たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

2018年、東京初公演100周年宙組誕生20周年

2020年03月07日 23時23分16秒 | 宝塚
 2018年、わたしにとって宝塚大劇場に初めて遠征した記念の年となりました。

「1914年(大正3年)4月1日、宝塚新温泉パラダイス劇場において「婚礼博覧会」の余興として宝塚少女歌劇第一回公演を開く」

(『宝塚戦略-小林一三の生活文化論』より)

1918年 初の東京公演 

 宝塚での初公演から4年後、旧帝国劇場で待望の東京公演が実現。初公演の好評を受け、その後、関東大震災で劇場が焼失するまでの毎年、同劇場での公演は続きました。

1934年 旧・東京宝塚劇場が日比谷にオープン

 こけら落とし公演は、傑作レビュー『話詩集』を含む全3本を上演。東京の常設劇場の誕生により、東京でも宝塚歌劇の人気は着実に高まりました。

1944年 戦争により劇場閉鎖

1955年 旧・東京宝塚劇場での公演を再開

1997年 旧・東京宝塚劇場63年の歴史に幕

 老朽化による建て替えのため12月に閉館。年末3日間にわたってサヨナライベント『アデュー・東京宝塚劇場』を開催し、長年親しんだ劇場に別れを告げました。

1998年 TAKARAZEKA1000days劇場がオープン

 新劇場完成までの専用仮設劇場として開場し、『WEST SIDE STORY』で幕を開けました。この劇場から念願だった「東京での1年を通じての公演」が実現。仮設とはいえ客席数2,031席を有する立派な劇場でした。

2000年 TAKARAZEKA1000days劇場が役割を終え閉館

2001年 新・東京宝塚劇場が誕生

 1月1日、新世紀の幕開けとともに、現在の東京宝塚劇場が開場。こけら落とし公演では、『いますみれ花咲く』『愛のソナタ』を上演、宝塚歌劇の輝かしい未来を感じさせる華やかなスタートとなりました。

2018年 東京初公演100周年 宙組誕生20周年

 この記念すべき年、東京国際フォーラム公演で『WEST SIDE STORY』を上演。東京通年公演を実現した1000Days劇場・こけら落とし公演の演目で宙組誕生20周年の幕開けを飾ります。さらに、大劇場公演では、宙組の誕生時に上演したレビュー『シトラスの風』が新バージョンで登場します。両公演に挑むのは新トップコンビ率いる新生宙組。こうして、宝塚歌劇の伝統のバトンが受け継がれていきます。







 昨日、宝塚歌劇が3月9日から公演再開、梅田芸術劇場では『アナスタシア』を予定通り上演と発表されました。観客を信じてくれているのだと思います。宝塚も東宝も大好きな大好きな心の糧、観劇は不要不急の外出ではなく人生に必要なとっても大切な用事。無事に幕が上がり、無事に幕が降りていくことを祈ります。



いちばんこわいのは・・・

2020年03月07日 15時10分45秒 | 日記
 いちばんこわいのは人から人への攻撃、言葉の暴力。一日も早くまた旅立つことを目指す。前向きになれることはなにもない。これ以上傷つく前にまた旅立っていきたい。


熊本市長 大西一史

@K_Onishi


人類がウイルスに攻撃されて色んな人が参っちゃってるので、こんな時ぐらいヒトがヒトを攻撃するのやめませんか。免疫力落ちるし。こんな時は部屋で好きな音楽聴いたり好きな映画を見たり好きな本を読んだり好きなコントを見たりして免疫力上げ上げで何とか収束するのを待ちましょう。私は鼻うがい


午前1:15 · 2020年3月7日·Twitter for iPhone

『ちひろのことば』より_宮沢賢治と私(「花の童話集」によせて)

2020年03月07日 12時14分36秒 | いわさきちひろさん
「私の娘時代はずっと戦争のなかでした。女学校をでたばかりのころは、それでもまだ絵も描けたし、やさしい美しい色彩がまわりに残っていて、息のつけないような苦しさはなかったのですけれど、それが日一日と暗い、おそろしい世の中に変わっていきました。そんなころに私ははじめて宮沢賢治の作品にふれたのです。

 草がぽしゃぽしゃはえていたり、青いりんごの色に暮れていく山なみ、むこうの丘に黒ぐろと消えてのこっている松の群れ、日本の東北の山野のなつかしい草穂が、私の胸をうってせまり、素晴らしい交響楽のゆたかな音のなかにいる時のように、私にはもう外のものはなにもきこえないような気がしました。

 ある日のこと「お姉さんは宮沢賢治の話しかしない」と一つ年下の妹が軽蔑をこめて私の話をさえぎりました。それは食事の最中でしたが、私は急に食欲をうしないました。私は家の人と顔をあわす食事どきなど、きまって宮沢賢治の話しかしなかったそうです。宮沢賢治の話がそんなにゾッとすることだとは考えられなかった私には、それはショックなことでした。そして以後、家の中では、私はひそかにその作品を読み返しているだけになりました。

 あんなに命のように大せつだった宮沢賢治も年月がたっていまはもう冷静にみられるようになりましたが、20年の童画家生活のなかで、私はまだ一度もその作品のさしえを描いたことがなかったのです。はじめのうちは彼の作品が素晴らしすぎて手も足もだせないと思っていたのですが、いまこうして童心社からたのまれてみると描きたい気持ちがむらむらとおきて、そんな謙虚なことはいっていられなくなりました。たいていの人は私と宮沢賢治は異質で(もちろん私のていどがひく過ぎるという意味でしょうが)どうなることかと懸念されているようですけれど、私が若いときから宮沢賢治を好きだったということは、通じるところがあるからだとそこは自信をもちます。私ふうに好きなように描いたので、それが私にはうれしくてなりませんでした。この本は私の大せつな宮沢賢治です。」



 いわさきちひろさん、1974年(昭和49)原発性肝ガンのため死去、55歳。

 ちひろさんが旅立たれた年齢をまたひとつ飛び越えてどうにか生き延びているわたしが、若い頃は読んでもわからなかった、花巻のイギリス式海岸と名付けれらた景色をみても意味がわからなかったわたしが、宮沢賢治の作品をゆっくり読み返してみたいとこの頃。なぜなのかことばでうまく言い表すことはできませんが、生き様もふくめて、宮沢賢治の作品を時代が求めているように思うこの頃。