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朝鮮日報より    らくせき

2015年07月08日 09時35分36秒 | Weblog

日本にある韓国の文化財が数点、初めて里帰りしたのは1958年のことだった。韓日会談のムード作りのためだった。韓国人はこれを「文化財の返還」と言った。だが、日本では違っていた。日本人は「贈与」だと言った。65年の韓日基本条約で約1200点の文化財が戻ってきた時もそうだった。韓国人は「返還された」と言ったが、日本人は「引き渡した」と言った。2010年に朝鮮王室儀軌を返還した際も「お渡しした」だった。


 「返還」とは所有者に戻すという意味だ。これは韓国の文化財を盗んだり奪ったりしたことを認めるということだ。韓日基本条約後に日本から送られた「無償3億ドル、有償2億ドル」を韓国人は「請求権資金」と呼び、日本人は「経済協力資金」と呼ぶ。これが日本の「言葉遊び」だ。


 両国は1965年に国交を正常化した際、条約文で「1910年8月22日およびそれ以前に韓国と日本の間で締結されたすべての条約および協定は、もはや無効であることを確認する」(訳注:原文ママ、日本語の同条約は「1910年8月22日以前に大日本帝国と大韓帝国との間で締結されたすべての条約及び協定は、もはや無効であることが確認される」)とした。1910年の韓日併合条約が無効かどうかは当時、争点だった。この条約が無効なら、日本による36年間の植民地統治は違法になる。当然、謝罪と補償が伴わなければならない。日本の外務省は知恵を働かせ、「無効」の前に「もはや」という入れなくてもいい言葉を入れた。韓国はこれを「韓日併合条約はもともと無効だという意味」と解釈した。日本は「1948年の韓国政府樹立後に効力を失ったという意味」と言った。植民地支配は合法的だったというこじつけだ。現在の韓日間の歴史認識問題は「もはや」という言葉に端を発するわけだ。


 「明治日本の産業革命遺産」の国連教育科学文化機関(ユネスコ)世界遺産登録でも、日本の「言葉遊び病」がぶり返した。世界遺産委員会でユネスコ日本大使が「forced to work」と言ったことをめぐり、韓国外交部(省に相当)は「日本が韓国人の強制労働を認めたもの」と受け止めた。しかし、日本は外相が「強制労働を意味するものではない」と否定した。


 強制労働者については「forced laborer」という明確な表現がある。ユネスコ日本大使がこの言葉を避けた背景には、強制労働という言葉の意味合いを薄めようという意図がある。そうだとしても、ドイツの戦争犯罪を裁くニュルンベルク裁判の判決文には「forced to work」が明らかに強制労働を表現する言葉として記載されている。ユネスコ日本大使が言った通り、「劣悪な環境で本人の意思に反して無理やり働かされた」のならそれは強制労働であり、ほかにどんな言葉が必要だというのだろうか。心を開いて対話しようとしても、日本の薄っぺらな下心がこれを阻む。外交部も日本が「言葉遊び」をする口実を与えないよう、いっそう気を引き締めていかなければならない。


同じ事実に名前をつけることは当事者の価値観によって異なるという良い例。
言語学者の出番ではないと思うけれど・・・どう名付けているんだろう?

コメント (7)
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書評、「プーチン 人間的考察」(4)  文科系

2015年07月08日 01時55分53秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など
(その3) 国、運命、暗雲 ②

③前途多難、「クレムリンの囚人」

 それからのプーチンは、まず大統領2期8年。これをメドベージェフに譲って首相に退いた4年を経て、2012年に第3期目の当選を果たした。大統領任期・再選制限に関わるロシア憲法をメドベージェフ時代にこう換えさせた上での、第3期なのである。「引き続いては2期8年まで」から「引き続いては2期12年まで」と。こうして、今の状況が続くならばプーチン大統領は、2024年まで長引くことになる。
 このことについて著者は「クレムリンの囚人」と銘打って、こう続ける。「城には出口はない、囚人なのである」と。これには、こんな解説が付いていく。

 ロシア政府周辺は利権、汚職だらけ。大統領権力が少しでも緩むならば下克上が始まって、上層部ご一統の明日の運命も分からなくなる。引退したらプーチン自身の運命、命さえが危ういのである。新勢力が旧勢力の汚職を摘発したりして、利権奪取を図るからだ。その「ファミリー」の運命もそういう危険にさらされるようになると、そういうわけである。

ちなみに、プーチン自身が大統領になってから、旧エリツィン勢力周辺にこんな殺人事件さえ起こっている。先ず第一は、ロンドンで起こった有名なリトビネンコ(KGB後身の)中佐殺人事件。
 リトビネンコは、エリツィン治下最強の政商ベレゾフスキーの護衛であった。ベレゾイフスキーはまた、プーチンがエリツィンの後継に密かに決まっていった折りのの最大の功労者でもあった。リトビネンコはその護衛だったのである。
 ベレゾフスキーは、大統領当選1年後から、プーチンによって次第に疎外されていく。身の危険を感じた彼はロンドンに亡命し、そこで起こったその護衛殺人事件であった。なおベレゾフスキー自身は2013年に首つり自殺を遂げているが、不審死の捜査も続けられていたということだ。
 このベレゾフスキーは1997年のフォーブス世界長者番付のロシア第1位であったが、この後を継いだのが有名なアブラモビッチ。20台半ばでベレゾフスキーに取り立てられてエリツィンファミリーでのし上がった人物である。その後、ベレゾフスキーの富をかっさらってプーチン側に寝返ったのは明きらかで、01年には大金持ちとしてフォーブスのロシア第2位にまで台頭した。そして、04年からはロシア第1位、以降ずーっと世界有数の大金持ちとして知られている。ついでながら、サッカーファンの僕にとっては、イングランドはチェルシーを買い取ったオーナーとしてお馴染みの名前だ。

 第二の殺人事件はつい最近のことで、ご記憶の方も多かろう。2015年2月に起こったボリス・ネムツォフ殺人事件である。彼の経歴はこういうものだ。エリツィンの第1副首相にして、プーチンとエリツィン後継候補をファミリー内々で争った1人。後にはプーチンの反対党に属し、「汚職撲滅キャンペーン」最大グループの旗手であった。

 なお、これらの殺人事件について、こんな解説も存在していることは付け加えておこう。プーチン自身が命令しなくとも、部下が気を利かせてやったと。著者はこういう解釈だけをご披露しているが、ぼくは、こんな解釈もあり得ると考える。どこか他国の人々がプーチンをダーティーに見せようとした。証拠をあげていないのだから、このどちらの解釈も成り立つと思うのだが、著者が前者だけを語るのは、僕には不思議に見える。まーとにかく、今のロシアとはそういう国なのである。

 さて、権力を退いたり交代したりすると本人にも周囲にもこんな運命が待っているとしたら、プーチンが大統領を退くなど、普通では周囲が許さない。このことが「クレムリンの囚人」と語られる内容である。プーチンは終身、大統領を辞められないのではないかと。チェチェン人質見殺し事件など、幾多の恨みを買っている身でもあってみれば、なおさらそうだろう。因みに彼は、娘2人の居所を極秘にしている。次女のほうは、日本語、日本史を専攻し、日本にも度々来ているという。

 こうであるからと言って、大統領を続けようとしても、彼の前途は極めて多難。モノカルチャー国に毛の生えた程度にプーチン自身が留めてきたに等しいロシアの原油価格が世界的に急落しつつあるのである。プーチンの当選前年1999年から2008年までは、かの有名なオイルブーム。99年に1バレル17ドルちょっとだったものが、08年には147ドルを超えた。この利益を国民にばらまいたのが、2期までの第一回目プーチン政権。人気が出て当然とも言えたのである。ところが、08年からはこの値下がりが始まり、14年に入ると瞬く間に急落し、その6月には115ドルであったものが12月には60ドルという有様である。
 この原油値下がりが、国家収入に及ぼす影響は甚大かつ死活的なものである。ロシアの国家予算は石油1バレル100ドルで組んであるからということだ。これが60ドルに下がったら、ロシア国家、国民の福祉などは一体どうなることだろう。

 こうして、先にも述べた余剰利益・分配体制のロシア社会とあっては、石油利益が下がっては国民に良い思いをさせらるわけはない。そこで始まったのがこれ。イデオロギーとしての保守主義の大宣伝であると言う。
 「ロシアの歴史と伝統」、その精神的生活の強調であった。どこかの国の誰かさんや、どこの国の右翼諸氏にも見られる、ワンパターンが始まったというわけだ。
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「よたよたランナーの手記」(125) 「名古屋シティに出ようよ!」   文科系

2015年07月08日 01時46分28秒 | スポーツ
 6日、7日とジムで走った。
 6日は約75分やって、初め30分×2はすべて7~8キロ時の低スピードLSDで、最後15分は10.5キロ時で通した。合計10キロ超。今日の感触で分かったのだが、10.5キロ時で30分は走れるな。ということは、大抵の10キロマラソンには途中の足切りに全く引っかからないということになる。

 そんな折、昔の仲間で今年定年になったS君とまた連絡を取り合った。ここにも2回ほど書いた事がある、この4月で60歳定年を迎えたロードレーサーとラン両方のお仲間だったお人だ。彼の話によると、今はちょっと膝が痛むが出来るトレーニングはしていて、今年11月の名古屋シティーマラソン10キロの部を目指したいから一緒にどうかということだった。彼に誘われたら、出ないわけにはいかない。とすると、心房細動が酷くなる前、07年の西春マラソン(54分18秒)以来の公式戦出場になる。明日への楽しみが一つ増えたなー!

 7日は、30分×2をやはりLSDで、さらにもう30分を速度を上げて合計13キロ走った。随分久しぶりの1時間半、それも前日の75分で10キロと2日連続の長い距離で、年寄りの冷や水である。でも、ほとんど事後の疲れはない。丈夫になったものだ。こうして、10キロマラソンに向かうべく距離は大丈夫だから、後はスピードだけだ。さらに、距離がこれだけやれるなら、やがてスピードはもうちょっと出せるようになるだろう。ちょっと脚筋を鍛えねばならないが。

 今日のジムでもまた、こんなことがあった。走り始めたころからのジム仲間に随分久しぶりに会って併走していて、「まだこれだけ走れるんですねー」と言われた。59歳にして初めてランニング入門を果たした僕としては、実に悪くない気分だった。帰りに体重計に乗ってみたら、体脂肪が初めて10%台になっていた。最近はずっと11~12%台をうろついていたのだが。

 体の中で酸素を最も食う脳に酸素が行き届いているおかげなのか、本も読めてブログも書けるし、近くこのブログで知り合ったカジュさんにギター演奏を披露する予定もある。残り少ない僕の人生、このうちのどれがどれだけ続けられるかももう心許ない年齢にはなったけど、すべて頑張ってきた甲斐があったとまた思えるこの頃だ。
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