス編成の話に戻すが、我が子の学校の場合、最上位クラスはさらなる成績向上のために各教科共ドリルを他クラスより1冊増やし、早い話が「詰め込み教育」を行っているのである。これがそもそも私の教育理念に合わないし、加えてスローテンポで力不足の我が子にも向いていないのである。これを日々強制されてしまうと、我が子の場合は逆効果だ。案の定、もうオーバーフロー気味である。
これでは我が子は潰されてしまう。何とか我が子の学習スタイルに合う方法で学習に取り組ませてやりたいのだが、学校の課題を無視する訳にもいかない。それで頭を痛めてしまっているのである。
この連休も学校の大量の宿題をこなすのに精一杯で、行楽にも行けない。親子で趣味のバレエ公演も観たいのに…。やっと半日美術館へ行けただけである。こんな状態では、私が目指す全人格的成長は望めない。
高校進学時は特進クラスの希望は出さないことを既に子どもと話し合った。後1年、何とかこの不健全な状況を耐え抜いて欲しいと今は願うばかりである。
以上のように、能力別クラス編成は子どもの個性によっては大きなマイナスとなる場合もある。生徒全体の学力向上を目指すならば、成績別ではなく、学習タイプ別、学習環境別、すなわち生徒の学習への取り組み方の個性に応じたクラス編成が効果的なのではないかと私は考えるのだが…。
kuisinさんの例の場合、能力別クラス編成の目指す方向が捉えにくいですね。その編成で力が伸びるのは最上位クラスをキープし続ける生徒のみであるような気もします。
生徒に混乱を起こさせて、やる気を失わせる能力別クラス編成の意義とは一体何なのでしょう。一部のエリートの輩出でしかないようにも感じられますね。
クラスを成績で分けさえすれば学力が向上するものでは決してないですね。指導側は自らの指導効率や学校の体裁という観点ではなく、常に生徒個々の立場に立った指導体制作りを心がけるべきです。
学校は指導者のためではなく、生徒のために存在するのですから。
私は完全な能力別授業は受けていませんが、中学の時に英語のみに限って習熟度別ではありました。
恐らくはここでコメントをしている皆さん、そして原さんも、この授業そのものを受けたことはないかと存じます。(あったらすみません)
数少ないこの場での体験者としての率直な意見を述べれば、“必要性が分からない”の一点に限ります。
私の学校の場合ですと、英語はビギナー、(中間の名前は忘れました・・・以後便宜上“中間”とします)、そしてマスターの三つのクラスに分かれていました。クラスの分け方は完全にテストの成績のみで左右され、40点以下ならばビギナー、40~70までなら中間、それ以上はマスターとなってました。
なぜか不思議なことに、私たち生徒の中に、ビギナーと中間、または、中間とマスターの間を行き来している生徒がいました。成績の向上が名目なのに、右往左往とはこれ如何に??
友達の中にビギナーと中間のクラスを行ったり来たりしている友人がいたので、話を聞いてみると、教え方が全くの別で、別のクラスからきた場合に訳が分からなくなる、とのことで、次のテストではその学習法の違いに付いていけず、クラスがまた変わってしまうのだそうです。
私自身は中間にずっといました。(成績からすると普通・・・)ビギナーは分かりませんでしたが、一度だけ成績が良かったテストがあり、その後マスターに行ったことがあります。
教師が違えば学習法も異なる。メンバーが違えば競争もあったものではない。順調に積み重ねていたはずなのに、いきなり高く放り投げられるような、空虚感。
結局次のテストの結果は散々で、すぐに中間のクラスに戻りました。
あ~・・・何が言いたいのかと申しますと、一部の生徒以外は付いていけないのがほとんどだった、ということです。
まぁ私の学年で試験的に導入されただけらしいので、その後もその中学で継続されているのかは分かりませんが・・・。ただ原さんの記事を読んで、ふと思い出しました。
置いてけ堀は、子供の方がつらいものです。
では、またまた、長文失礼しました。
私も学習成果の平等を決して否定しているわけではありません。それに関しましては、当ブログを熟読いただけましたらおわかりいただけることと存じます。
ですが、とりわけ子どもの教育について議論する場合、人間社会の基本として、すなわち基本的人権の観点から、まずは機会均等が保証されてこその学習成果の平等について語るのが本筋ではないでしょうか?
残念ながら、現状の社会では子どもの機会均等が保証されていない状況です。
そして、学習成果の平等に関しましても、その評価基準もあいまいです。
そもそも、kさんにとっての学習成果とは何なのでしょうか?
もし差し支えございませんでしたら、もう少し詳細にkさんのご見解をご表明いただけたらと思います。
その上で、議論させていただけましたら幸いと存じます。
再度のコメントを心よりお待ち申し上げております。
原左都子
私は本ブログのバックナンバー記事「道徳教育私論」において既述しましたが、子どもの人間としての基本的な道徳心、倫理観教育に関しては家庭がその主体であるべきと考えます。もちろん、学校等の集団生活の場では、家庭では経験できない集団という社会における道徳心を教育するべきなのは言うまでもありませんが。
そして、私は早期教育に関しましても反対派です。
学科教育のスタートは小学校からで十分と考えています。
早期教育の意味合いも様々でしょうが、現行の一般的な保育所、幼稚園等で行われている学習予備段階のお遊び的なもので十分だと思います。
もちろん、子どもの個性に応じて各家庭が対応する分には自由でしょうが。
余談ですが、私は変な幼児で、幼稚園で一番面白かったのが「知能テスト」でした。こんな面白い“遊び”があるんだ、と子ども心に感激して没頭したのを今なお憶えています。人の個性は様々です。
また、お越し下さいますように。
「理念なき教育改編」でも述べたとおり、ゆとり教育の失敗は、結局は教員の資質や能力不足、そして教育指導内容の不備にあると私は考えております。
どのようなクラス編成にしようとも、上記の条件が整えられないのならばその効用は期待できないでしょう。それならば、いっそのこと“ごちゃ混ぜ”クラスの方が偏った差別意識も回避できるし、個性豊かな子ども同士が影響を及ぼし合ってむしろ成長できるのかもしれません。
学習において一番回避するべきことは、老いさんの言う“わからない、面白くない、やらない、もっとわからない、…”この悪循環スパイラルですね。最低限、教育者と名の付く人は生徒がこのスパイラルに落ち込まないような指導を心がけるべきです。
ただ、子どもの個性とは実に多様です。同程度の成績であれ、学習方法や家庭での学習環境(親の教育方針も含めて)は皆異なることでしょう。
とにかく、単に大学進学という目先の目標ではなく、将来に通じる真の学力を、そして人間としてのバランスのとれた成長を願い日々子どもの教育に当たっている私にとっては、しばらく不本意で頭の痛い日々が続きそうです。
受験を前に、暗記ですべてを覚えるのは、物事の理解力、判断力の無い人間ばかりになり現代社会のひずみが大きくなるように思えますが、幼児教育のあり方を考えて行きたいと私は考えています。
さとちゃんの言うのもごもっともだと思いますが、≪学習タイプ別、学習環境別、すなわち生徒の学習への取り組み方の個性に応じたクラス編成≫での、各個人のそれを見極める教師能力があるか・・・と言う事にも。
そもそも、こういうのって、≪必要≫なの?
老いさんも、実際中学時代に、この「能力別クラス編成」を体験しました。
で、やはり、さとちゃんの記事にあるような、「差別」「落ちこぼれ」状態をも体験しました。
実際、こんな事、公表するのも恥ずかしい限りなんですが、授業内容に着いて行けないのね・・・
結局、判らない、面白くない、やらない、益々判らない・・・と、落ちこぼれて行きました。トホホホ・・・
差別もありましたね。
だから、「こんなの」要らない!
成績のいい奴は放っておいても自分から勉強するんだから。
抗癌剤の使用の必要もないとのことで、体力消耗も回避できそうですね。私の場合は、術後の回復は順調だったのに抗癌剤の副作用で毎日発熱し体が弱って大打撃を受けましたので。
そうですね。満を持してお金はキープしておいた方がよいかもしれません。
病棟には様々な病状の方が入院されていますよね。私の時もそうでした。
とにかく、引き続きお大事にして下さいね!
ゆきさんのブログの中学生時代の記事を拝見しました。すばらしいお母様でいらっしゃいますね。ゆきさんを信じ、ゆきさんの自主性を尊重したお母様の愛情に拍手です。
また、ゆきさんご本人がもっといいですね。ご自身が好きだと思える社会、理科の勉強に専念しその結果を見事に出されましたね。
私はゆきさんのブログを垣間見させていただいただけなのですが、お母様のお考え同様ゆきさんには元々高い学習能力がおありなのだと察します。そんなゆきさんがお母様の愛情に支えられ、実力を発揮されたお話は大変興味深いものがありました。
またお越し下さいますように!
ただ中3からは数学等でクラスをさらに半分に分けて授業を行う分割授業がはじまるとその分け方は成績順です、学校の味方をするようですが一番やりやすく(レベルが近いので授業がやりやすい)効果も期待できる方法ではないでしょうか。
中高一貫の私立に行かせた場合、中学受験して入学するわけですからおなじくらいのレベルの子(良く似たタイプの子)が多く、子供にとっては楽しく親にとっても安心ですが、個性を磨こうと考えた場合は?ですね。
入学後の5年間でそのことは感じましたね。
でも、油断大敵です。今‥隣で寝て居る爺さんも昨年同じ主治医の手術を受け転移無しで退院し、半年で再発し‥肝臓に転移し抗癌剤治療の為入院してます。
黒字と思ってもお金は使えないかな~(^^;)
この病院は入退院が激しいですよ!手術室20室ありますしね…
抗癌剤の使用は必要無いそうです(^-^)v
一泊 12000円の収入に繋がったのに残念です。
でも、痛みや苦しさがそのままなのに退院なんて納得出来ないです。
で、ガンは右下葉に12センチの物が出来、摘出しました。リンパ節の転移は無く、レベル1でした。今後の事は、退院前に説明が有るそうです。(^^;)
子供には個性がありますから
個性を伸ばす事が大切ですね
私の娘の事で教師の言う事は聞いていません
参考になる勉強方法ですよね
今回の記事では述べなかったのですが、生徒や単純な保護者の差別意識も大きな問題です。
事実、保護者会に出席しましたら「我が子が最優秀クラスに入れて光栄です。」と何の戸惑いもなく述べる保護者が多いのです。
私など、こういう単細胞親が子どもを育てている現状を垣間見て背筋がゾッっとするばかりでした。
真の意味での人材育成の観点を国にも保護者にも望みたいものです。
その前に、今の小中学校で成績優先クラス分けが進んでいることを知りませんでしたので、個人的にはかなりショックです。
そんなことしたら、他人を平気で差別したり弱者への救済に無関心な人に育ってしまいやすいと思います。
私も、公式や単語などを背景や概念の説明も無しに無理やり暗記させる教育方針は、子供の豊かな精神的成長に少なからず弊害があると思います。
本来、それらは何かを成すための道具に過ぎないのですから。
そりゃ知っているに越したことは無いですが、極端なことを言えば、用途に応じてPCなどから探せれば充分に活用できていると評価できます。
こんな、実社会では当たり前のことが、教えられていないなんて・・・・大丈夫か?今の子供たち!って心配になりました。
子供は国の宝ですから、もっと人間形成に重きを置いた教育をしないと、今以上にグローバル化が進む将来、日本の頭脳は立ち行かなくなると思います。
私は円周率を3としたことに社会が大反撃したことも印象深いです。
私の見解を述べますと円周率の概念が重要なのです。
それを理解もせずしてただ単に3か3、14かにこだわるのは解せない話です。もちろん、3、14にした方が子どもの計算力はつくでしょうが、概念理解を重視する私としては計算上は3で十分との立場を今なお貫いています。
3、14を主張している人達は真に円周率の概念を理解した上でそう思っているのでしょうか?大変失礼ながら今なお私はそう思っています。
形の面積を求める公式が消えていたのを出演者の方が
驚いていましたね。この時も、公式が成立する理由を
学ぶことの意味を強調する声がありましたね。