九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

新聞の片隅に載ったニュースから(206)    大西五郎

2015年07月27日 19時33分54秒 | 国際政治・経済・社会問題(国連を含む)
心からの反省が友好の礎 市民有志が「宣言」首相に提出へ(15.7.27 朝日新聞)

「加害の歴史に向き合う勇気を」。愛知県内で平和運動を続けてきた市民有志が「戦後70年市民宣言」をまとめた。安倍晋三首相の談話を前に、30日、全国の市民団体と連携して首相に提出する。
宣言を作ったのは「戦後70年市民宣言・あいち」。戦没者遺族や被爆者、戦後補償裁判に携わってきた弁護士など44人が呼びかけ人となり、4月から議論を重ねてきた。賛同者は千人を超えた。
「正しい歴史認識に基いた心からの反省、謝罪、賠償が和解と友好の礎」と宣言。安倍首相への緊急要請として、植民地支配と侵略を認めて「痛切な反省」と「心からのおわび」を表明した村山談話を継承するよう求めている。
共同代表の元立教大学特任教授、池住義憲さん(71)は、歴史認識について自らの言葉で語ろうとしない安倍首相の姿勢への「危機感に動かされた」という。「率直に謝罪できない政権が、違憲の指摘がある安保法制に突き進む状況に恐怖を覚えた」
池住さんは、村山談話が出た20年前にも市民による声明に関わった。その時の原動力も危機感だった。1995年6月、衆院で採決された「戦後50年国会決議」は侵略や反省の表現があいまいだった。
「戦後の節目をこんな形で終わらせたくない」。全国の仲間に呼び掛け、侵略を認め、謝罪することを政府に求める声明をまとめ、8月1日、首相官邸に届けた。対応した五十嵐公三官房長官が「限界はあるが、要望は尊重したい」と応じたのを覚えている。
「村山談話にアジアとの和解の可能性を実感し、勇気づけられた。どうしてまた、私たちが宣言を出さなければならなくなったのか。歴史を前に進めたい」
30日、北海道から広島まで同じ問題意識で宣言を出す7団体と共同で首相に提出する。20年前と同じように、官邸への訪問を求めている。

宣言の全文は「市民宣言・あいち」のホームページ(http;//70senngenn.iinna.net)に掲載している。

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市民宣言あいちは村山談話を継承することを求めていますが、安倍首相は戦後70年の総理大臣談話で村山談話の「植民地支配と侵略に痛切な反省とお詫び」を引き継ぐのかどうか明らかにしていません。「戦争の反省」は口にしますが、侵略戦争を行ったことの反省なのか、戦争の仕方が拙くて敗戦に至ったことを反省しているのかわかりません。
そこで市民宣言をまとめた人たちは宣言に付帯して、加害の歴史を正しく認識することや、アジア・太平洋戦争が侵略戦争であったと表明すること。軍事力によらない近隣諸国との友好関係を築く努力をすることなどを安倍首相に緊急要請もしています。そしてホームページを通じて市民宣言と安倍首相への緊急要請への賛同者を募っています。                                               大西 五郎
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国政を世界(史)の中で観る   文科系

2015年07月27日 19時22分27秒 | 国際政治・経済・社会問題(国連を含む)
 以下は、1970さんとの最新論争の連続した拙コメント群である。表題の事を二人の違いとして最も強く感じたから、再掲する事にした。
 グローバル政治・経済下では、日本のどんな小さな事も世界との関係なしにはもう語れなくなっている。G7がG20になって、そのG20も中国のAIIBが密かに分裂工作を実現したように。が、日本の為政者はずっとアメリカの世界観と国策、それも今ではアメリカ共和党のそれらで動かされてきただけだと痛感する。このブログを始めて十年、表題の事はこの十年間あれこれ学んだ末の最も大切な視点だと考えてきた。
 日本は長く、世界第2位の経済大国であり続け、今でも3位の大国。もっともっと国際的な責任も、貢献も果たせるはずだ。今新たに激動している世界の中では特に。日本の貢献によって、世界の未来到来の早い遅いが決まるかというほどに。


『  一言 (文科系)2015-07-26 10:39:03
 反論というのじゃないけど、70さんの最後のコメントに一言。
『(イギリスが)経済、軍事共にアメリカとは兄弟分』
 これって、昔はともかく、今はちょっと変わってきた気もしますが。AIIBで西欧総崩れの戦犯、原因になって、アメリカはカンカンのはずだ。マネーゲーム世界の最先端を連んで踏み出した90年頃とか、ブレアがイラク戦争賛成に回った時とかは、本当に驚きましたけどね。

 イギリスのAIIB加入決定でも、英国外務省は猛烈反対しました。ここの外務省も、日本と同じようにアメリカに完全懐柔されているのでしょう。でも、財務省が外務省に激しく抗論して、最後は首相が財務相に軍配をあげたとか。
 日本でも、こういうことが起こらないかなー? 親米外務省に親中国財務省とか。中米と等距離外交の方が、余程中国を制止できて世界が平和になり、経済的にも良いはずだ。また、日本の技術提供で地球環境にもよくなる。


追加 (文科系)2015-07-26 11:31:11
 世界2,3番目の経済大国が、加えて隣同士にいる。しかも、中国のここまでの発展には日本企業の貢献も大きかったはずだ。それがせめて米国と等距離外交になれば、経済協力などももっと進む。観光客流入も含めて、TPPや安保法制でアメリカの世界犯罪共犯者になる道よりも、日本経済にもどれほどよいことか。
 そして、このことは何よりも次の「副産物」を産む。リーマンショック大恐慌によって米銀行全てが世界の銀行ベスト10から外れたなど経済大国を滑り落ちる事確実で焦って乱暴狼藉をなし、じたばたしている米国を多少なりとも大人しくできるだろうと。

 思えば、小沢一郎が民主党政権の幹事長だった時、いかに先見の明があったか。中国に大代表団を送り、当時の習副主席と天皇との会見を成功させている。同じく思えばこの時のこの会見には、猛烈な抵抗があったな。当時の宮内庁(ハゲタ?)長官がこの会見に最後まで抵抗したのだった。マスコミにリーク情報を流して。この動きと、その後の小沢追い落としとには、同じような力が働いたのも明白。こういう陰謀の背後にはいつも、アメリカが居ることも含めて。


長い歴史の中で観る (文科系)2015-07-27 15:28:49
 長い人類史の中で、戦争違法化の国際法はやっと、20世紀になって始まったばかりだ。第一次世界大戦という総力戦の悲劇を体験した人類が、「せめて世界戦争だけはもう止めよう」という話になって、国際組織(国際連盟)を初めて創ってのことだった。ちなみに、この時に世界平和に向けて主導権を発揮したアメリカの今の体たらくはなんということだろう。当時の米国大統領ウィルソンは、草葉の陰でさぞ泣いていることだろうな。
 それで世界大戦こそ70年間無くなって、かの世界冷戦体制も乗り越えたが、超大国の横暴、アフリカの戦争などは、内乱工作も含めればむしろ増えている勢いだ。

 グローバル世界に呼応すべき国連常設警察軍というのは、こういう視野で観なければならないはずだ。旧超大国アメリカは当面飛び抜けたその暴力の発動と戦争政策を経済的にも止められそうもないのだし。せめて20~30年単位の問題とは観るべきだ。
 もっともそのころは、今のマネーゲームに新境地が開けないならば、あるいは第3次世界大戦のようなものでも起こさないならば、アメリカは大軍事疲弊もあってかなり没落しているはずだ。いくら移民(の頭脳など)を入れても、あの超格差社会では国が持つはずがない。

 もっとも戦後20世紀初めからあるとも言える世界冷戦体制が終わってからは、まだ25年しか経っていない。その意味では今は、既成社会主義社会が失敗に終わってから次の時代への過渡期の狭間の時代とも言えるだろう。つまり、何が出てくるかまだまだ分からないが、従来思考で測れない事だけは確かだろう。


観てましょう (文科系)2015-07-27 16:10:41
 70さん、「従来思考で測れない時代」も「従来思考を下敷きにして」も、実質変わりはないことをすることになる。前者も後者も、現実を踏まえての事だろうし、また、それぞれが世界の根本欠陥と見る所に目を付ける事も同じだろう。
 問題はこの後者、世界の課題として目をどこに付けるかの違いにあるだけだ。僕は、アメリカの世界的横暴にまず目を付け、これへの3番目の大国日本の従属に次いで目を付ける。なんせ、大国で最も国連を無視してきたのが20世紀中以降のアメリカなのだから。

 このブログが始まってもう10年。あと10年したら、アメリカの没落ももっと見えてくる。その時にBRICSが今のアメリカを反面教師にして国連に従っていくかどうかも見えてくる。スプラトリーやパラセル諸島問題も含めてね。そういうことでしょ?

 僕はEUには相対的にかなり信頼を置いている。その信頼は、以下の拙エントリーに詳しい。14年4月14日と5月8日とに書いた『書評「アジア力の世紀」』。


さらに一言 (文科系)2015-07-27 18:43:41 さらに一言。
 これからの日本を見る場合には、「世界」を見ながらと、その「歴史」(世界史)を自らの目で見ながらでないと正しい道は何も分からないと思う。その意味では東西南北どこの国にもいる右翼というのはまず問題外だ。なんせ、基本的・原理的に自分の国しか観ていないのだから。

 戦後日本は長い占領下の習慣から引き続いて、常にアメリカ(発の利権)の指示について来ただけ。アメリカに「世界史」を観て貰って、その指示に従ってきただけ。つまり、独創性は何もなかった。だが、世界2位、やがて3位の経済大国になった時には、もっともっと発言権も、良い意味での世界貢献責任も生じたはずだ。そこにこそ日本の若者の未来への真の夢も産まれるというように。ところが、長くアメリカ利権にどっぷりと浸かった官僚・自民党周辺は何の世界貢献も果たさずに過ごしてきたのだと思う。だからこそ、ちょっと「独創性」に傾くと、角栄、小沢のように暴力でアメリカに排斥されるか、アベ路線のようなトロイことになった。アメリカの陰の力のゆえなのだろうが短期政権ばかりの中で、ちょっと長く続いたアベなどは時代錯誤の馬脚が現れすぎて、あっという間に沈没という所。

 EU、BRICS、中国。これらとも独自の独創的方針で付き合っていく必要が生じているはずだ。その重大な証拠の一つが、ここで僕が再三書いてきた「谷内正太郎発言」なのだと思う。人として、あんな不細工な発言もちょっと珍しいという、そういうことを証明したつもりだ。あれが、アベ政権の目玉政策の安保局長!!』


 こういう全ての意味でも、らくせきさんが韓国誌、中国誌をここに紹介して下さるというのは、このブログの最大長所の一つ。やはり、ただ日本の政治を観るのではなく、これからも日「中」との関係だけでなく「世界史の中の日本」を見ていこうと愚考している。
 なお、上の最後二つのコメントは、このエントリーに再掲してから、コメント欄掲載自身の方は消去した。少しでも他の人のコメントが画面に残るように。
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僕が政治論以外も書くわけ   文科系

2015年07月27日 13時03分20秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など
このブログは、この秋で発足十年になる。発足時に、古くからの友人である管理人さんに「参加してくれ」と頼まれて、僕が提案して飲んでもらった条件があった。それが、このブログの表題をこう謳った理由である。『九条バトル !!(憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)』。これが、ここがこれだけ続き、ささやかだが成功してきたやの原因になったと、僕は観ている。この25日までの週累計でも、アクセス1,023人、閲覧数12,821人となっているが、こんな長い文章を1人10面も読んでいただけるというのが、ここの最大の特長だと言えるだろう。単なる政治ブログは普通の人には面白いはずもないのだし、そんなものだけを毎日書けるというのも僕にはちょっと変人とも思える。政治に文化の仮面を被せても事は同じだろう。
 さて、僕は「こういう立ち位置」を説明すべく、時々以下のような文章をここに載せてきた。改めて「こういう哲学」を再掲させていただくので、お読み願えれば幸いである。


『 改めて「僕が政治論以外も書くわけ」  文科系 2012年01月15日 | 文化一般

 表記のことを、改めてまとめてみたい。随筆、サッカー評論などなど一見関係ないようなことを僕はなぜここに書いてきたか。ここが始まった6年前からしばらくはかなり気にしていたことだが、最近はあまりこれを書いたことがなかったと思いついて。

 僕がまだ若い頃から、こんなことが当時の大学で当たり前であった左翼の世界の常識のように広く語られていた。「外では『民主的な夫』、家での実質は関白亭主。そんなのがごろごろ」。そういう男たちの政治論に接する機会があると、正直どこか斜めに構えてこれを聞いていたものだ。どんな偉い左翼人士に対しても。レーニンの著作にたびたび出てくるこういった内容の言葉も、そんなわけでなぜか身に染みて受け取れたものだった。
「どんな有力な反動政治家の気の利いた名演説や、そういう反動政治方針よりも、恐るべきものは人々の生活習慣である」
 こういう僕の身についた感覚から僕の左翼隣人、いや人間一般を観る目も、いつしかこうなっていた。その人の言葉を聞いていてもそれをそのままには信じず、実は、言葉をも参考にしつつその人の実生活がどうかといつも観察していた。誤解されては困るが、これは人間不信というのではなくって、自分をも含んだ以下のような人間認識と言ってよい。人は一般に自分自身を知っているわけではなくって、自分の行為と言葉が知らずに自分にとって重大な矛盾をはらんでいることなどはいっぱいあるものだ、と。こういう人間観は実は、哲学をちょっとでもまじめに学んだことがある者の宿命でもあろう。哲学史では、自覚が最も難しくって大切なことだと語ってきたのだから。ソクラテスの「汝自身を知れ」、近代以降でもデカルトの「私は、思う(疑う)。そういう私も含めてすべてを疑う私こそ、まず第一に存在すると言えるものだ」などは、みなこれと同じことを述べているものだ。

 さて、だとしたら政治論だけやっていても何か広く本質的なことを語っているなんてことはないだろう。そんなのはリアリティーに欠けるからナンセンスということもあるし、「非現実的話」「非現実的世界」もはなはだしいことさえもあるわけである。それでこうなる。生活も語ってほしい。その人の最も生活らしい生活と言える、好きなこと、文化活動なんかも知りたい。どういう人がその論を語っているかということもなければ、説得力不十分なのではないか、などなどと。もちろん、何を書いてもそれが文章である限りは嘘も書けるのだけれど、その人の実際や自覚のにおいのしない政治論だけの話よりはまだはるかにましだろうし、随筆なんかでもリアリティーのない文章は結構馬脚が顕れているものだと、などなど、そういうことである。
 やがて、こんな風にも考えるようになった。幸せな活動が自分自身に実質希薄な人が人を幸せにするなんて?とか、人の困難を除くことだけが幸せと語っているに等しい人の言葉なんて?とか。そういう人を見ると今の僕は、まずこう言いたくなる。人の困難を除くよりもまず、自分、人生にはこれだけ楽しいことがあると子孫に実際に示して見せてみろよ、と。人生が生きるに値すると自ら示せなくって、どんな政治が語れるというのか、と。

 なお、以上は政治論だけをやっているのだと、人生の一断面の話だけしているという自覚がある誠実な論じ方ならばそれはそれでよく、五月蠅いことは言わない。だが、当時の左翼政治論壇では、こんなことさえ語られたのである。「歴史進歩の方向に沿って進むのが、人間のあるべき道である」と。つまり、政治と哲学が結びついていたのだ。それどころか、戦前から政治が文学や哲学や政治学、そういう学者たちの上位に君臨していたと言える現象のなんと多かったことか。
 そんなわけで僕は、当時では当たり前であった大学学生自治会には近づいたことがなかった。そして、左翼になってからもこの「政治優位哲学」には常に距離を置いていたものだった。これはなぜか僕の宿痾のようなものになっていた。かと言って、文化を重視しているかに見えたいわゆる新左翼には、僕は近づいた事はない。

 なお、こういう「公的な場所」に「私的な文章」を載せるなんて?という感覚も日本には非常に多いはずだ。こういう「公私の峻別」がまた、日本の公的なもののリアリティーをなくしてはいなかったか。公的発言に私的な事を入れると、まるで何か邪な意図があるに違いないとでも言うような。逆に日本ではもっともっとこんな事が必要なのだろう。政治をもっと私的な事に引きつけて、随筆風に語ること。正真正銘の公私混同はいけないが、私の実際に裏付けられないような公(の言葉)は日本という国においてはそのままでは、こういったものと同等扱いされることも多いはずだ。自分の子供をエリートにするためだけに高給をもらっているに等しい文科省官僚の公的発言、「貴男が男女平等を語っているの?」と連れ合いに冷笑される亭主。

 ややこしい内容を、舌足らずに書いたなと、自分でも隔靴掻痒。最近のここをお読み頂いている皆様にはどうか、意のある所をお酌み取り頂きたい。なお僕の文章はブログも同人誌随筆も、ほぼすべて連れ合いや同居に等しい娘にもしょっちゅう読んでもらっている。例えば、ハーちゃん随筆などは、彼らとの対話、共同生活の場所にもなっている。』
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