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随筆   趣味 or 「楽しみ」  文科系

2016年05月25日 12時40分40秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など

  現代日本という国は、庶民の人生の「楽しみ」、文化活動の上で多くの大きな拙さがあると思う。現代日本文化を遡れば、明治と敗戦という二度の文化断絶があったなど不幸な問題も出てくるのだが、例えば、先日お婿さんとこんな会話があった。あれやこれや行ったり来たりの質疑応答を最も簡潔に押し詰めて語れば、生活必要(活動)と文化(活動)というこんな所になるだろう。
婿「お母さんはよく分かるが、お父さんという人は分かりにくい。短く言えばどういう人ですか?」
僕「君が『実行力』を重視するから、それを重んじて話すと、お母さんはこういう人だよね。衣食住に対人関係など生活に必要なことを、短時間で最も上手く片付ける実行力、能力が凄い人、しかも約束はきちんと守って義理堅い。あの苦労した生まれではなかなか入れないような良い大学を出て、普通の男よりも良い給料をもらう共働きも見事にやりおおせた人だしね。」
婿「それはとてもよく分かりますが、お父さんは・・・」
僕「僕が、この年の男にしては家事育児などが相当できることは君も分かるよね。ただ、その実行力では到底母さんには及ばない。が実は、母さんとは違う、母さんにはない或る実行力を持っていると言いたいんだよね。この年で1時間10キロ走れるランニング、一応上級者のギター、同人誌編集長などは、実行力がないとできないでしょ。」
婿「そういうことで言うと、僕はどうなるんです?」
僕「母さん的な力は40の頃の僕よりも男の割にずっと上だよ。ただ、僕的な文化はない。美味しいものがよく分かること、他人を大事にし一緒に楽しみ合うのが大好きなことなどは君の(文化的な)素晴らしい力だと思うけどね。」
婿「すると、僕(の文化活動)もまだまだ間に合いますよね。老後をどう暮らすかということのようだから・・・。」

 さて、本論の文化活動である。日本の文化(活動)は程度が低いと思う。そもそも文化と考えられず、趣味と語って、「仕事」以外は全部「遊び」という発想があるようだ。だから、仕事以外に人生に求めるものの楽しさの程度が低くなっていることを強調したい。まず、本当に楽しい文化って老後の問題と考えたらもう遅いはずなのである。さらに、その楽しさの深浅に関わっては、先ず何よりもこのことがある。マスコミなど文化商売、文化鑑賞に偏っていて、主体的クリエイティブさがない。それに関連してなのだが、こんな程度の文化理解が普通になってしまった。楽しむではなく、実は「楽しまされている」だけ。「自分が楽しければよいでしょ」というのは文化創造の客観性という視点を欠いた低い喜びだとも強調したいし、こういう視点ではオタク文化やギャンブル(文化?)との区別さえもつかないはずなのである。オタクもギャンブルも一面、面白さは凄いはずだから。
 とここまで来たこの先は、かなり体系的かつ総合的思考が必要な難しいことになるから、僕のギターの楽しみ方を例にとって、一つの問題提起として、あるコメントを転載させて頂く。もちろんこの続きはいつか何度も書いていくだろうとも予告させて頂いた上で。

 「音楽」する楽しさについて   2016-05-22 20:55:46 

 ギターでも、ピアノ、バイオリンでも、演奏する楽しさについて一言言いたい事がある。「技術派」と「音楽派」とがあるように思う。
 和音が弾けるような、つまり、旋律を和音で飾りながら弾けるようなピアノ、ギターなど技術的に難しい楽器については、特にこの二派に分かれるのではないかと見てきた。例えばこんなふうに。
①教則本や曲集だけをどんどん上げていくタイプの人は、技術派になりやすいのではないか。急にいざ人前で弾けと言われると、案外弾ける曲がないというような。子どものころから習ってきた人には、案外こういうタイプが多いように思う。
②対する僕は技術は下手くそな「音楽派」なのだが、①の人々と音楽をする楽しさがちょっと違うように見てきたものだ。僕はこんな風に楽しんでいるということで、これを説明してみたい。

 僕の暗譜群25曲は、古いのは習い始めの13年前から、新しい曲でも3年ほど前からずっと弾いてきたもの。それぞれを暗譜群に載せてから、月に最低3周りほどは弾いてきたものばかりだ。その時に僕はこんなことをやってきた。ここの伴奏をこう弾き変えてみようとか、ここの旋律、ここの1音はもっと盛り上げて、もう少し繊細なタッチにしてみようとか。その日の気分に合わせて、気付いたことを色々にやってみるのだが、その中にいつも発見、楽しさがあるのだ。楽譜を見ながら弾く度合いが少なくって、弾きながら曲を聴く度合いが多いから、気付くことも多いのかも知れない。その気付くことを、あれこれ弾き直してみる、試みてみることも大変多くなる訳だ。ここに「音楽」の発見があるように思うのである。「我流」であろうと何であろうと。

 以上に付け加えて、もう一言、こんなことも言いたい。
 ギター演奏の世界ではこういうことが言われているのを聞いたことがある。
「作曲者がこう創ったのだから、こう弾くべき」 この言葉を僕が最初にあるコンクールの選評としてプロ大家の口から聞いた時は、ちょっと驚いた覚えがある。別に習ってきた文学では、こんな常識的格言が存在するからである。
『文学作品は、作者(の意図がどうあれそれ)とは別に、客観的に作者から独立したものとして、読むべきである』

 言葉の芸術と音の芸術とは、違うかも知れない。が、言葉の芸術の方が遙かに客観的意味が分かりやすい。それでも(それだからこそ?)、上のような格言があるならば、音楽ではなおさらのはずだと、そういうことだろう。
 時代が変われば感性、解釈がより広く、新しく、質も変わるのは当然のこと。文学でも音楽でも、有名でもなかった作品が急に脚光を浴び始めることがあるというのはそういうことだろう。

 ただとにかく、技術的に弾いている部分が多い人は、こういう世界からはちょっと遠いと言いたいのである。

 これはまた、時代柄よく言われるような「本人が満足していればよいだろう」という話ともちょっと違う積もりだ。一応客観的中身を持った美の追究、その楽しみということになることのはずである。 

コメント (5)
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