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たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

働くことの意味

2016年05月11日 22時38分41秒 | 日記
 こんなタイトルの本を、卒業論文執筆にあたって何冊も読みました。それから10年余りの月日が流れましたが、わたしの中でいまだ手ごたえを感じる言葉に出会うことができていないように思います。自分はなんのために働いているのか。18歳で地方銀行に就職して働き始めてからずっとずっと答えをさがしてきました。今も探し続けています。

「現代は、働くことの意味が見えにくい時代なのかもしれない。働くというとすぐに報酬を想起しがちだが、お金を手に入れることを目的としない仕事は、この世にいくらでもある。むしろ、仕事とお金の関係を少し離してみなければ、働くことの意味を感じにくいのかもしれない。」

 「わたしたちは、金銭がなくては生きていけない。日常生活で必要なものを金銭で購う社会に生きている。お金がなければ買えないものはある。だが、お金ではどうしても買えないものは、買えるものとは比べ物にならない絶対的な力によって私たちの一生を支配している。
 それは死だ。
 どんなにお金を持っていたとしても死を避けることはできない。医学が進化したとしても死の絶対性の前にはまったく無力である。天災、事故など、人間を死に至らしめるものが肉体の老化だけではないことを私たちは、五年前と今年の大震災で知らされたはずだ。

働く意味を感じ直してみるには、この言葉を「働き」という名詞にしてみるとよい。死者は目に見える姿では働いていない。しかし、その「働き」はどうだろう。死者が存在している。それだけですでに、一つの、それも甚大な意味を持った「働き」ではないだろうか。
 生者である私たちも、「働きがい」というとき、もっとも重要視するのはその営みに従事する意味ではないだろうか。むしろ、金銭を超える何かを確かに感じているときに人は、この言葉を使うことが少なくない。
 また、水の働き、光の働き、存在の働きというように「働き」という言葉にはむしろ、どこか俗世を離れて行こうとする赴きすらある。」

 「人間は、働くことによって、自らの生の在り方を模索する。そして、自身にとっての社会を生み出す。さらに、肉体と魂のつながりを取り戻し、真の自己となる。人が働くのは、死すら私たちから奪えない何かをそれぞれの人生で実現するためではないだろうか。

働くとは自己を見つめ、他者と交わりながら、魂と呼ばれる不死なる実在にふれることである。ヴェーユはそれを論じただけではない。生きて、体現したのである。」

 若松さんの書かれる言葉が沁みます。下記サイトより引用しました。

http://www.akishobo.com/akichi/ikite/v16


 今日もヘロヘロ、げっそり、うんざりな一日。土曜出勤のために、観劇予定に合わせて明日振替休日取得。帝国劇場で『1789』のMy千穐楽。心身のエネルギーを削がれるような毎日なので、美しいもの、エネルギーにあふれるものに触れないともたない感じです。げっそり、うんざりの嫌なもろもろを明日は忘れるようにしたいです。休みの前の解放感はやっぱり嬉しくて、駅で、街で、ひとり土曜日のようなヘンな感じです。でもって、明日休みのあと、二日出勤したら、日曜だけの休みをはさんで普通に月曜から金曜まで出勤。考えただけでぞっとします。働くってなんでしょうね。疲れた頭ではこれ以上考えることできずです。前職でヘンなアレルギーにとりつかれてしまってから喉と鼻の調子がよくなく、いつものど飴をなめていたら歯がボロボロになってしまいました。無理に無理を重ね続けた疲労の蓄積がかなり歯にきました。去年の11月の終わりに、左奥の神経が炎症を起こしたので抜いたあとの痛みがおさまりませんが、歯医者さんに行けるのは来週に水曜日の夕方。連休をはさんで毎日ノー残業デーになっていたのが、また明日から水曜の早帰り日をのぞいて復活するそうです。残業代といってもたいした金額ではないので、毎日ノー残業デーで帰してほしいなと思います。きょうは残業できません、と言わなければならないのも疲れるので言われたとおりにやります。こんなに人疲れしてしまって、吐きそうなほどにげんなりなっている仕事。どこまでもつのやら・・・。