カウンセリング総論-2004年セスクカウンセリング総論②
2004年5月21日(金)上嶋洋一-カウンセリング概論②資料-児童処遇とカウンセリング-杉本一義『新編養護原理』93~103頁
カウンセリングを学びに来ておられる若いおかあさんがおられた。児童相談所の仕事を手伝っておられるという、そのお母さんがこんなことを言われた。「私、自閉傾向のあるお子さんの所へ通っているんですけれど、ただ黙ってそばにいるだけでお金もらって、泥棒みたいな気がしてくるんです」と。
広い意味での人間援助の実践にかかわりをもつ人に共通するのは、相手の人の幸せに、ほんの少しでもいいから自分が役立てば、という素朴な願いであろう。「泥棒みたいな気がしてくる」という言葉を通して私が感じるのも、そのお母さんの中にあるそうした願いである。何ひとつ役に立っていないのにお金だけもらっている。いわば泥棒みたいな自分-そんな自分を感じているこのお母さんの気持ちの底に、「その子どもさんのために何か役に立ちたいんだ」という素朴な願いを私は感じるのである。この願いがこのお母さんをカウンセリングに結びつけているともいえよう。養護実践とカウンセリングの結びつきも同様のものとはいえないであろうか。つまり養護実践においても、クライエント(相手の人)の役に立つ-そのための一つのアプローチとして、カウンセリングを今一度自分なりに検討してみることは有意味なことといえよう。
1カウンセリングの基礎
今日では数多くのカウンセリング理論が存在し、その一つ一つが日々地道な実践を積み重ねてきている。たとえばハーバー R.A.Haeperなどは現存するカウンセリング理論として36の立場を取り出し解説しているほどである。実際にはそれをはるかに上まわる理論的立場が存在するとみてよかろう。
しかしここで重要なのは、数多くのカウンセリングの立場に触れることもさることながら、それらに共通する因子あるいは条件を明らかにしておくことである。つまり学派を超えて存在する最重要ポイントをきっちり押さえておくということである。この共通因子を明らかにする試みとしてよく引用されるのが、フィードラーF.E.Fielderの研究である。
彼はその研究において、精神分析、アドラー療法および非指示的方法を客観的に比較しようとした。そしてその結論として彼は次のようにいう、「関係は治療であり、治療の良さは治療関係の良さの結果である・・・」と。つまり、治療にとって重要なのは、カウンセラーがカウンセリング場面の中でどんな技法を用いるかということではない。フィードラーによれば、それはさまざまな技法を超えて共通するカウンセラーの態度であり、その態度が創り出すカウンセリング関係の良さなのであった。
この治療にとってきわめて重要な、共通因子としてのカウンセラーの態度およびカウンセリング関係の良さといったものの中味をより明確に記述しようとしたのが、アメリカのカウンセリング心理学者、カール・ロジャーズ C.R.Rogersである。
ロジャーズのカウンセリング理論は、最初「非指示的カウンセリング」と呼ばれ、やがて「来談者中心療法」、そして最近(1974年以降)では、「クライエント(来談者)」や「セラピィ(治療)」といった言葉をも取ってしまって、「人間中心のアプローチ」という名で呼ばれたりしている。
こうした名称の変遷にもかかわらず彼の基本的仮説として保持され続けているのに、「個人には本来自己実現への力が内在しており、その個人がある促進的な心理的風土にさらされる時には建設的な人格変容が起こってくる」という命題である。
われわれが相手の人格変容を目的として働きかけようとする時、ともすると訓戒的・説論的態度をとりがちである。時には強迫的・威嚇的態度で接することすらある。ロジャーズの考え方からするならば、こうした態度で接することは建設的な人格変容を可能にする促進的・心理的風土を創り出さない、という。すなわち、個人に脅威を感じさせる心理的風土は、当人が自由に自分の中の肯定的・否定的経験すべてにわたって探索していくうえで、マイナスの効果しかないのである。このマイナス(つまり自由な自己探索の制限)ゆえに、人は現実の自分の中の、ある特定の経験には目を閉じたまま外界に対処していくことになる。しかしこれではその人の現実にうまく適応した対処の仕方は生まれてこない。自己理論の用語でいえば、「現実の自己(real self)」(あるいは経験(experience)」)と「観念化された自己(idealized self)」(あるいは「自己概念(self concept)」)とのズレが大きくなればなるほど、その人の行動は現実にそぐわない不適応行動になってしまうのである。
2カウンセラーの3つの態度条件
ロジャーズは、自由で脅威のない安全な心理的風土こそ建設的人格変容にとって不可欠の条件であるとして重視した。そして、この条件を満たすための方法として、当初「非指示的」という方法を彼は提唱したのである。この主張は従来の指示的心理療法や教育にとって非常にラジカルな提言であったといえよう。なぜなら、彼の提言を極端にいえば、「教えるから変わるものではない、教えようとしないから変わるのだ」と主張するものだからである。
しかし、ただ単に「教えようとしなければ変わる」というものではない。彼は自由で脅威のない心理的風土を創りあげるカウンセラーの態度として、次の3つの条件を提示した。
- 無条件の積極的関心
- 自己一致あるいは純粋さ
- 共感的理解
以上がそれである。
(1)「無条件の積極的関心」
第一の条件、すなわち「無条件の積極的関心」についてロジャーズは次のようにいう。「(この)条件は、私がその人を受容し、好きになれば好きになるほど、彼が役だてることのできる関係を生みだすことができるということである。受容とは、無条件に、価値ある人間-すなわち彼の条件、行動、感情がどのようなものであれ、ひとりの価値ある人間-として、その人に暖かい配慮をもつということである」と。つまり、一人の人間として好まれ、重じられているということが、援助的関係の重要な要素なのである。
ここで注意しておくべき点は、この積極的な関心の無条件性である。カウンセラーの積極的関心という態度から無条件性が抜け落ちてしまう時、その態度は容易にカウンセラーの選択的・評価的態度に墜してしまう。つまりカウンセラーが「善い」と判断するものにだけ、積極的関心を向けるということになる。あるいは、「こういう点は長い。しかし、こういう点は悪い」というように、クライエントの「悪い」側面、ネガティヴな側面を受容できないカウンセラーになってしまうのである。
カウンセラーが選択的・評価的にクライエントと接する時、クライエントの真の変容は生じない。なぜなら、「こんなことを言ったら、カウンセラーに受容してもらえない」と言う」脅威が、クライエントの内面の奥深いところに覆い隠されているものの、自由な探求と経験を阻むからである。さらにまた、この選択的・評価的態度は、カウンセラーにとって都合のよい人間にクライエントをしたてあげる強引な「操作」につながりかねない。しかし、カウンセラーが目的とするのは、そうしたクライエントの「操作」ではない。それは、善悪を超えてクライエントが「自分自身の感情をもち、自分自身の体験をもつように許すこと」なのである。カウンセラーによる「無条件の積極的関心」はそうした自由な文脈を提供するものといえよう。
(2)「自己一致」
第二の条件は、カウンセラーの「自己一致」といわれている。これは、カウンセラーの表出したことと、その時のカウンセラー自身の感じていることや忌っていることとの間にズレがないということである。
「一致」していない例をあげるとわかりやすいかもしれない。たとえば、夜、友だちが下宿にやってきたとしよう。心の中では「明日のレポートもあるし、忙しいのに・・・」と思いながら、実際には「よく来たなあ」と言ってしまうような場合などがこれにあたるといえよう。
カウンセラーが、その時の自分の心の中で起こっている感情とは裏腹に、先の例のような応答を繰り返し続けるとするならば、カウンセラーとクライエントの関係はうわべだけのやりとりを終らざるをえない。うわべだけのやりとりとは、形式的・機械的やりとりに他ならない。われわれが自らの日常経験を振り返ってみる時、そうした形式的・機械的やりとりしかしない人を前にして、われわれはあまり深く自分自身を表そうとはしていないのに気づく。同様にカウンセラーが、「専門家らしさという仮面(プロフェッショナリズム)」の影に隠れ、技法の単なる形式的・機械的適用に終始するならば、おそらくカウンセラーとクライエントの深い心の交流は生まれないのである。つまり、カウンセラーの「自己一致」という条件は、カウンセラーがクライエントに対し、技法を形成的・機械的に適用するのを回避させ、一人の人間としてクライエントにかかわる事を要請するものなのである。
「自己一致」にはもう一つの意味がある。この「自己一致」をジェラードS.Jourardの用語でいいかえるならば、「透明なる自己(Transparent Self)」である。つまり外部から人の心の中まで見通せるということである。噓がない、といってもよい。カウンセラーがそうした「透明なる自己」となることによって、クライエントはカウンセラーの腹を探る必要がなくなる。その時クライエントはカウンセラーの言葉を、カウンセラー自身の率直な表明としてそのまま受け取れる安心感を獲得するのである。
(3)「共感的理解」
第三の条件としての「共感的理解」をロジャーズは次のように規定する。すなわち、「共感的理解」とは「クライエントの私的な世界を、あたかも自分自身のものであるかのように感じとり、しかもこの“あたかも・・・のように”(asif)という性格を失わない“」ような理解であると。
ここでロジャーズがなぜ”あたかも・・・のように”という限定を「共感的理解」に付け加えているのか、という疑問がわく。”あたかも・・・のように”ではなく、まさに人の痛みをわが身の痛みとして感じるウことこそ「共感的理解」なのではないかと。
この点について次のようなことが考えられよう。”あたかも・・・のように”ということが、なぜ必要か、それは、第一に、いかに共感といえども完全に相手そのものになりきる、あるいはなりかわることはできないという事実を明確にしておくためである。相手との完全な一体化は、あくまで幻想ないし錯覚にすぎない、幻想はどこまでいっても満たされず、またその幻想の破綻はより深い心の傷をつくりだすだけなのである。第二として次のようにもいえる。すなわち、相手との完全な一体化は(仮にそれが可能だとして)、カウンセラー自身をきわめて深刻な心理的に不安定な状態におくことになる。それゆえカウンセラー自身の心理的安定を確保するための行為が、相手の訴えに真剣に耳を傾けるという行為に取って替わってしまうのである。また、一方でクライエントはカウンセラーの不安を見て、ますまず自らの不安を大きくしてしまうのである。
3共感的理解の4つのポイント
以下、ロジャーズを手がかりにしながら、「共感的」にかかわるとはどういうことであるのかについて、もう少し詳しく検討してみたい。およそポイントは4つである。
その1、「共感的理解」は診断や評価、批判、審判を目的として行われる理解ではないということである。われわれはとかくさまざまな目的や、「教育的」」ないし、「そう治療的」意図をもって理解しようとしがちである。そのこと自体を悪意をもって非難することはできないかもしれない。しかし実際には、カウンセラーがそうした意図をもってしまうとうまくいかないということが多いのである。つまり「共感的理解」においては、”なおそうとするな、わかろうとせよ”ということが重要な態度となってくる。”わかろうとせよ”といっても、それは相手の人が「表現しよう、伝えよう」と努力しているものを理解することであって、閉ざされた相手の人の心を無理やりこじあけるようにして理解することではない。「伝えたくない、触れられたくない」という相手の人の気持ちに「共感」しているとはいえないからである。
その2、「共感的理解」は相手の人の内部的準拠枠を知覚し、その枠から相手の人の世界をながめ、体験することである。
私と相手の人は別の人であるゆえに、完全な一体化は不可能である。しかし、近似的に近づいていくことは可能であろう。そもそも相互理解を求めてのコミュニケーションとは、異質な2人が近似的に近づいていくことは可能であろう。そもそも相互理解を求めてのコミュニケーションとは、異質な2人が近似的に近づき、近似的に体験を共有していくプロセスだったはずである。
体験を共有していくためには、まず一旦自分の準拠枠を取り払って、相手の人の準拠枠から世界を見る努力が必要になる。「変なことばかり言うやつだ」と思ったら(つまり自分の準拠枠からの知覚)、「どういうふうに考えればその人のように世界が見えてくるのか」を考え(つまり自己の準拠枠を一旦はずし、相手の人の内部的準拠枠を知ろうと努める)、そしてその時の相手の人の気持ちを第三者に通訳できるくらいわかろうと努力することが必要なのである。さらに体験を共有するためには、相手の人の準拠枠を知るという知的認識だけでなく、そこでの相手の人の気持ちを感ずるという情緒的側面も含まれていなければならない。
相手の人の気持ちを感ずるという場合、自分の中に相手の体験に近いものがあるほど、それは容易なものとなろう。その意味でカウンセラー自身が豊かな感情生活を送り、体験の幅を広げておくことが望まれる。つまり、自ら喜びを知らぬ者が他者の喜びを知ろうはずもなく、自ら悲しみを知らぬ者が他者の悲しみの何たるかを知るべくもないからである。
その3、「共感的理解」は相手の人との交流の中で、カウンセラーの側の「理解」および「理解しようとする態度」が相手の人に伝達されなければならない。つまり、カウンセラーの側にいくら有益な理解が生じたとしても、当の本人にそれが伝達されなければわかってくれた!」という確信をもてないからである。「共感的理解」が建設的人格変容に寄与する心理的風土を創るかどうかは、ひとえに伝達のいかんによっているといえよう。
正確な「共感的理解」の伝達は、相手の人に自分が孤独でないことを確信させる。そして共感的に「理解しようとする意図・態度」の伝達は、その人の気持ちや話、ひいてはその人の存在そのものを「価値あるものだと考えていますよ」と伝達していることになろう。
一般に「共感的理解」というと、その正確さの面にばかり注意が向きがちである。しかし、そうした正確な「共感的理解」への努力もさることながら、「理解しようとする態度」を伝達することの重要性を今一度確認しておくべきである。つまり、両者の体験の間には隔たりがあるのだけれど、その隔たりゆえに、その違う体験を感じ合おうとするカウンセラーの姿勢の伝達が、「共感的理解」を援助的にするかどうかの鍵を握っているのである。
最後に、「共感的理解」はカウンセラーの主張、考えを相手に納得させるための懐柔策ではない、ということを付け加えておこう。
「おまえの言うのもよくわかる、しかしなあ・・・」-これは多くの大人たちのよくやく「共感的理解(?)」といえるかもしれない。大人は変わらず、子どもだけ変えようというわけであろうか。たしかに大人は子どもに比べて経験も豊富であろうし、そこから導き出された英知も比べものにならないほど深いかもしれない。しかし、それゆえに大人の経験や英知に基づいて子どもを評価し、その評価を子どもに押しつけてしまいがちなのである。
ロジャーズはより良き人間関係を創造していくうえで、その主要な障害について次のようにいう。それは「他人や他のグループの述べることを判定したり、評価したり、是認したり、不賛成であったりするような、われわれにとってごくあたり前な傾向である」と。
われわれはともすると評価せずにはおれない。評価せずに、相手のいうことに真剣に耳を傾け、相手の人のやり方で人生を見直すことは、ひょっとして自分の方が変わるのではないかという不安を呼び起こすからである。しかし、こちらは永久に変わらず、相手の人だけを変えようとすることから「出会い」というものは生まれない。
「出会い」は本来、冒険を含んでいる。そして「共感的理解」がかうの条件として含まれる時、そこにはかう側の変化というカウンセラーにとっての冒険も含まれていなければならないのである。
4人間理解の難しさ
以上、ロジャーズの考え方を手がかりにしながら、カウンセラーの基本的態度について解説してきた。しかし、この解説を通して私が伝えようとしたものは、「このようにすれば相手の人をより良く理解できますよ」という方法論ではなく、むしろそれは人間を理解するということの難しさであり、安易にわかったつもりになってしまうことへの自戒であったといえるかもしれない。
人間援助の実践にとって人間の理解は不可欠である。しかしそこでの人間関係とは、生きた人間存在をわずかな言葉に要約・還元し、「わかったつもり」になることではない。堀智晴は次のようにいう。「周りの世界へ好奇心の触手をのばして息づいている存在を目のあたりにみれば、容易にわずかのことばでもってその子どもを語ることはできるはずがない」と。
今日ではより妥当な人間の理解を求めてさまざまなテストや科学的手法が開発されてきている。しかし、そうした科学的手法もわれわれがそれを絶対視する時、きわめて非科学的なドグマに変質してしまう。一般意味論の学者として著名なハヤカワ S.I.Hayakawaは、「科学的」考え方の中心にあるものとして3つの特質を挙げ、その3番目として次のようにいう。それは「どの物にも未だ未知のところが常に残っているという認識を内に持っていること、その結果いつでも他人の話に耳を傾けることができること」であると。そしてこのことはカウンセリングにおいても同様である。つまり、目の前にいるこの人について知らないところ、わからないところがいっぱいあると思うからこそ、その人に触れ、その人の話に真剣に耳を傾けようとするのである。逆に「この人の訴えは結局・・・にすぎない」とか「この人は・・・なのだ」という”きめつけ”をする時、それ以上のことは理解しようもなく、またその言葉にこめられた深い意味や気持ちを感ずることもできなくなってしまうのである。