「作者鴨長明は清盛が平家一門の棟梁となった年(1153年)に生れた。したがって、その成長期は平家の隆盛期と一致しているし、彼の20代はやはり平家の全盛期であり、30代に平家滅亡と鎌倉珈琲の成立を迎えるわけである。
そうした動乱期に、小貴族の家に生れ、この時代の貴族社会の没落に伴う様ざまの社会変動のなかに翻弄されたのが、彼の一生である。そして、それはこの時代の大部分の知識人たちの運命を代表している。
彼の家は鴨野神社の神官であった。しかし、彼の父は早く死に、孤児となった彼は父の職を継ぐことができなかった。一族の者にその職を奪われてしまったのである。そうして保護者を失った彼は、少年期に従五位以下に叙せられたまま、終生、官位に就くことはできなかった。30代には生家からも追われて、小さな庵に移り住んだ。
40代には後鳥羽院の仙洞に出入りする歌人となり、次いで和歌所の寄人(よりうど)にまでなることができて、彼の不遇の生涯は、ようやく薄ら日が射すようになったかと見えたが、またそうした彼の人生を、冷酷な挫折に追いこむべき事実が起った。
というのは、当時の最高権力者であった後鳥羽院は、長命を引き立てようとし、ちょうど、欠員のできた下鴨社に彼を神官として任命させようとして世間でもその噂が拡まった。ところが、鴨野社の長官がその動きを予知して、妨害工作を行い、彼の任官は流れてしまった。
それが彼に再起不可能な打撃となった。彼は世を捨てて、大原の里に移り住んだ。そうしてさらに、後になって日野山の奥に方丈(一丈四方)の極く小さな庵を作って、そこに籠ることになる。
その隠者生活のなかで、自分の一生を振り返って、悲観的な人生観を書き綴ったのが、この『方丈記』である。
彼にとっては少年時代から、父の職を襲うことが念願であり、それが困難なら困難なほど妄執となって、一生を支配した。彼はその希望のかなえられないのを不遇と感じ、その代りに詩歌管弦に精進することで、不服を克服しようとし、現に当代の代表的な歌人となることができたけれども、それでも50歳になって、最後の神官就任の機会の失われたことが、人生を下りてしまう契機となった。
そのような彼は隠者生活に入ってからも、仏道を一途に求めるというふうにはならなかった。自分の一生は失敗であるという認識が、いつまでも諦めきれない想いとなって、彼の胸を噛んでいた。
『方丈記』はだから欣求浄土(ごんぐじょうど)を説く宗教書とはならず、不幸なのは自分一個ではなく、人生そのものであり、全ての人は流転し没落していく行くのだと、彼の実見した様ざまの有為転変(ういてんぺん)の事件を並べたてることで、むしろ彼自身の満たされぬ人生を慰めようとしているように見える。
したがってこれは、痴愚の書であり、悟脱の書ではない。が、痴愚の書であるが故に、その後の多くの時代の知識人たちの不遇を、密かに慰めて来てくれた、と言えるだろう。
特に今世紀になって、第二次大戦中、多くの都市が空襲で焼かれ、食糧難に苦しめられ、死者を路傍に見ることが日常生活となった時、この書物によって精神の崩壊から救われた人びとは、少なくなかったろう。
その代表的な例が伊藤整の『鳴海仙吉』のなかに見られる。
なお、この『方丈記』は10世紀の慶滋保胤(よししげやすたね)の『池亭記』という文章の影響が著しいということを、学者たちによって指摘されている。慶滋保胤も鴨氏の一族であった。慶と賀、滋と茂とは同意であって、慶滋はしたがって賀茂である。長明はこの先祖の作品に深い崇敬の念を抱いていたらしく、『方丈記』の後に書いた『発心集(ほつしんしゅう)』も保胤の『日本往生極楽記』に啓発された跡が明らかであるという。」
(中村真一郎『源氏物語の世界』昭和43年6月30日発行、昭和61年8月5日第5刷、新潮社、141-144頁より)