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書評「悪と全体主義」(3)  文科系

2020年10月21日 11時00分16秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など

 仲正昌樹氏のこの本は、第1~3章をそれぞれ以下のアーレント著作に呼応して書いている。
『アーレントの「全体主義の起源」は初め三部構成で出版され、後には三巻の本に別れ、それぞれ「反ユダヤ主義」、「帝国主義」、「全体主義」となった』
 そして、アーレントの他の著作「エルサレムのアイヒマン」と「人間の条件」とを紹介したのが、第4章「『凡庸』な悪の正体」と終章「『人間』であるために」。ここの要点を紹介して、この書評の終わりとしたい。

『全体主義支配というのは、陰謀論的プロパガンダによって、人々の「世界」に対する見方を次第に均質化し、それによって「複数性」を衰退させるとともに、秘密警察などの取り締まりと威嚇によって、「活動」のための「間の空間」を消滅させてしまう政治体制だと言えるでしょう。全体主義的な空間では、言葉は、ものの見方を多元化するためではなく、均一化するための媒体になります。オーウェルの「1984年」に出てくる人工言語、ニュースピークはまさにそんな感じですね。余計なこと、つまり体制の世界観に合わないことは考えさせない言葉です。
 そういう「複数性」や「間」がない〝空間〟に生きていると、「法」や「道徳」に対する見方も均質化していく可能性が高いでしょう。近代市民社会あるいは近代国家は、(普遍的道徳に根ざした)「法の支配」を前提に成り立っています。しかし、「法」の本質が何か、「法」の基礎にある道徳法則とは何かについて、人々は多様な意見を持っています。その都度民主主義的手続きに従って決めたこと、法令になったことについては守ってもらわなくてはいけないが、「法」や「道徳」の本質についていくら議論してもいい、というよりも議論してもらわないと困る。そう考えるのが、自由民主主義です。しかし、全体主義の下では、ヒトラーの意思とか共産党の決定が、〝法〟だと決まったら、それ以上、議論することが許されない。それ以外の「法」の在り方について、自分の頭で考えることは許されない。
 アーレントがアイヒマンの「無思想性」と言っているのは、「複数性」が消滅しかかっている空間に生きているがゆえに、「法」や「道徳」など、人間の活動的生活にとって重要なものについて、別の可能性を考えることができなくなっている状態を指すのだと解釈できます。社会の支配的なものの見方と自分のそれが完全に一致している(と思い込んでしまう)時、ヒトは本当の意味で、「考える」ことができなくなります。』 (P207~8)

『アーレントの議論が、というより、「人間」という概念自体が、もともとは知的エリートのためのものでした。英語のhumanity の語源になったラテン語のhumanitas は「市民(人間)として身につけておくべき知的たしなみ」というような意味合いでした。・・・・つまり、「人間性」の中心は、言語や演技を駆使して他者を説得する能力だったわけです』(P212~3)

 とここまで来て、著者・仲正氏は、この書評第一回目に抜粋した「複数性」を紹介していくことになる。
『いかにして「複数性」に耐えるか』。
『お互いの立場、特に自分にとって気に入らない意見を言う人が、どういう基準で発言しているのかを把握するのは、知的にも感情的にもかなり大変です』
『自分と異なる意見を持っている人と本当に接し、説得し合うところからしか「複数性」は生まれません』

 
 この書評の最後として、この問題の難しさを僕なりに説明してみたい。特に、この日本における難しさを。
 「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という言葉がある。この場合の「一人(のために)」の意味は、近代民主主義にとっては基本的人権などから自明なものであろう。が、問題はこの「みんな(のために)」の理解を近代以降の国家が狭く一元化させ、ねじ曲げてきて、その結果として基本的人権などが全部吹っ飛んだ国家社会も出来上がることがあった、とそういうことではないか。そういう「とんでもない悪が、とんでもない凡庸、普通の人から生まれて来る国家社会」に対して、人間活動の「複数性」をアーレントは主張している。全体主義の対概念、それが複数性(国民「活動」の複数性を保障すること)であれば、「優しい独裁国家・日本」(哲学者マルクス・ガブリエルの表現)は、結構難しい国なのだと考え込んでいた。
 長く島国であって、「民族(ナショナリズム慣習)」がいまだに重い意味を持っている国。また、先進国でこれほど死刑が多い国も少ない。死刑とは原理的に国家が行う制度だから、犯罪被害者がではなく国家が、その主人公、国民個人の上にそびえ立つ制度なのだ。こういう日本の死刑制度はむしろ社会主義的と言って良いのだが、恐慌時の倒産銀行救済や、日銀、GPIFぐるみの官製株価やなどの社会主義的政策が普通に進められても来た。日本国家とはこうして、先進国中では全体主義の温床が最も多い国なのではないか。

 ちなみに、当ブログでも再三触れてきた「日本会議がめざすもの」のど真ん中にこういう文言が鎮座している。僕にはこれが、日本的全体主義最大の巣窟のように見えるのだが、どうだろうか。以下のような「同朋感」がない僕のような人間にも、こんな感じ方が強制される世の中が来るのか?
『私たちは、皇室を中心に、同じ歴史、文化、伝統を共有しているという歴史認識こそが、「同じ日本人だ」という同胞感を育み、社会の安定を導き、ひいては国の力を大きくする原動力になると信じています』(『日本会議がめざすもの』から、『1美しい伝統の国柄を明日の日本へ』より)』

コメント (7)
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