九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

小説  母の『音楽』(前編)   文科系

2017年05月27日 04時21分23秒 | 文芸作品
 ギターレッスンに苦心惨憺のある日、ふっと気付いた。
〈左手指がここで、他の箇所に比べて、どういうか、なんか、ばたばたしている。この小指が上がりすぎ、時に伸び切るようになるのは、どうしたことか?この癖から全体が遅くなるらしい。反復練習にはもう慣れてるが、これを直さんとどうしようもないぞ〉
 二月から七ヶ月も、毎日のように弾き続けている曲が、どうしてもできあがっていかない。南米のギター弾き・バリオスの「大聖堂」、その第三楽章。ここの速さが、ことのほか骨なのである。「もう限界なのかなー」、定年後に先生なる者につき始めて七年足らずの老いの身には、そんなことも頭をよぎる。六連十六分音符が三頁連なるこの楽章をせめて六十の速さにしたいのだけれど、四十五が限界。あれこれ観察し、試行錯誤しているうちに、やっと分かってきたことだった。
 ある一カ所が特に、何度弾いても上手くいかない。六連十六分音符がたった二つ並んだだけの一小節なのに。周囲と比べてちっとも難しそうにも見えず、なんの変哲もない箇所だ。そんな所を、何日かは意を決して五十回繰り返してみたりして、もう千回以上は優にやったろうというようなある日に、やっと気付いたのだ。
 さて、恥ずかしいことだがここまで来て、習い初めのころ先生に言われたことを思い出した。
「左手指は、一本ずつが他から分離して動くようにならなければいけません」
 左手小指が薬指に連動するらしい。薬指を指板から上げるときに特に、小指がぴくっと大きく跳ね上がる。よって、薬指の後に小指で押さえねばならない時などに、どうしても演奏が一瞬遅れる。この癖が原因で指のすべてが固くなっている。今までの曲ではなんとかこれをごまかせたが、今回の速すぎる箇所ではとうとうぼろが出たと、そういうことだろう。
 だけどこの曲、七ヶ月でこんな出来。人前で弾ける程度に完成するのだろうか。舞台で弾くことはもうないのだが、その程度にはしたい。去年からホームコンサートのようなもの以外は出ないと決めて、それまでやっていた舞台を全てパスしてきた。それでもこれだけ熱中できるのだ。それは、九十三歳で死んだ母の身近にいて、種々多くのことを教えられたからだと、いま振り返ることができる。父の最晩年を夫婦二組で同居し、次に父が亡くなった後は三人で過ごし、母の脳内出血以降はその介護の五年間を通して。

 職業婦人の走りであった明治生まれの母は、退職後に三味線を再開して二十年近く続けたが、七十八歳できれいさっぱり、すべてを投げ出してしまった。それまで出ていた教室の発表会に出なくなっただけではない。同時に「キネヤなんとか」さんの教室そのものも止めてしまった。それどころか、それからは弾いているのを見たこともない。死後に彼女の日記を見て改めて知ったのだが、このあと一度でも、三味線を弾いたことさえないはずだ。 母はそのころ、同い年の父の心臓病につきあって、疲れ切っていた。七十三歳を最初に、八十二歳で亡くなるまで、脳梗塞、心筋梗塞を都合四回も起こした父なのだ。彼の晩年二年間は次男である僕らが同居したのだが、「同居が遅すぎた」と何度後悔したことだったか。

 同一敷地内に新築の家を廊下で繋げたという「同居」二ヶ月ほどの初夏のことだ。珍しく明るいうちに帰って二階ベランダの窓際から庭に目をやると、ブロック塀の一角に母が見える。「水をまいている」と思ったのだが、どうも違うようだ。両手で持っているのがバケツでも、ジョーロでもない。父が愛用していた高価な徳利ではないか。〈父さんに怒鳴られるよ!〉、一瞬そう思ったが、今の父にはもうそんな気力も関心もないとすぐに思い直した。そういう徳利からお猪口ならぬ地面に注いでいるのは、水なのか酒なのか。間もなくとことこと歩き出して、僕に近い南東の角に来た。そして、僕のお気に入りのガクアジサイの近くで、同じようなことをやっている。そして、夕食時。その日父は確か、入院していて家にいなかったはずだ。
「さっき、庭で何やってたの?」
そのころ何となく黙りがちな日々が多かった母だが、一瞬僕の目を見てからちょっと顔を伏せたあと、ことさらにさらりとした感じで、応えた。 
「うん。庭の四隅にお酒を上げてたの。まー御神酒ということ。ここの家を建てたとき、地鎮祭をしてなかったのを思い出してね」
「ふーん。かーさんが縁起かつぐなんて、珍しいね。何か悪いことでもあったの?」
「うん、ちょっとね」
 そう、僕らが同居するまでの母は悪いことづくめだった。父の看病や、病院がよい。三味線は一年ほど前に止めていたし、大好きな友人たちとの旅行などもしなくなっていた。昔風賢夫人は、こういうときには物見遊山などは控えるものらしい。そんなこんなの鬱屈からなのか、物忘れも酷くなっていた。家のヤカンや鍋などを焦がしてしまい、庭に捨てられたものがいくつかあったし、当時使用中でも、地金の色を表している物がほとんど無かった。
 さらに、僕らとの同居によってもまた、別の「悪いこと」が生まれていたようだ。
 僕の脳裏に死後も含めてだんだん形作られていった母の心境を簡単に言えば、こういうことになろうか。まず、病気の、気むずかしい父を一人で抱え、自らの八十の老いを向こうに回して歯を食いしばって暮らしてきた。次いで、僕らと同居してからの心境は、こう。壮年期にある僕らの「若さ」に打ちのめされ始めたらしい。なんせ、自慢のようなことは口にしなかったが、子どもの僕とも競争したいような人。「私のどこが八十に見えるね。言ってごらんなさいよ!」。なにか僕が注意したときにこんな返答さえ返したこともあった。そんな心境も含めてすべてが、今にして痛いほど分かるような気がするのである。思い出すと胸が痛いとは、こういうことだろう。

 この年の十月、母は、僕の勧めによって心療内科の先生の所へ通い始めた。病名は、老化による軽症ウツ病。
 少し遅れて八十六歳の母が書いた「人生報告」とも言うべき文集に、こんな下りがある。東京女子高等師範学校同窓会の愛知支部発行「桜蔭(同窓会名です)」に収められた文章だが、二番目の古参生としてそこに書いた六枚ほどの原稿の一部だ。
【その後夫脳梗塞となり、左脚不自由に。つづいて心筋梗塞その他色々の老人病を併発し、十数回に及ぶ入退院をくりかえし、平成四年四月二十七日に亡くなりました。看病など何かと心身を使い果たしている間に、私も老人性鬱病という厄介な病名をつけられていました。好きな長唄・三味線も稽古不足のため中止し、日々無為の苦しい数年間を過ごしたものです。同居している次男夫婦も共働きですので、昼間は相変わらずの一人暮らしですが、二人が帰宅し、共にする夕食は楽しく、孤独を忘れることの出来るひとときです】
 僕もこの夕食は楽しかった。母も必ず二品ほど作ってくるので、連れ合いと二人競いあうようにして食卓にのせたものを三人で批評し合うといった夕食。僕の帰りが遅すぎて週に何回も持てなかったが、心が温かくなる思い出である。
さて、この頃はまだ、母の人生で三味線が持った意味を、僕はこんな程度に捉えていただけだった。
 最初に浮かび上がって来る映像はまず、こんなものである。三味線の発表会に出ていたときの、背中を丸めて大きなザブトンに小さく座った母の姿だった。
〈あれほど練習して、回りの人に四苦八苦でなんとかついていく。「生きなきゃー」って感じだなー。それにしてもそろそろ八十だ。いくつになっても「鑑賞」じゃ済まなくて、自分で「表現」して進歩を確かめていきたいという人なんだなー〉。
 また、このしばらく後には、
〈母さんのは「可愛さ余って、老いへの憎さ百倍」。三味線全てを放り出してしまったのは、舞台に出られなくなったショックからだ。随分苦しんだんだけど、俺の同居がもうちょっと早ければ辞めさせなかったのになー〉

(続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

随筆紹介  「言葉、ことば」    文科系

2017年05月27日 03時30分49秒 | 文芸作品
 言葉。ことば  H・Tさんの作品です


「なにいっ! いつもの通りしたんだ。何が悪いっ!」
 大声の怒鳴り声に私は足を止めた。
「ちゃんと分かるように、説明しろ。馬鹿にしゃがって!」
 地下鉄の改札口で、大声を上げている男の人。
 名古屋市は六十三歳から、収入の差によって納入金が異なるが敬老パスが発行されて、地下鉄と市バスにはそれで乗ることができるようになっている。それが、二十六年九月一日からICカードに変更。今までのように改札口で出し入れする手間が省けて、便利になった。それまでに市の交通局から使用法変更の説明も送られてきたし、区役所へ取りに行った時も、使い方の説明があった。私は便利になったと喜んだものだ。 

 どなりつけられながら、係の人は、
「券の使用方法が変わりました。文書も届いたと思いますし、ここにも書いてあります」
 動かなくなった改札機を前にして言っている。
「俺は見とらんし、聞いておらん」
 声は大きくなるばかり。
「ここにも、タッチして下さいと書いてあります」。
 近くの張り紙を指して言っている。
「タッチ! タッチって何だ! 日本語で書け。ここは日本だ」。
 声はますます大きく、どなり続けている。隣の改札口ではみんなタッチして通り過ぎて行き、誰も立ち止まらない。
 私は“タッチ”は日本語で何と言えばと、足を止めたまま。駅の中からもうひとりがペンチなどの入った道具箱を持って来て、改札機をひっくり返して、修理を始めた。男の人は出てきた敬老パスを受け取り、「日本語でちゃんと書いておけ」と言いながら、ホームへ足早に去った。

 私は、言語音痴というか、日本語でしか話せない、書けない、昭和一桁人間。でも、国語の豊かさ、季節のことばの美しさに、日本語はすばらしい言葉と思っている。「タッチ」は日本語で何と言うのだろう。分からない。

 この頃日本語についていろいろ書かれている。“日本語の乱れ”、“乱れではない、言葉は時代によって変化する”。テレビを観ていても、ラジオでも、新聞でも、小説の中にでも、話し言葉にも、理解できない言葉が多くなった。前後の関係で分かったつもり、理解した思いで過ごしてしまうが、言葉には言霊と言って魂が宿っていると教えられたことも、言葉は日本の大切な文化と学んだこともある私は、戸惑うこと多しだ。
 
 “タッチ”は日本語で……と尋ねると、
「もう、タッチは日本語よ。他の言い方はない」と。
 ある人は“おさわり”と笑って言った。

 ある時ぼんやりテレビを見ていたら、選挙演説の立候補者が、「私が当選したら、この地域の皆さん全部の方が英語が話せるように努力します」と言った。私は「大変だ。日本語はどうなるんだ。日本は。日本語は」と大声を上げた。〈英語は、必要とする人が努力すればいい〉と思っている。日本語を大切にする人に政治を……とまで。

 漢字の読み方は難しい。地獄読みだという人もいる。でも、国語なくして国はないと、私は思う。

 もう何年前になるだろう。私がひとりでタンザニア空港で時間待ちをしていた時、ひとりの男の人が私にまず「日本人か?」と尋ねた。うなづく私に「日本では何語で教育されているのか?」。「日本語です。幼児教育から大学まで日本語です」。「この国ではひとつのことを教えるのに、フランス語、英語、スワヒリ語。そしてまた、それぞれの部族の言葉もで、大変です。日本文化、その豊かさは、それですね。日本語だけとは、羨ましいことです」と、私に分かるようにいろんな言葉で、絵にまで描いて、説明して下さった。そして、「私は学校で化学を教えています」と。
 嬉しかった。そして、日本語のたいせつさをしみじみと思った。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする