2001年宝塚宙組公演『ベルサイユのばら‐フェルゼンとアントワネット編』プログラムより
「王妃マリ・アントワネットの不運
=ブルボン家の王妃たち=
カトリックとプロテスタントの信者が血胆 い争いを繰り返した宗教戦争がやっと終わった16世紀末、ヴァロワ王朝は断絶し、新教徒の長、ブルボン家のアンリ4世がカトリックに改宗してフランス王になります。アンリ4世は、ヴァロワ家の王妃マルゴと離婚し、1600年メディチ家から妃を迎えてブルボン王朝が始まります。初代のアンリ4世、ルイ13世ルイ14世、ルイ15世、そしてルイ16世の順です。19世紀に王政復古が成り、ルイ18世、シャルル10世が王位に復帰しますが、短命でした。
王妃たちはどうでしょう。アンリ4世が再婚したマリ・ド・メディシスはイタリアの名家出身で、フランドルの画家、ルーベンスに描かせた波瀾万丈の生涯はルーブル美術館に展示されています。
美しく誇り高いルイ13世の妃アンヌ・ド-トリッシュは、スペイン・ハプスブルク王家から14歳で嫁いできました。宮廷一の美女といわれながら夫は妻に無関心でルイ14世誕生までに実に23年の歳月を要しました。 バッキンガム公との束の間の恋愛は 『三銃士』 にも描かれています。華麗なヴェルサイユ宮殿を建造し、 昇る太陽のごとくヨーロッ パに君臨したルイ14世は、ブルボン家の宿敵ハプスブルクをしのいで絶頂期を迎え、世界にブルボン家の威信を示します。
アンヌ・ド-トリッシュの姪、スペイン王家のマリ・テレ-ズを妃に迎えますが、テレーズ がひとめでルイ14世に恋したのとは裏腹にルイ14世は次々に愛人を作り、王妃は生涯夫の不実に悩まされます。
文芸のよき庇護者であったルイ14世は新装なったヴェルサイユ宮殿でさまざまな祭典を催し 、オペラ 、バレエ、コンサート、芝居が上演され、文芸の黄金時代を築きます。その祭典の主役は王妃ではなく、愛人たちでした。
18世紀に入り礼節と規律を重んじたルイ14世の宮廷の堅苦しさはルイ15世の時代には消えて行きます。ルイ15世はだれからも愛される人柄で批判精神が活発な新しい時代の幕開けとなりました 。ヴェルサイユに縛り付けられていた人々がパリに戻りはじめたのもこのころのことです。
ロココの華を擁護したルイ15世といえば愛人ポンパドゥール夫人やデュ・バリー夫人があまりにも有名でポーランド王家出身の王妃マリ・レクザンスカは影のうすい存在でした。 国政は愛人たちに牛耳られ、王家の成信は落ち財政破綻の原因を作り王権は弱体化しはじめます。ルイ16世は16歳でオーストリアの王女マリ・アントワネットを妃に迎えます。マリ・ ド・メディシスいらい、王妃たちはすべてハプスブルクに繋がっていますが マリ・アントワネットは正真正銘の本家オーストリア、 ハプスブルクの王女でした。
=アンシアン・レジームの崩壊=
フランス史では16世紀はじめからフランス革命までの政治や社会体制を旧体制という意味のアンシアン・レジームと呼びます。フランス革命で王権は滅びるわけですからルイ16世はブルボン家終幕の王となります。
ルイ16世は幼いころ非常に厳格な宗教教育を受けて育ちした。気弱でお人よしという以外に、あまり取り柄のない王でした。もし、ルイ16世が才気換発な王であったら 、もし世の中の動きを察知し素早く対応できる能力を備えていたらフランス革命は起こったろう かと考え ます。マリ・アントワネットにしても 確かに贅沢をしたかもしれない、わがままで周囲の人たちへの配慮が欠けていたかもしれないという一面はありますが、首を切られるほどの罪を犯したでしようか。
もしマリ・アントワネットがフランス王家出身の王妃だっ たら 、フランス人は彼女を断頭台に送ったとは思えま せん。マリ・アントワネットは幾世紀にも跨がリフランス王家が打倒を誓った宿敵ハプスブルクの姫でした。
「善良なパパ」と国民に親しまれていたルイ16世 が国外逃亡を図ったことが決定的でした。『フラン ス革命下の一市民の日記』を書き残した平凡な年金生活者、ギタール氏は次のように書いています。
1791年6月21日「フランスと世界の歴史のなかで永遠に忘れがたい日 。きょう 21日午前 1時 、国王、王妃、王太子 王女、王妹、王弟夫妻がひとりの衛兵にも気づかれずに 、こっ そリチュイルリー宮殿を脱け出し、外国への逃亡を計った。 パリじゅうが悲しみに包まれた」。そこには、国王に見捨てられたと悟り 、衝撃を受けた民衆の哀感がにじみ出ていま す。
パリは歴史に残るふたつのおぞましい流血事件を経験しています。ひとつは 16世紀、 新旧の宗教の対立から 起こった宗教戦争の総括ともいえる歴史に名高い 「サン・バルテルミ の大虐殺」です。新教徒の長アンリ 4世とカトリック のマルゴ 王妃の結婚を祝うため全国から 集まったプロテスタンは、ルーブル宮殿に隣接する サンジェルマン・ロクセロワ教会の鐘の音を合図にカトリッ派に急襲され殺数が始まります。セーヌ川は血で染まり、ルーブル宮殿の中庭には死体の山が築かれまし た。
ふたつめの大きな流血事件はフランス革命です。「目覚めた女たち」の戦いが始まりま す。 昨日まで市場で魚や野菜を売っていた女たちが、マリ・アントワネットの侍女である というだけの理由で、罪もない同じ女性の衣服を引き裂き首を切り落とし 、その首を槍先に刺して平然と行進します。
正気にかえったとき 、「目覚めた女たち」は槍先の女の顔をまともに見られたでし ょう か。現代でも人気グループのコンサートで観客が次々に卒倒する事件がありますが、フランス革命における女性たちの行動を見ていると皆が集団ヒステ ー状態にあったと思わざるを得ま せん。
アンシアン・レジームでは、女性は独立した個人としては認められず、父または夫に従属する存在でした。その女性たちが自分の意志で立ち上がったことには意味がありました。けれど 「自由」「平等」「博愛」をスローガンにパンを求め、群集の先頭に立ってパリから ヴェルサイユまで行進した女たち 、新しく生まれたフェミニストたちはフランス革命で本当の自 由や平等を勝ち取ったでしょうか。男の従属物としてしか認められなかった女たちが、フラ イパンや帯の代わりに鎌や鍬を持って戦うために勇ましく全面に躍り出たことはひとつの進歩ですが、女性の地位を確立するにはまだ遠い道のりが横たわっていました。
=たった一度の恋=
マリ・アントワネットというと「首飾り 事件」とスウェーデンの貴公子フェルゼンとの束の間の胸をしめつけられるような恋を思い出します。
宝石好きの王妃はマリ・アントワネットに限ったことではありません 。この時代のお洒落 の特徴は高く結いげた髪型にありました。とくに宮廷の貴婦人たちの正装では 、高く結い上げた髪の中に宝石やリボン、羽飾りを編み込むことが約束ごとになっていましたから、宝石は貴婦人たちにとって必需品であったといえます。
マリ・アントワネットはお洒落上手で彼女の選んだドレスや髪型は 、すぐに街に広がっ てゆきました 。庶民の娘たちは 、マリ・アントワネットのド レスや宝石を羨望の目で眺め、 新しいファッションに一喜一憂しました 。
憧れの気持ちが 、なにかのきっかけで嫉 妬に変わると憎しみという恐ろしい感情が生ま れます。そして王妃は憎しみの格好の標的となりました 。
ブルボン家との関係強化を願う母であり女帝であるマリア・テレジアの要請で 、王家の習いとはいえ愛のない結婚を承諾してマリ・アントワネットが遠いオーストリアから嫁いで来たのは15歳のときです。ま 恋も知らない年でし た。
フェルゼンとの恋は、マリ・アントワネットにとって、生まれてはじめての恋愛だったでしょう。王妃というのは宮廷にあって孤独な存在です。 ましてや異国です。そこへ全てを投げ打って愛を捧げる男が身近に現れたら、恋の虜になっても不思議はありません。
王妃一家を助けようとしたフェルゼンの努力にもかかわらずマリ・アントワネットはタンプル塔に囚われの身となり 、輝くばかりのプロンド はたちまち真白くなり、 老婆のような風貌に変わったと言われています。
セーヌ河畔に面した牢獄は、向こう岸にはマリ・アントワネットが愛したチュイルリー宮殿があります。ヴェルサイユを逃れてチュイルリー宮殿で過ごした自由で伸びやかな日々、フェルゼンとの束の間の逢瀬、どれも遠い過去です。パリではオペラや芝居見物で劇場に足を運ぶこともできました。
規則づくめで礼節にやかましい広大なヴェルサイユ宮殿と違って、パリの生活は宮殿も中規模で庭園の向こうには街のざわめきが息づいていました。
思い出が詰まった宮殿の対岸でマリ・アントワネットは囚人として 2ヶ月を過ごしました。 コンシェルジュリを訪れた者は、贅沢に慣らされた一国の王妃が、陰鬱な牢獄生活に耐えた強じんな精神力に驚かされるはずです。耐えたばかりか、マリ・アントヮネットは 、ショックのあまリー度は半病人のようになりますが、死を目前にしたとき本来のフランス王妃としての品格と威厳を取り戻します。そこが王妃たるゆえんです。
フランス革命はあらゆる要素が複合的にひとつの形となっ たもので、マリ・アントワネットの贅沢だけが原因ではありません。革命の必然性を民衆に理解させるには王妃の散財はわ かりやすい理由でした。
「彼女は本当に不幸です。けれど彼女は勇気を持っています。私は全力をつくして彼女を慰めました。それは 私の務めです。彼女は 私にとって完璧な女性です」とはフェルセンの言葉ですが、悲運な王妃にも、ひとときの幸せがあったことに思い至るとき心が和んできま す。
戸張規子(とばりのりこ)
学習院大学文学部大学院修了。 慶應義塾大学教授。
著書:『ルイ14世と悲恋の女たち』
『ブルボン家の落日』 ―ヴェルサイユの憂愁―
『フランス悲劇女優の誕生』― パリ・宮廷の華―
(全て、人文書院 )
訳書:フランス古典悲劇等。」
宝塚時代も含めて、花ちゃんが演じ分けるハプスブルクつながりの二人の王妃。エリザベートとアントワネット。エリザベートが最後まで自分以上に家族を愛することができず、あてのない旅から旅への生活を送り続け、孤独の中で生涯を終えたのに対して、最後は王妃としての誇りに目覚め国母としての役目を全うしようとしたアントワネット。ふんわりと可愛らしいアントワネットを花ちゃんは存分に体現していたと思います。
一幕の王太子ルイ・ジョセフが歩けるようになったと喜ぶ時の嬉しそうな表情、ルイ16世が仮面舞踏会にギロチンの模型を持ってきたときの、「まあなんと恐ろしい」っていう時は、その後たどる自分の運命を全く知らない、退屈な宮廷生活に飽き飽きした無垢で無邪気な表情。
二幕で王太子の死をきっかけに王妃としての役割に目覚め、革命がおこると亡命を手助けしようとするフェルゼンの申し出を断り、ルイ16世を運命を共にすることを選んだアントワネットの決意をうたう場面が終わると客席に背中を向けて舞台の奥へと歩んでいきます。その背中が、ベルばらの舞台でみた、大階段をのぼっていく=断頭台へと向かっていく、誇り高いフランス王妃として最後の務めを果たそうとする背中とが重なります。『1789』の舞台では、ギロチンが落とされる音が入りますが、アントワネットは、自分が最後にたどりつく運命をこの時悟り、覚悟をもって静かに受け入れていったという演出なのでしょうか。ロナンを好きになってしまったオランプに、自分とその人とのどちらかを選ばなければならないと語るときの表情はやさしくたおやかで慈愛に満ち溢れていました。なにもかも失ってしまった、文字通り、失うものなどなにもなくなったアントワネットが、最後は宝塚時代を連想させる囚人服で登場するときの、無垢な少女にもどったような表情がすごく好きです。
2007年と2008年に、パリに行ったとき、アントワネットが最後の日々を過ごしたコンシェルジュリには行きませんでしたが、贅沢に慣れた王妃が過ごすにはあまりにも過酷な場所だという説明を現地の日本人ガイドさんから受けました。ベルサイユ宮殿には普段着でくつろぐ国王一家の絵も飾られていました。(この時の写真はそのうちに・・・)。
ルイ16世を演じる増澤さんが書かれているブログも参考になります。ルイ16世。ベルばらでは脇役でした。どんな方が演じるのか、正直全く関心がなくお名前も存じ上げませんでしたが、民間人に本当は愛されていた、お人好しで錠前づくりと狩りが好きな国王をよく体現されていて、観劇のたびに関心度が増していきました。最後はアントワネットが自分のところに戻ってくることを観客は納得できたと思います。
http://nozomu.air-nifty.com/kerogu/2016/04/post-7be9.html
史実と虚構が巧みに混ざり合った舞台は不思議な世界です。
写真は初日前記者会見の花ちゃんアントワネット。エントレより転用しています。
「王妃マリ・アントワネットの不運
=ブルボン家の王妃たち=
カトリックとプロテスタントの信者が血胆 い争いを繰り返した宗教戦争がやっと終わった16世紀末、ヴァロワ王朝は断絶し、新教徒の長、ブルボン家のアンリ4世がカトリックに改宗してフランス王になります。アンリ4世は、ヴァロワ家の王妃マルゴと離婚し、1600年メディチ家から妃を迎えてブルボン王朝が始まります。初代のアンリ4世、ルイ13世ルイ14世、ルイ15世、そしてルイ16世の順です。19世紀に王政復古が成り、ルイ18世、シャルル10世が王位に復帰しますが、短命でした。
王妃たちはどうでしょう。アンリ4世が再婚したマリ・ド・メディシスはイタリアの名家出身で、フランドルの画家、ルーベンスに描かせた波瀾万丈の生涯はルーブル美術館に展示されています。
美しく誇り高いルイ13世の妃アンヌ・ド-トリッシュは、スペイン・ハプスブルク王家から14歳で嫁いできました。宮廷一の美女といわれながら夫は妻に無関心でルイ14世誕生までに実に23年の歳月を要しました。 バッキンガム公との束の間の恋愛は 『三銃士』 にも描かれています。華麗なヴェルサイユ宮殿を建造し、 昇る太陽のごとくヨーロッ パに君臨したルイ14世は、ブルボン家の宿敵ハプスブルクをしのいで絶頂期を迎え、世界にブルボン家の威信を示します。
アンヌ・ド-トリッシュの姪、スペイン王家のマリ・テレ-ズを妃に迎えますが、テレーズ がひとめでルイ14世に恋したのとは裏腹にルイ14世は次々に愛人を作り、王妃は生涯夫の不実に悩まされます。
文芸のよき庇護者であったルイ14世は新装なったヴェルサイユ宮殿でさまざまな祭典を催し 、オペラ 、バレエ、コンサート、芝居が上演され、文芸の黄金時代を築きます。その祭典の主役は王妃ではなく、愛人たちでした。
18世紀に入り礼節と規律を重んじたルイ14世の宮廷の堅苦しさはルイ15世の時代には消えて行きます。ルイ15世はだれからも愛される人柄で批判精神が活発な新しい時代の幕開けとなりました 。ヴェルサイユに縛り付けられていた人々がパリに戻りはじめたのもこのころのことです。
ロココの華を擁護したルイ15世といえば愛人ポンパドゥール夫人やデュ・バリー夫人があまりにも有名でポーランド王家出身の王妃マリ・レクザンスカは影のうすい存在でした。 国政は愛人たちに牛耳られ、王家の成信は落ち財政破綻の原因を作り王権は弱体化しはじめます。ルイ16世は16歳でオーストリアの王女マリ・アントワネットを妃に迎えます。マリ・ ド・メディシスいらい、王妃たちはすべてハプスブルクに繋がっていますが マリ・アントワネットは正真正銘の本家オーストリア、 ハプスブルクの王女でした。
=アンシアン・レジームの崩壊=
フランス史では16世紀はじめからフランス革命までの政治や社会体制を旧体制という意味のアンシアン・レジームと呼びます。フランス革命で王権は滅びるわけですからルイ16世はブルボン家終幕の王となります。
ルイ16世は幼いころ非常に厳格な宗教教育を受けて育ちした。気弱でお人よしという以外に、あまり取り柄のない王でした。もし、ルイ16世が才気換発な王であったら 、もし世の中の動きを察知し素早く対応できる能力を備えていたらフランス革命は起こったろう かと考え ます。マリ・アントワネットにしても 確かに贅沢をしたかもしれない、わがままで周囲の人たちへの配慮が欠けていたかもしれないという一面はありますが、首を切られるほどの罪を犯したでしようか。
もしマリ・アントワネットがフランス王家出身の王妃だっ たら 、フランス人は彼女を断頭台に送ったとは思えま せん。マリ・アントワネットは幾世紀にも跨がリフランス王家が打倒を誓った宿敵ハプスブルクの姫でした。
「善良なパパ」と国民に親しまれていたルイ16世 が国外逃亡を図ったことが決定的でした。『フラン ス革命下の一市民の日記』を書き残した平凡な年金生活者、ギタール氏は次のように書いています。
1791年6月21日「フランスと世界の歴史のなかで永遠に忘れがたい日 。きょう 21日午前 1時 、国王、王妃、王太子 王女、王妹、王弟夫妻がひとりの衛兵にも気づかれずに 、こっ そリチュイルリー宮殿を脱け出し、外国への逃亡を計った。 パリじゅうが悲しみに包まれた」。そこには、国王に見捨てられたと悟り 、衝撃を受けた民衆の哀感がにじみ出ていま す。
パリは歴史に残るふたつのおぞましい流血事件を経験しています。ひとつは 16世紀、 新旧の宗教の対立から 起こった宗教戦争の総括ともいえる歴史に名高い 「サン・バルテルミ の大虐殺」です。新教徒の長アンリ 4世とカトリック のマルゴ 王妃の結婚を祝うため全国から 集まったプロテスタンは、ルーブル宮殿に隣接する サンジェルマン・ロクセロワ教会の鐘の音を合図にカトリッ派に急襲され殺数が始まります。セーヌ川は血で染まり、ルーブル宮殿の中庭には死体の山が築かれまし た。
ふたつめの大きな流血事件はフランス革命です。「目覚めた女たち」の戦いが始まりま す。 昨日まで市場で魚や野菜を売っていた女たちが、マリ・アントワネットの侍女である というだけの理由で、罪もない同じ女性の衣服を引き裂き首を切り落とし 、その首を槍先に刺して平然と行進します。
正気にかえったとき 、「目覚めた女たち」は槍先の女の顔をまともに見られたでし ょう か。現代でも人気グループのコンサートで観客が次々に卒倒する事件がありますが、フランス革命における女性たちの行動を見ていると皆が集団ヒステ ー状態にあったと思わざるを得ま せん。
アンシアン・レジームでは、女性は独立した個人としては認められず、父または夫に従属する存在でした。その女性たちが自分の意志で立ち上がったことには意味がありました。けれど 「自由」「平等」「博愛」をスローガンにパンを求め、群集の先頭に立ってパリから ヴェルサイユまで行進した女たち 、新しく生まれたフェミニストたちはフランス革命で本当の自 由や平等を勝ち取ったでしょうか。男の従属物としてしか認められなかった女たちが、フラ イパンや帯の代わりに鎌や鍬を持って戦うために勇ましく全面に躍り出たことはひとつの進歩ですが、女性の地位を確立するにはまだ遠い道のりが横たわっていました。
=たった一度の恋=
マリ・アントワネットというと「首飾り 事件」とスウェーデンの貴公子フェルゼンとの束の間の胸をしめつけられるような恋を思い出します。
宝石好きの王妃はマリ・アントワネットに限ったことではありません 。この時代のお洒落 の特徴は高く結いげた髪型にありました。とくに宮廷の貴婦人たちの正装では 、高く結い上げた髪の中に宝石やリボン、羽飾りを編み込むことが約束ごとになっていましたから、宝石は貴婦人たちにとって必需品であったといえます。
マリ・アントワネットはお洒落上手で彼女の選んだドレスや髪型は 、すぐに街に広がっ てゆきました 。庶民の娘たちは 、マリ・アントワネットのド レスや宝石を羨望の目で眺め、 新しいファッションに一喜一憂しました 。
憧れの気持ちが 、なにかのきっかけで嫉 妬に変わると憎しみという恐ろしい感情が生ま れます。そして王妃は憎しみの格好の標的となりました 。
ブルボン家との関係強化を願う母であり女帝であるマリア・テレジアの要請で 、王家の習いとはいえ愛のない結婚を承諾してマリ・アントワネットが遠いオーストリアから嫁いで来たのは15歳のときです。ま 恋も知らない年でし た。
フェルゼンとの恋は、マリ・アントワネットにとって、生まれてはじめての恋愛だったでしょう。王妃というのは宮廷にあって孤独な存在です。 ましてや異国です。そこへ全てを投げ打って愛を捧げる男が身近に現れたら、恋の虜になっても不思議はありません。
王妃一家を助けようとしたフェルゼンの努力にもかかわらずマリ・アントワネットはタンプル塔に囚われの身となり 、輝くばかりのプロンド はたちまち真白くなり、 老婆のような風貌に変わったと言われています。
セーヌ河畔に面した牢獄は、向こう岸にはマリ・アントワネットが愛したチュイルリー宮殿があります。ヴェルサイユを逃れてチュイルリー宮殿で過ごした自由で伸びやかな日々、フェルゼンとの束の間の逢瀬、どれも遠い過去です。パリではオペラや芝居見物で劇場に足を運ぶこともできました。
規則づくめで礼節にやかましい広大なヴェルサイユ宮殿と違って、パリの生活は宮殿も中規模で庭園の向こうには街のざわめきが息づいていました。
思い出が詰まった宮殿の対岸でマリ・アントワネットは囚人として 2ヶ月を過ごしました。 コンシェルジュリを訪れた者は、贅沢に慣らされた一国の王妃が、陰鬱な牢獄生活に耐えた強じんな精神力に驚かされるはずです。耐えたばかりか、マリ・アントヮネットは 、ショックのあまリー度は半病人のようになりますが、死を目前にしたとき本来のフランス王妃としての品格と威厳を取り戻します。そこが王妃たるゆえんです。
フランス革命はあらゆる要素が複合的にひとつの形となっ たもので、マリ・アントワネットの贅沢だけが原因ではありません。革命の必然性を民衆に理解させるには王妃の散財はわ かりやすい理由でした。
「彼女は本当に不幸です。けれど彼女は勇気を持っています。私は全力をつくして彼女を慰めました。それは 私の務めです。彼女は 私にとって完璧な女性です」とはフェルセンの言葉ですが、悲運な王妃にも、ひとときの幸せがあったことに思い至るとき心が和んできま す。
戸張規子(とばりのりこ)
学習院大学文学部大学院修了。 慶應義塾大学教授。
著書:『ルイ14世と悲恋の女たち』
『ブルボン家の落日』 ―ヴェルサイユの憂愁―
『フランス悲劇女優の誕生』― パリ・宮廷の華―
(全て、人文書院 )
訳書:フランス古典悲劇等。」
宝塚時代も含めて、花ちゃんが演じ分けるハプスブルクつながりの二人の王妃。エリザベートとアントワネット。エリザベートが最後まで自分以上に家族を愛することができず、あてのない旅から旅への生活を送り続け、孤独の中で生涯を終えたのに対して、最後は王妃としての誇りに目覚め国母としての役目を全うしようとしたアントワネット。ふんわりと可愛らしいアントワネットを花ちゃんは存分に体現していたと思います。
一幕の王太子ルイ・ジョセフが歩けるようになったと喜ぶ時の嬉しそうな表情、ルイ16世が仮面舞踏会にギロチンの模型を持ってきたときの、「まあなんと恐ろしい」っていう時は、その後たどる自分の運命を全く知らない、退屈な宮廷生活に飽き飽きした無垢で無邪気な表情。
二幕で王太子の死をきっかけに王妃としての役割に目覚め、革命がおこると亡命を手助けしようとするフェルゼンの申し出を断り、ルイ16世を運命を共にすることを選んだアントワネットの決意をうたう場面が終わると客席に背中を向けて舞台の奥へと歩んでいきます。その背中が、ベルばらの舞台でみた、大階段をのぼっていく=断頭台へと向かっていく、誇り高いフランス王妃として最後の務めを果たそうとする背中とが重なります。『1789』の舞台では、ギロチンが落とされる音が入りますが、アントワネットは、自分が最後にたどりつく運命をこの時悟り、覚悟をもって静かに受け入れていったという演出なのでしょうか。ロナンを好きになってしまったオランプに、自分とその人とのどちらかを選ばなければならないと語るときの表情はやさしくたおやかで慈愛に満ち溢れていました。なにもかも失ってしまった、文字通り、失うものなどなにもなくなったアントワネットが、最後は宝塚時代を連想させる囚人服で登場するときの、無垢な少女にもどったような表情がすごく好きです。
2007年と2008年に、パリに行ったとき、アントワネットが最後の日々を過ごしたコンシェルジュリには行きませんでしたが、贅沢に慣れた王妃が過ごすにはあまりにも過酷な場所だという説明を現地の日本人ガイドさんから受けました。ベルサイユ宮殿には普段着でくつろぐ国王一家の絵も飾られていました。(この時の写真はそのうちに・・・)。
ルイ16世を演じる増澤さんが書かれているブログも参考になります。ルイ16世。ベルばらでは脇役でした。どんな方が演じるのか、正直全く関心がなくお名前も存じ上げませんでしたが、民間人に本当は愛されていた、お人好しで錠前づくりと狩りが好きな国王をよく体現されていて、観劇のたびに関心度が増していきました。最後はアントワネットが自分のところに戻ってくることを観客は納得できたと思います。
http://nozomu.air-nifty.com/kerogu/2016/04/post-7be9.html
史実と虚構が巧みに混ざり合った舞台は不思議な世界です。
写真は初日前記者会見の花ちゃんアントワネット。エントレより転用しています。