前々回に分かっていて知らされた限りの病状、程度を書いた上で今後の方向についてこう記したが、今回はそのことについて。
『 今後方針の方は、膀胱全摘手術、化学療法、放射線療法ということで、これらは、今回の病院の親病院である名古屋市立大学病院で行われ、13日月曜日がその第1回診断日となった』
昨日13日、名市大病院へ通院。第一回目の診察と検査があった。そこで下された今後の方向は、こういうもの。
「20日2度目の診察、22日から入院2~3週間を予定して、第1回目の抗がん剤治療を行う。以降2回の同治療は、1回目の様子を見て外来になることもあり得るが、その後、膀胱全摘出手術を予定する。癌や転移の現時点の程度は、入院後にお伝えできるはずだ」
さて、こうなると6月下旬の同人誌活動、月例冊子作りとか、ギター教室通いもできなくなる。前者は他の同人に委託しなければならないなど、なかなか後始末が大変だ。
なお、膀胱癌手術に関わる名古屋市立大学の水準は10年ほど前のことだが全国4指に入っていたと、医者である兄から知らされた。扱ってきた手術症例なども多くて、全国的なこれの研修機関にもなってきたようだ。膀胱癌のダヴィンチ手術もそういう水準なのだろうから、僕もおそらくダヴィンチなのだろう。それもこれも知らされるのは20日のことになる。
ところで、5月25日のエントリー『「永遠の無」をめぐって』にも書いたことだが、死が怖いってどういうことだろうと考えている。
・「信仰」ではなく、自然科学的に、死後の魂やあの世などはないとしか考えられない人ならば、夢も見ない永遠の眠りしかないわけであって、それが怖い? つまり、それに入ってしまえば怖いも何もないのであって、それまでが怖いということなのだろう。
・これについて周囲を見渡すと、「とても怖がっている人」「さほどでもない人」の他、「自分から死んでいく人」さえ存在すると分かる。自殺は、言われて来たように「肉体を離れた心の自由」などではなく、その原因として、何か生きていることそのものがとても苦しい状況に決着を付けるもの。破産、後追い自殺、大失恋、心中・・・。
・ところで、「とても怖がっている人」と、「さほどでもない人」との違いは何なのだろうかと、いろいろ周囲を思い巡らしてみる。過去にずっと人一倍わくわくするような喜びが感じられてきたけれど老後やるべきものを持っていない人などに前者が多く、淡々と生きてきた女性などには後者が多いのを観てきた気がする。そして、前者は、後の「さほどでもない人」を同じ人間として「なぜなんだろう?」と考えてみたこともないというのが一般的なその姿のようだ。つまり、後者を無視して「とても怖がるのが必然、本質的なこと」とただ力説して来たような。あるいは「そんな人は、死について考えたことがないのだ」と切り捨てているような。
・それで思うのだが、死への恐怖って、案外心理的なものなのではないか。自分の過去と現在との対比ではいろんな不自由を抱えていく老年期は誰でも大なり小なり不幸なのだろうが、昔が良かった人の老年期はとくにそうなりやすい、と。一例、よくある老人性の鬱病って、そんな人が抱える「死の恐怖」と親類、同類のように思うのである。「いつもワクワク生きてきた昔を前提に、今の自分を寂しく思い、このまま死ぬのかと気づく、その時」、これが死への恐怖の正体なのではないか。と考えればこれは、彼らが考えたこともない自殺願望者と同類の対照的人物ということにならないだろうか。
・とすれば、死への恐怖といっても何か本質的なものではなくって、ちょっとした生き方変更や心の持ちようによっても案外加減できるものではないか。今自分をずっと昔から振り返って観て、そんな気がしている。こう語っている僕は、小学生高学年以降ずっと死を怖がってきた人間である。以降ずっと寝床で「永遠の無」を思うたびに、ガバッと跳ね起きて冷や汗という体験は数え知れぬほどだった。退職後10年ほど経ったころには凄く変わってきたとは、ここに何度か随筆なども含めて書いてきたとおりである。