九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

随筆紹介  社会の瓦解、実感   文科系

2020年10月28日 16時26分08秒 | 文芸作品

  社会の瓦解、実感   I・Kさんの作品です

 

 今回の国勢調査は、前回の五年前と雰囲気ががらりと変わった。前々回は郵送での回答を加え、前回はネット回答を追加し、サービスの向上を図った。にもかかわらず、今回は未回答が爆発的に急増した。これは単発の一つの現象だろうか。そうではなく、社会の大きな変化の流れの氷山の一角に過ぎないのだろうか。

 国会議員の投票率は八割から四割台に半減し政治から離脱する国民が半数を越えた。既存の政党を支持しない国民も大きく増え六割を越えた。
 この現象は地方にも及び、自治会参加者は減少の一途、老人会の参加者は私の地区は一割を切り、毎年役員の選出でもめている。
 私は町の文化協会の役員をしているが、会員数は大きく減少し、参加部も脱退がたえない。春秋の文化祭の展示会場は閑散とし始めた。
 社会は確実に変化している。高齢化、少子化、格差の拡大、さらに鬱病、特殊学級、非正規社員の激増といった傾向がある。若者はなかなか結婚しないし、離婚率も高くなっている。国の借金も世界一で、脱出策はなく、閉塞感が強い。親戚付き合いも希薄になり、葬儀は家族葬に縮小している。
 そしてコロナが襲った、そんな時期の国勢調査であった。時代を反映し、調査員の応募者は減り、未回答率は爆発的に増え、調査の信頼性は大きく失墜した。
 国民、特に若者は国、組織より個人主義、家族主義が顕著に台頭してきたのだろう。国家、政治への不信、無視があり、距離をとっている。

 社会に厭世感が漂い、倦怠感に溢れ、世をすねる。社会への参加意識が薄れてきた。共同体の集まりが苦手となり、都市のように個々人分散が地方にも浸透し始めた。今後、どんな社会になっていくのか、先が読めない。パソコン、スマホの広まりが情報を拡散し、国家、社会への愛着を喪失させていること、伝統、慣習、既成概念をも破壊している。今後どのように再構築していくのであろうか。

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このブログ方針、僕の所信表明  文科系

2020年10月28日 03時23分37秒 | その他

 2012年1月15日のここに初めてのせた、僕の旧稿を改めてまた転載させていただきます。これはまー、僕がここに携わってきた所信表明みたいなものとて、よろしく。

 

【 改めて、「僕が政治論以外も書くわけ」   文科系

 表記のことを、改めてまとめてみたい。随筆、サッカー評論などなど一見関係ないようなことを僕はなぜここ「9条バトル」に書いてきたか。ここが始まった6年前からしばらくはかなり気にしていたことだが、最近はあまりこれを書いたことがなかったと思いついて。

 僕がまだ若い頃から、こんなことが当時の大学で当たり前であった左翼の世界の常識のように広く語られていた。「外では『民主的な夫』、家での実質は関白亭主。そんなのがごろごろ」。そういう男たちの政治論に接する機会があると、正直どこか斜めに構えてこれを聞いていたものだ。どんな偉い左翼人士に対しても。レーニンの著作にたびたび出てくるこういった内容の言葉も、そんなわけでなぜか身に染みて受け取れたものだった。
「どんな有力な反動政治家の気の利いた名演説や、そういう反動政治方針よりも、恐るべきものは人々の生活習慣である」
 こういう僕の身についた感覚から僕の左翼隣人、いや人間一般を観る目も、いつしかこうなっていた。その人の言葉を聞いていてもそれをそのままには信じず、実は、言葉をも参考にしつつその人の実生活がどうかといつも観察していた。誤解されては困るが、これは人間不信というのではなくって、自分をも含んだ以下のような人間認識と言ってよい。人は一般に自分自身を知っているわけではなくって、自分の行為と言葉が知らずに自分にとって重大な矛盾をはらんでいることなどはいっぱいあるものだ、と。こういう人間観は実は、哲学をちょっとでもまじめに学んだことがある者の宿命でもあろう。哲学史では、自覚が最も難しくって大切なことだと語ってきたのだから。ソクラテスの「汝自身を知れ」、近代以降でもデカルトの「私は、思う(疑う)。そういう私も含めてすべてを疑う私こそ、まず第一に存在すると言えるものだ」などは、みなこれと同じことを述べているものだ。

 さて、だとしたら政治論だけやっていても何か広く本質的なことを語っているなんてことはないだろう。そんなのはリアリティーに欠けて、ナンセンスな政治論ということもあるし、「非現実的話」「非現実的世界」もはなはだしいことさえもあるわけである。それでこうなる。生活も語ってほしい。その人の最も生活らしい生活と言える、好きなこと、文化活動なんかも知りたい。どういう人がその論を語っているかということもなければ、説得力不十分なのではないか、などなどと。もちろん、何を書いてもそれが文章である限りは嘘も書けるのだけれど、その人の実際や自覚のにおいのしない政治論だけの話よりはまだはるかにましだろうし、随筆なんかでもリアリティーのない文章は結構馬脚が顕れているものだと、などなど、そういうことである。
 やがて、こんな風にも考えるようになった。幸せな活動が自分自身に実質希薄な人が人を幸せにするなんて?とか、人の困難を除くことだけが幸せと語っているに等しい人の言葉なんて?とか。そういう人を見ると今の僕は、まずこう言いたくなる。人の困難を除くよりもまず、自分、人生にはこれだけ楽しいこともあると子孫に実際に示して見せてみろよ、と。

 なお、以上は政治論だけをやっているのだと、人生の一断面の話だけしているという自覚がある論じ方ならばそれはそれでよく、五月蠅いことは言わない。だが、当時の左翼政治論壇では、こんなことさえ語られたのである。「歴史進歩の方向に沿って進むのが、人間のあるべき道である」と。つまり、政治と哲学が結びついていたのだ。それどころか、戦前から政治が文学や哲学や政治学、そういう学者たちの上位に君臨していたと言える現象のなんと多かったことか。
 そんなわけで僕は、当時では当たり前であった大学自治会には近づいたことがなかった。そして、左翼になってからもこの「政治優位哲学」には常に距離を置いていたものだった。これはなぜか僕の宿痾のようなものになっていた。

 なお、こういう「公的な場所」に「私的な文章」を載せるなんて?という感覚も日本には非常に多いはずだ。こういう「公私の峻別」がまた、日本の公的なもののリアリティーをなくしてはいなかったか。公的発言に私的な事を入れると、まるで何か邪な意図があるに違いないとでも言うような。逆に日本ではもっともっとこんな事が必要なのだろう。政治をもっと私的な事に引きつけて、随筆風に語ること。正真正銘の公私混同はいけないが、私の実際に裏付けられないような公(の言葉)は日本という国においてはそのままでは、こういったものと同等扱いされることも多いはずだ。自分の子供をエリートにするためだけに高給をもらっているに等しい文科省官僚の公的発言、「貴男が男女平等を語っているの?」と連れ合いに冷笑される亭主。

 ややこしい内容を、舌足らずに書いたなと、自分でも隔靴掻痒。最近のここをお読み頂いている皆様にはどうか、意のある所をお酌み取り頂きたい。なお僕の文章はブログも同人誌随筆も、ほぼすべて連れ合いや同居に等しい娘にもしょっちゅう読んでもらっている。例えば、ハーちゃん随筆などは、彼らとの対話、共同生活の場所にもなっている。】

 

コメント (2)
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