たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

夏目漱石『草枕』より

2023年04月22日 15時46分35秒 | 本あれこれ
「山路を登りながら、こう考えた。

 知(ち)に働けば角(かど)が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地(いじ)を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。

 住みにくさが高(こう)じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画(え)ができる。

 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向こう三軒両隣にちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。

 越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛(くつろ)げて、束(つか)の間(ま)の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職ができて、ここに画家という使命が降(くだ)る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするがゆえに尊い。

 住みにくき世から、住みにくき煩(わずら)いを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるは音楽と彫刻である。こまかにいえば写さないでもよい。ただまのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌もわく。着想を紙に落とさぬともきゅうそうの音(おん)は胸裏(きょうり)に起こる。丹青(たんせい)は画架に向かって塗抹(とまつ)せんでも五彩の絢爛(けんらん)はおのずから心眼に映る。ただおのが住む世を、かく観じ得て、霊台方寸(れいだいほうすん)のカメラにぎょうきこんだくの俗界を清くうららかに収めうれば足る。このゆえに無声の詩人には一句なく、無色の画家にはせっけんなきも、かく人世を観じうるの点において、かく煩悩を解脱するの点において、かく清浄界(しょうじょうかい)に出入(しゅつにゅう)しうるの点において、またこの不同不二(ふどうふじ)の乾坤(けんこん)を建立(こんりゅう)しうるの点において、我利私欲の覇絆(きはん)を掃蕩(そうとう)するの点において、ー千金の子よりも、万葉の君よりも、あらゆる俗界の寵児(ちょうじ)よりも幸福である。

 世に住むこと20年にして、住むに甲斐(かい)ある世と知った。25年にして明暗は表裏(ひょうり)のごとく、日のあたる所にはきっと影がさすと悟った。30の今日(こんにち)はこう思うている。ー喜びの深きとき憂(うれい)いよいよ深く、楽しみの大いなるほど苦しみも大きい。これを切り離そうとすると身が持てぬ。片づけようとすれば世が立たぬ。金は大事だ、大事なものがふえれば寝る間(ま)も心配だろう。恋はうれしい、うれしい恋が積もれば、恋をせぬ昔がかえって恋しかろ。閣僚の肩は数百万人の足をささえている。背中には重い天下がおぶさっている。うまい物も食わねば惜しい。少し食えば飽き足らぬ。存分食えばあとが不愉快だ。・・・

 余の考えがここまで漂流して来た時に、余の右足(うそく)は突然すわりのわるい角石(かくいし)の端(はし)を踏みそくなった。平衡を保つために、すわやと前に飛び出した左足(さそく)が、仕損じの埋め合わせをすると共に、余の腰は具合よく方三尺ほどな岩の上におりた。肩にかけた絵の具箱が腋(わき)の下からおどり出しただけで、幸いと何の事もなかった。」


(1929年7月5日第一刷発行『草枕』岩波文庫、5-7頁より)


ただ一種の美しい感じが読者の頭に残ることだけを意図して書き、自ら俳句小説と名づけた漱石のロマンティシズムの極地を示す名編。


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