「‐西行のねがい‐
西行は、平泉まではたしかに来ています。
聞きもせず束稲(たばしね)山のさくら花
吉野のほかにかかるべしとは
の歌を残しています。これは実景の歌でしょう。そこから北へは、足を運んでおりません。文化みちのくは平泉まで。そういう考えが、ひろく文人(ぶんじん)・墨客(ぼっかく)のあいだにひろまっていたのです。しかし、そのように、だれも足を踏み入れないところだから、どんな奥深い未知のロマンが、そこに人知れず香っていることか、ぜひおとずれてみたいものだというねがいが、かえってつよまってきました。
みちのくの奥ゆかしぞおもほゆる
つぼの石ぶみ外の浜風
西行の歌は、そういうねがいをよくうたっております。
つぼの石ぶみ。近世、これを「壺の碑」と書き、多賀城碑をこれにあてて考えていました。『おくのほそ道』にも、そうあります。しかし、これは、西行の歌にもあるように、「みちのくの奥」にあるとされていた歌枕です。多賀城のようなみちのく中原(ちゅうげん)にあったものではありません。つぼは地名、都母と書きました。今日の青森県の上北郡方面のエゾ村の一つだったのです。坂上田村麻呂がこの方面まで遠征、エゾを征服して、その地に、弓の先で「日本中央」と彫った石碑を建てて、奥みちのくの名所(などころ)とされていたはなしが、平安末期にはあるのです。それで「日本中央碑」ともいうのです。この方面まで田村麻呂が来た証拠はありません。しかし、それから10年ほどして、文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)という人が弘仁(811)年、今日の岩手県北二戸郡方面のにさたい村、閉伊郡方面のへ村などを征討したとき、都母村も出てきます。ですから、9世紀初期、この方面まで、古代国家の経営が及んだことは、事実です。ただ、郡を建てて内国扱いにするまでにはいたらなかったのです。」
「‐「日本中央」‐
昔からこの壺の碑が話題になったのは、本州のさいはての地なのに「日本中東」というのは、どういうわけかということからでした。その珍しさから、歌でもいろいろによまれたのです。みなさんも不思議でしょう。八百年ほど前の顕昭(けんしょう)という歌学者は、こう解釈したのです。「みちのくは、陸で言えばさいはてだが、しかし、その北のエゾが千島(今日の千島列島)」まで入れて考えると、およそ日本のまん中ぐらいになるので、そういったものだろう」。古代や中世でも、ずいぶん雄大な地理学をもっていたものだと感心しますが、これはこじつけです。これが中央ならば、エゾだの道の奥だのということは、言わなかったはずです。これの日本は、われわれの使う日本ヤマトとはちがう、もう一つの日本のことだったのです。はしなくも、この歴史紀行は、日本のさいはてにおいて、日本ヤマトでない日本を発見することになったのです。
この日本は、エゾの国の意味の日本です。東日本ないし東北日本がまだヤマト国家の支配の中に入っていなかったとき、その人たちの国は、日高見国(ひたかみのくに)といっていました。それは二字で日本(ひのもと)の国ともよばれたと思われるのです。倭を称していたヤマトが日本をヤマトの国号にするようになって、この日本(ひのもと)国は、エゾの国とか道の奥とか、おとしめられた名にあらためられるのですが、しかし、東北北部から北海道にかけては、中世から近世まで、このエゾ日本(ひのもと)の称は、ずっと残り、秀吉の手紙などにもはっきり見えているのです。「日本中央」は「エゾの国中央」ということだったのです。
新幹線を盛岡で乗りかえ、東北本線を青森行特急はつかりに乗りつぎますと、三沢と野辺地の中間に東北町というところがあります。ここに甲地(かっち)というムラがあって、その日本中央碑というものを伝えているのです。もともと、そういう碑がほんとうにあったかどうかわからないのですから、いまあるものが本物かどうか、議論する必要はないでしょう。」
「‐もう一つの日本‐
西行がその奥ゆかしさを、ぜひきわめてみたいとねがったものにもう一つ、外ヶ浜というのがありました。これは、青森県の陸奥湾地帯にことをいうのです。ヤマトに始まり、あずまを経営し、みちのく入りした古代国家にとっては、本州のはずれは、国のさいはてでした。そのさいはての海の意味で、外ヶ浜だったのです。そこは、国の政治のまだ届いていないところです。しかし、安倍氏や藤原氏(平泉)のように現地の豪族政治は、確実にこの方面まで支配を及ぼし、この方面と平泉などとの物資の交流は、大規模にはじまっていました。平泉の二代藤原基衡が、りっぱなことでは国内一の評判のあった毛越寺(浄土庭園)の金堂(本堂)にまつる本尊をつくってもらうために、都の仏師におびただしい贈物をしたことが、『吾妻鏡』(鎌倉時代の記録)にのこっています。そのなかには、海豹(あざらし)の皮60予枚もあったといいますが、これを海を越えてエゾが島(北海道)方面のものでしょう。糖部(ぬかのぶ)の駿馬(しゅんめ・めいば)50疋(ぴき)ともあります。糠部は、今日、一戸・二戸のようなナンバー地名でよばれている地方の総称で、岩手県北部から青森県東南部にかけて、まさにみちのくの奥地帯にあたります。また、希婦細布(けふのせばぬの)二千端ともありますが、これは今日の秋田県鹿角(かずの)市方面の、幅の狭い特産の布をいいます。ここも、岩手・青森・秋田三県の県境地帯。十和田湖のすぐ南ですから、やはりみちのくの奥世界に属します。
平安末期になりますと、こういうみちのくの奥まで、交流がはじまり、その物資が都にも届いて、都人同士の間に、奥みちのく・奥エゾ世界に対する異常な関心をよびおこすのです。これは、古代末期における一つの異国趣味(エクゾテイシズム)というようなものでした。古代のエミシとかエビスとかよばれた蝦夷と区別された、別種の蝦夷が、あらたにエゾの名で登場し、和歌でもさかんにそのエゾがよまれるようになるのは、この流行を反映したものだったのです。この新型エゾは、青森県方面から北海道にかけて問題になるのです。おそらくアイヌ系の蝦夷になるものです。東北でも南の方面では、これが人種的にヤマト系和人と同じなのかちがうのか、はっきりしないのですが、エゾとよばれている蝦夷については、アイヌ系だろうことがほぼはっきりするのです。
西行の、外ヶ浜をきわめ、みちのくの奥の奥まで、知られていない未知をさぐりたいというねがいは、こうして、ようやくたしかなものになりはじめたもう一つの日本にたいする異常な関心を示すものだったのです。」
「‐東北の北と南‐
ヤマト日本でない、もう一つのエゾ日本。自然的にも歴史的にも、そういうふうに大きく分かれているのが、岩手・青森県堺あたりです。北部東北を南部東北に結んでいた大動脈の北上川は、七時南(ななしぐれ)山に源を発します。このあたりから、東北本線の奥中山というあたりの十三本木(じゅうさんぽんぎ)峠を東西に結ぶ線が南に開く東北の北限です。それは盛岡と八戸のちょうど中間あたり、岩手県の岩手郡と二戸郡の堺付近になります。ここから北では、川は北流になります。地図を見てください。盛岡の北東、閉伊(へいい)郡よりに、馬淵(まべち)川は北方向をとり、二戸ー三戸というふうに流れて、八戸で海に注いでいるのです。その支流ですが、これとほどんと同じ規模の安比(あっぴ)川というのが、峠の北を西から東へ流れて、南向きの東北と、北向きの東北を、完全に二つに分けています。安比川の西では、米代(よねしろ)川が、西方日本海を目ざして流れます。出羽国秋田県側では、この川によって、南型風土と北型風土とが、最終的に分けられることになります。
海では津軽海峡のことを、ブラッキストン・ラインというふうによんで、植生(植物の集合のしかこた)の景観が南北で大きくちがうことが注意されています。このラインを、もうすこし南下させ、本州にくいこんだ北海道型風土をもし区画するとしますと、この安比‐米代ラインが、それになるとおもわれます。西行が「みちのくの奥ゆかし」とムード的によんだものに、かりに歴史地理的な線引きをすると、そんなことになるかもしれません。いろいろな東北があるのです。」
(岩波ジュニア新書『東北歴史紀行』109‐116頁より)