たんぽぽの心の旅のアルバム

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第二章_日本的経営と近代家族_②日本的経営システム及び日本的労使関係とは何か

2016年05月21日 12時59分19秒 | 卒業論文
 ここで、労使関係を中心に日本的経営システムを概観したい。いわゆる日本型雇用慣行といわれる「終身雇用制」、「年功序列賃金」、「企業内組合」を、戦後の日本を経済的成功に導いた独特の経営システムであるとして注目した研究の代表者にアメリカ人研究者アベグレン(J.C.Abegglen)がいる。アベグレンは、1年有余日本の工場をつぶさに見学した結果をもとに、1958年に“The Japanese Factory”という本をアメリカで出版した。この本はただちに日本語に訳され、同じ58年にダイヤモンド社から『日本の経営』という書名で刊行された。この時アベグレンが、他の先進諸国とは全く異なった日本独特の経営システムとして日本型雇用慣行の三本柱を唱え、日本の内外に普及するようになったのである。


 アベグレンが提起した日本的経営に対しては現在様々な反論や意義が出されているが、篠塚英子がまとめているところによれば、これら多くの研究者の反論や論議を総括した上で、社会学者の富永健一(1990年)が、「日本的経営」あるいは「日本的労使関係」といわれるものは、社会的近代化の遅れが戦後になっても依然として残存していることをいいあらわしている語であると述べている。日本的経営は、経営者と労働者の間の社会関係が構造的には温情主義的・ゲマインシャフト的な感情的相互融合を実現していることによって特徴づけられる。このように定義された日本的経営がいつ頃から日本に定着したのかについても、富永健一の次説が定説となっている。多くの研究者が日本の企業の経営史的・労務管理史的研究を通じて到達した結論は、その成立の時期は1918年(大正7年)の第一次大戦終了から1931年(昭和6年)満州事変以後のファシズム期の開始時までの10年余りの間である。

 注目すべきは、戦前の10年余りの間に確立した日本的労使慣行は、大企業が中心で、しかもあくまでも基幹職員と基幹熟練工に限られていた。それが戦後になり、戦後改革の一環として労働組合も公認されるようになると様子が変わる。終身雇用制度や年功賃金など、戦前は大企業の基幹労働者だけの特権であったものが、戦後民主化の波の中で、全従業員に押し広げるべきだという労働組合の要求となった。こうして戦後に開花した日本的経営の三本柱が定着した。 1)「経営と個人が甘え合う関係で成り立っている」日本企業の労使関係が成立したのである。この関係では、従業員にとって給料はいただくもので、会社にケチをつけるというのは反乱者だという不文律があった。


 ここで三本柱のひとつである「終身雇用制」について厳密な意味ではそのようなものは存在しないという野村正實の指摘に注目したい。終身雇用という言葉は、古くからあるように思われているが、実は、1958年に初めて使われた言葉なのである。先に記したアベグレンは原著のなかで、日本における従業員と会社との関係を「終身的関係」であると強調した。そして、訳者たちはいくつかの単語を「終身的な雇用関係」「終身雇用制度」と訳した。アベグレン自身は、それが大企業の正規従業員にのみあてはまると限定をつけていたが、終身雇用という言葉が急スピードで普及する過程で、言葉が一人歩きし、“日本企業の雇用慣行は終身雇用であるという”単純化された命題になり、社会通念にまでなった。2)  この言葉が瞬く間に普及し、社会通念にまでなっていった理由を、日本企業の労使関係の特徴を物語るものとして捉えたいと思う。


 終身雇用の定義を野村正實が調べたところによれば、①会社は学校を卒業した直後の人を採用し、定年まで雇用を保障する。つまり、解雇や希望退職などの人員整理を行わない。会社が労働契約や労働協約によって雇用を保障することはないので、雇用保障は慣行として行われている。②新規に学校を卒業する者は、卒業と同時に会社に入り、定年までその会社に働き続ける。この二つの条件が同時に満たされているのが終身雇用である。

 では、日本の雇用慣行は本当に終身雇用なのか? 日本には公務員を除いて終身雇用は存在しないというのが野村正實の結論である。終身雇用の対象は基本的には体力のある大企業の、しかも男性正社員に限られる。中小企業では長期的な雇用の安定は難しい。さらに大企業といえども、不況時には解雇、希望退職、早期引退などの人員整理を行ってきた。企業成績の良い時に会社が解雇や希望退職を行わないのは当たり前である。不況の時にこそ従業員の雇用を保障するのが終身雇用であり、解雇や希望退職が実施されるのは終身雇用とは言えない。3)  にもかかわらず、日本の大企業では終身雇用というタテマエは厳然として存在し、会社はそのタテマエで従業員を雇用し、従業員もそのタテマエを信じて会社の為に働いてきたのである。

 終身雇用という言葉は、高度経済成長の真っ只中で生まれ広まっていった。その背景には、1960年前後日本社会にはまだ「封建遺制」が根強く残っていたことが考えられる。終身雇用という言葉の印象は、近代的な契約関係ではなく日本の伝統的な個人と組織に関するイメージである一生涯続く人格的な主従関係ときわめて近いものがあったので、速やかに受け入れられていった。中小企業独自の雇用慣行理念も形成されなかった。大企業における「終身雇用」のみが価値観からみて望ましいものであり、中小企業は今はそれを実現できないでいるが、企業が安定的に成長するならば「終身雇用」を実現するべきであるとされたのである。

 さらに、当時の労働研究者たちは大企業におけるブルーカラー労働者の精力的な労働実態調査を行った結果、永年勤続こそ先進諸国の労働市場に対して日本の労働市場の特徴であると主張し、「終身雇用」という言葉を一斉に用いた。野村正實が引用している「労働市場の企業的封鎖」論 によれば、「とくに選抜され」た労働者が巨大企業に採用され、しかも彼らの全部ではなく、「一部分」が「永年勤続として停年まで勤め上げる」のである。この正しい認識は、終身雇用という言葉の普及とともに、“日本企業の雇用慣行は終身雇用である”という単純で誤った命題によって背後に押しやられてしまった。  こうして大・中小にかかわらずに日本の男性正社員は終身雇用制によって企業に守られるという幻想ができあがった。

 終身雇用制においては、男性正社員の処遇も賃金も定年時までを見込んで決まることが多い。企業は、若い社員の場合には、業績よりも「可能性」を買うと言われる。現在若手社員に支払われているお金は、現在の仕事に対して払っているのではなく、将来幹部になる「可能性」に企業は払っているのである。  厳密には年功だけで賃金が決まっている企業はないが、しかし一般的に年齢が増すにつれて賃金が増える傾向にあることは多くの企業にあてはまる。第一章の賃金格差で見たとおり、長期雇用という前提で社内異動を繰り返しながらキャリアを積み重ねていく働き方には、どんな働き方をしたかではなく個人の能力に対して支払う賃金体系が合っているのだ。職能給・年齢給・勤続給の三つの賃金制度は、個人が身につけた能力、知識、経験、技術に対して支払われるために「能力主義」と呼ばれる。

 企業別組合については、多くの日本の大企業労働組合が企業別に組織されており、その上に産業別の連合体ができている。日本の労働組合が企業主義的性格をもつことは、非常に大雑把ではあるが欧米先進資本主義国と比較することで見えてくる。西洋の近代社会では「家」や「村」にみられた共同体的な結合が解体され、個々の人間の人格的自立がもたらされるが、それは生産力の発展と社会的分業の展開を基礎にした商品生産社会の出現によるものである。

 すべての人が商品所有者として「一物一価の原則」のもとに合理的計算をもって対等にわたりあうのが近代社会である。このように個人的・私的原理が貫徹している近代社会を資本主義社会としてとらえるならば、企業と組合は資本-賃労働関係に直接規定されあい対立しつつ関係をとり結ぶ集団であり、近代社会の最も基本的な機能集団である。個人を柱とした欧米先進資本主義諸国においては、産業別労働組合が企業の枠を超えた労働者の個人加入による横断的な結合を基本としている。こうした欧米に対して各企業・事業所ごとに従業員全員が一括加入する企業別組合の形態をとっている日本では、経営協議会機能と労働組合機能が重なり、また経営組織の末端と組合組織の末端が重なるために、労働組合そのものが企業による職場統括機構に吸収される傾向を強くもっており、労働者の意識や立場も組合と企業の間を揺れ動きやすい。7)  労働組合が会社本位主義の先頭を走っている。日本の労働組合は、二番手に控えている会社そのものなのである。 8)



 従業員との関係において上記のような三本柱を打ち立てた大企業が1955年から60年頃にかけての高度経済成長を支えた。その原理は会社本位の成長第一主義であり、従業員は「まずパイを大きくすることで、あとでその分配にあずかろう」と、会社のために一所懸命に働いた。 9) この時代には、昼夜、公私を問わない働き方が社会を豊かにするという大目標があった。満ち足りた老後を迎えるためにきばる。あの時がんばっておいたから、今このように安楽にしていられるのだ・・・という前のめりの生活意識である。成年の間は幸福な老年のために働き、老後は過去の業績に寄りかかって生きる。10)  滅私奉公に蝕まれたビジネス・システム11) は、熊沢誠が言うところによれば、「なかば強制なかが自発」的にやっている、こうした「会社人間」をつくりだした。自発的にやるように強制した、そういうシステムをつくりだしていったのである。その柱が、終身雇用、年功序列賃金、企業内組合であったといえる。12)  こうした「会社人間」の裏側には、家庭に残された妻や子供たちがいる。


 上記にみた三本柱に加えて、企業間系列、メイン・バンク制、協調的な官庁・企業間関係を加えたのが日本的経営システムである。経営者、従業員、部品供給メーカー、金融機関などの経済主体が組織的な関係を結んで相互に強調し、政府がこの関係を補強する仕組みになっている。


1) 篠塚英子『女性が働く社会』25-29頁、勁草書房、1995年。

2) 影山喜一「日本型経営礼賛論の明暗」内橋克人・奥村宏・佐高信編『危機のなかの日本企業』106-107頁、岩波書店、1994年。

3) 間宮陽介「日本的経営と法人資本主義」内橋克人・奥村宏・佐高信編『危機のなかの日本企業』155-159頁、岩波書店、1994年。(傍点は筆者)

4) 氏原正治郎「京浜工業地帯における労働市場の模型」『京浜工業地帯調査報告書‐産業労働篇各論』、神奈川県、1954年。

5) 野村正實「終身雇用制議論の陥穽」内橋克人・奥村宏・佐高信『危機のなかの日本企業』160-163頁、岩波書店、1994年。

6)竹信三恵子『日本株式会社の女たち』21-22頁、朝日新聞社、1994年。

7)日本社会学会編集委員会編『現代社会学入門[第2版]』47‐57頁、有斐閣、昭和51年。

8)内橋克人・奥村宏・佐高信「徹底討議/90年代不況は日本経済を変える」内橋克人・奥村宏・佐高信編『危機のなかの日本企業』65-66頁、岩波書店、1994年。

9)奥村宏「日本型企業システム」内橋克人・奥村宏・佐高信編、『日本型経営と国際社会』56頁、岩波書店、1994年。

10) 鷲田清一『だれのための仕事』7-10頁、岩波書店、1996年。

11)影山喜一「日本型経営礼賛論の明暗」内橋克人・奥村宏・佐高信編『危機のなかの日本企業』104頁。

12)内橋克人・奥村宏・佐高信「徹底討議/90年代不況は日本経済を変える」内橋克人・奥村宏・佐高信編『危機のなかの日本企業』4頁。


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この卒業論文を仕上げたのと二人分労働の完全オーバーワークが始まったのとはほぼ同時期でした。10年以上前のことですが、よくまあ書けたもんだと我ながら思います。この時には実感として十分に理解できていなかったことが、図らずも労働紛争を経験することとなったわたし、そして、現在(いま)高度経済成長期に会社のために滅私奉公のように働き続けたオジサンたちのなれの果てがどうなっているのか、満ち足りているはずの老後がちっとも幸せには見えない(大企業で滅私奉公し続けて来たなら退職金をどっさりもらっているであろうという意味ではたしかに満ち足りているのかもしれませんが・・・)、わたしたちのような立場の職業人には全く品位のかけらもなくここぞとばかりに怒りとストレスを吐き出す、理性などあったものではなく言いたいことを言いたいだけ言うみにくい姿を毎日いやでもみなければならないわたしで読むと、深くなるほどと実感しながら理解することができます。現役時代我慢し続けてきたストレスを、定年退職後吐き出し口にしやすいところで吐き出しているのか。滅私奉公に蝕まれたビジネスシステムに乗っかって働いてきたオジサンたちの頭は凝り固まっていてどうしようもないと感じます。
 
 労基署が地方の長時間労働を従業員にさせてきた中小企業を摘発したっていうニュースを読みましたが、そのバックにいる大企業こそテコ入れされるべき、大企業をテコ入れしなければ意味がないのではないかと私なりに思います。でも大企業をテコ入れするのは社会的影響も大きいので簡単ではないとは、労働局で聞かされた話でした。それはたしかにそうですが、大企業中心のあり方を根本的に見直していかないと日本株式会社で働くことに希望は見えてこないのではないかという気がします。自分の仕事に誇りをもって働くことができる幸せな人はほんとに一握りのわずかな人たちなんでしょうね。