たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

『シェイクスピアの面白さ』より(3)

2018年02月10日 20時18分40秒 | 本あれこれ
 

一言でいえば、エリザベス朝とは、古いものと新しいものとが、実に奇妙に、ときには多くの矛盾さえも含んで 、併存していた 時代といってよかった。古い ものとは、中世からの継承物としての世界観、考え方であり、新しいものとは、  いうまでもなく今日ルネサンスの名をもって呼ばれる大胆な人間解放、再発見のそれであった。(略) イギリスだけにかぎらず、西欧ルネサンスの場合は、なにしろ一方に中世を支えたキリスト教的世界観という構築物が、千年以上の堅牢さを誇るものであった上に、新しいルネサンスの人間解放が、これまた陶酔的とさえいえるほどの奔放、強烈なものだっただけに、その併存の様相もまたかぎりない豊富さと奇怪きわまる矛盾を学んでいたということになる。イギリスについていえば、上は宇宙観から、下は自然観、国家観、人間観にいたるまで 、神 中心に整然たる階級的秩序が一貫して行われているという考え方が、なお強くのこっていた一方では 、すでにマキアヴェリズムの厳しい現実主義や無神論が、あるいは少数インテリの間だけではあったかもしれぬが、とにかく大きな影響をあたえており、まもなくモンテーニュの懐疑主義まで、深い親近感をもって受け入られるようになるのである。

 この興味深いイギリス・ルネサンスの複雑さ、そして豊富さを、選択的というよりはむしろ包容的に、それこそ「自然に向けられた鏡」のようにうつしているのがシェイクスピアの作品ということになるのではあるまいか。

 エリザベス朝ルネサンスの豊富さ、豊饒さを、そのまま、あるがままに反映していたのがシェイクスピア作品であったといえようか 。しかしまたそうしたことを可能ならしめた――言葉をかえていえば、シェイクスピアを第一人者としてのエリザベス朝演劇の盛観、また演劇以外の分野でも、詩におけるエドマン ド・スペンサー以下の輩出など、かぎりない多様性の中での豊富さを実現させたものが、処女王エリザベス一世によって率いられたイギリス・ルネサンスの偉観であったと考えていいのではないか。現にシェイクスピア作品をほぼ年代順に 考えてみても、あの「夏の夜の夢」、「お気に召すまま」、「ヴェニスの 商人」、「十二夜」等々というような、 いわゆる浪漫喜劇と呼ばれる独特のジァンルの最高作品が、続々としてすべて書かれたのがこの時期であり、またドタバタ喜劇一歩手前のものとしても、「間ちがいの喜劇」、「じゃじゃ馬馴らし」、「ウィンザーの 陽気な女房たち」というような、あんな楽しい裕達無比のものが出たのもこの時期である。

 当然のことながら、処女王エリザベスは継嗣のないままに死んだ。あとはスコットランド王のジェイムズ六世が迎えられて、ジェイムズ一世と名乗った。いわゆるスチェァート王朝のはじまりである。血のつながりということで 、ゃっとなんとかつながるだけのを迎えて、国王にしたのだった。よくある手口である。

 このジェイムズ一世というのが変わっていた。(略)個人としてなら、変りものくらいですむところだろうが、国王となるとやはり困ることもぁる。とりわけエリザベスのあとだったからである。

 もっとも問題だったのは、彼がいわゆる王権神授説の忠実な信奉者だったことである。もっともこれは、例のフランス王ルイ十四世なども同様で、当時王者間のある意味で流行理論であったかもしれぬが、ジェィムズ一世の有名な発言として、「 臣下の身分で 国王の行為を私議したり、国王の自由に制限を加える などというのは、僣上沙汰である」というような言葉まであるにいたっては、ゃはりただごとではすまなかった。もともと人嫌いだった上に、こうした思想まで加わったのでは、議会、ことに下院とは、ことごとに衝突した。手を焼くと解散を命じて、極力議会を開かないことにした。

 エリザベスの政治のやり方も、しばしばテューダー・デスポティズム(専制)の名で呼ばれる。だが、ジェイムズのスチェアート・デスポティズムと絶対にちがう点は、エリザベスは議会を通じ、あるいは議会を超えてまで直接に国民と結びついていた。芝居などまで民衆といっしょに楽しんだ。ところが、ジェイムズのそれは、完全に国民を疎外してのそれだった。そこがたいへんにちがう。これでよく行くはずは 、まずなかった。もちろんほかにも原因はあったが、社会的雰囲気がまず変ってきた。

「ヴェニスの商人」の冒頭に、アントーニオのセリフとしてこんなのがある。
「実際、なぜこう気がふさぐのか、ぼくにもわからない。クサクサする。君たちも同じだというのか? どうして取っつかれたのか、どこから生れたのか、 まるでわからない。気鬱も気鬱、どれがほんとの自分なのか、それさえわからない」

 原因のわからない漠然たる憂鬱、しかも誰もがなんとなく取り憑かれている憂鬱――イギリスの後期ルネサンスで大きく問題になる時代病、憂鬱症のいわば走りとして、しばしば注日される一節である。「ヴェニスの商人」といえばい1950年代の後半に入ったばかり、いいかえればまだルネサンスの陶酔たけなわなりしころに書かれているわけだが、実はその反面に早くもこんな憂鬱の兆候もあらわれているのである。浪漫喜劇の明るさになんとなく影が射しそめ、さらに世紀の変り目になると、シェ イクスピア以外にも、にわかに主人公の 憂鬱を主題にした悲劇がふえ出してくる。「 ハムレット」もまたその代表的な一例であった。そして1598年ごろには早くも、「黄金時代は去った。鉄の 時代もすぎた。鉛の時代だけが残された。どこでも貧乏人が苦しんでおり、どちらを向いても不幸ばかり、『気前』の旦那の死んでからは」というような小唄が流行していたという。

 原因を数え出したらきりがないが、 一口でいえば、やはり高度成長のひずみがようやく出かかったとでもいうことだろう。他人事ではないのである。スペィンの野望を挫折させて国威はあがり、海外への冒険投資で世界の富はかきあつめていたが、一方では貧富の落差はようやく激しさを加えていた。いわゆる囲い込み(地主が大きな土地を柵などで囲い込み,小農民の入会権を奪うこと)がとみにはなはだしくなるのもこの時期だった。また復員兵士の失業問題や戦傷兵士の浮浪化問題も重大化を見せてきた。画期的に厳しい「救貧法」が制定されるのが、エリザベスの死ぬ二年前の1601年である。

 もちろん、これらのことは、ジェイムズ一世の責任でもなんでもないが、こうした情勢の中に登場して、しかも前にも述べた通りの彼の政治姿勢だった。時代閉塞の兆は蔽うべくもない。そもそも国王がひとり変ったからといって、そう社会相が一変するなどということはあるはずもないわけだが、そうした表にあらわれた事実の背後に、時代の空気をかぎつけるということになると、やはりおそろしいものであり、それがことに演劇、文学などには微妙に反映されるのである。シェイクスピア晩年の諸作品は、実にこうした時代相変化の中で物されていたと見てよい。」

 (中野好夫著『シェイクスピアの面白さ』より)


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『レディ・ベス』を観劇したあとで、なんだか今の日本の様相に通じるものがあるのかなという気持ちから引用しました。
シェイクスピアの面白さ (講談社文芸文庫)
中野 好夫
講談社