たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

1995年ミュージカル『回転木馬』‐『回転木馬』と『リリオム』

2021年06月23日 15時49分29秒 | ミュージカル・舞台・映画
1995年ミュージカル『回転木馬』‐制作スタッフ
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/2a232f035986584f7bb3f08be61aa36b

1995年帝国劇場公演プログラムより

「『回転木馬』と『リリオム』-倉橋健(早稲田大学名誉教授)

『回転木馬』は、ハンガリーの劇作家で小説家でもあるフェレンツ・モルナールの戯曲『リリオム』(1909)をミュージカルにしたものである。

 モルナールは1878年にブダペストの富裕なユダヤ人家庭にうまれ、はじめ法律を学んだが、小説『パール街の少年たち』(1906)、戯曲『悪魔』(1907)で作家生活にはいり、第一次世界大戦中は従軍記者として活動し、『従軍日記』(1916)を発表した。戯曲としては『リリオム』のほか、『近衛兵』(1910)や『芝居はおあつらへむき』(1926)が代表作であるが、ナチに追われてアメリカへと亡命、いくつかの劇と自伝『亡命の仲間』(1950)を書いたあと、1952年にニューヨークで死んだ。

 <リリオム>とは、ハンガリーのこおば、つまりマジャール語で<ならず者>という意味で、ブダペストの初演は、現実と幻想の融合という手法の新しさのゆえに、一般には受け入れられなかったが、表現主義の本家ドイツで上演されて高い評価を得、1920年にはロンドン、21年にはニューヨーク、23年にはパリで好評を博した。

 日本では、1927年に築地小劇場が、1933年に築地座が、ともに友田恭介のリリオムで上演したが、興味をひくのは、1935年の9月、シンパが東京劇場で川村花菱の翻案により、『星を盗む男』と題して取りあげていることである。もちろんこれは、新劇よりは大衆的な、従来のシンパよりは辛口の演劇-いわゆる<中間演劇>をめざした井上正夫の出し物であるが、『回転木馬』のビリーにあたる曲馬団の呼び込み利吉を井上、お袖(ジュリー)を花柳章太郎、おちよ(ルイーズ)を森赫子、無頼漢鉄五郎(ジガー)を柳永二郎、鞄を持った男(バスコム)を小堀誠といった配役で、観客に良質な作品を提供しようという当時の新派の意欲がうかがえる。



 1921年のシアター・ギルドによる『リリオム』のアメリカ初演では、リリオム(ビリー)をジョゼフ・シルトクラウト、ユリー(ジュリー)をエヴァ・ラ・ガリアンが演じ、その後2年にわたって各地を巡業した。エヴァは、イプセンやチェーホフをふくむ多くの作品に出演して知性と美貌をうたわれた名女優、ジョゼフは『アンネの日記』のフランク氏を映画でも演じ優れた脇役になったが、ともに『リリオム』が出世作であった。

 シアター・ギルドは、1910年代の小劇場運動の代表的劇団ワシントン・スクエア・プレイアーズ(1915~18)を改組して、1919年に設立され、ヨーロッパの近代劇やアメリカの新しい劇作家の作品を上演。25年にはギルド・シアターを開場し、アメリカ演劇の発展に貢献した。1931年、ハロルド・クラーマンやリー・ストラスバーグ、フランチョット・トーンなどの若い演出家や俳優が脱退してグループ・シアターを結成したあとは、劇団としての活動を縮小し、プロデュース団体となった。

 シアター・ギルドの製作責任者テリーザ・ヘルバーンは、1931年に上演したリン・リッグズの『ライラックは緑に』のミュージカル化をリチャード・ロジャースとオスカー・ハマースタイン二世に提案し、これが大成功した。1943年の『オクラホマ!』である。柳の下の二匹目のドジョウをねらったヘルバーンはさらに、『リリオム』をミュージカルにしては、と二人にもちかけた。これには『リリオム』が、映画でもよく知られたバージェス・メレディスとイングリッド・バーグマンという配役で、1940年に再演されて好評だったこともある。

 ロジャースとハマースタインは、物語や人物たちには強い興味を示したが、当時ハンガリーは枢軸国の一部にくみこまれ、ブダペストを舞台にしたミュージカルが一般に受けいれられるとは思えない、政治的事情があった。じじつ1944年の春には、ハンガリーを占領したドイツ軍が、在住のほぼ全員にあたる40万人のユダヤ人を虐殺した。

 そこでテリーザは、場面を中央のブダペストから、アメリカのルイジアナ州のニュー・オリンズあたりに移してはどうか、と言った。ここならヨーロッパ的な異国情緒も残っているし、入りオムをクリオール人(フランス系かスペイン系の白人と黒人との混血)に設定すれば、彼の屈折した心情も納得できるのではないかというわけである。しかしハマースタインは、ルイジアナ地方の方言に不案内だし、それを使って歌詞を作る自信がないと断った。こんどはロジャースが、場所をニューイングランドにして、漁師や船乗りや女工のいきいきとした生活を描けば、『オクラホマ!』と対照的な作品になるだろうと、と提案した。

 企画は進行したが、ニューヨークに亡命中の原作者の許可を得る必要があった。モルナールは、『ラ・ボエーム』が『トスカ』『蝶々夫人』の作曲家プッチーニが『リリオム』のオペラ化を申し出たとき、「プッチーニの『リリオム』ではなく、モルナールの『リリオム』として名を残したい」と言って、拒否したことがある。テリーザはモルナールに『ライラックは緑に』を読ませてから、『オクラホマ!』を見に連れていった。モルナールは、ロジャースとハマースタインがこんなふうに原作を扱ってくれるならと、承諾した。

 こうして出来上がったミュージカル版『リリオム』は、題名も『カルーセル』(『回転木馬』)となり、時と所は1873年から88年にかけてのメイン州、ヒロインは女中から紡績工場の女工にかわった。

『回転木馬』は1945年の4月、『オクラホマ』とおなじくルーベン・マムーリアンの演出、アグネス・デ・ミルの振付により、マジェスティック劇場で幕をあけ、2年間のロングランを記録し、さらに2年間地方巡業をおこなった。この初演のとき、『オクラホマ!』もセント・ジェイムズ劇場で続演中だったkら、ニューヨークの西44丁目の向かい合わせの劇場で、ロジャースとハマースタインの作品が二つ、競演するかたちになった。
                                      →続く