たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

2008年8月‐12月『フェルメール展』_光の天才画家とデルフトの巨匠たち(3)

2018年03月25日 13時24分08秒 | 美術館めぐり
会場で購入した公式ガイドブックより

「デルフトの社会と文化

 デルフトには、17世紀初頭、82の醸造所があった。しかし、1654年、画家のヤン・ステーンがデルフトの「デ・スラング(蛇)」なる醸造所を賃借したとき、その数は3分の2にまで減少していた。ヤン・ステーンの試みはこの産業特有の投機的行為だったが、3年後に破産の憂き目にあった。中世の時代にすでにデルフトの特産となっていた毛織物は、市の指導者たちが外国の手工業者を引きつけようと努力したにもかかわらず、次第に衰えていった。レイデンでは労働カルテルが歓迎されていたのに対し、デルフトでは反対に、阻止されたのがその一因であった。1620年代、デルフトはイギリス人の布地輸入業者の流入によって一時的に利益を上げた。しかし、間もなく国際貿易の紛争が生じて彼らは追い払われ、その多くがロッテルダムに居を移した。織物産業のうち唯一繁栄をみたのは贅沢品であった。フェルメールの父、レイニール・ヤンスゾーンがデルフトで宿屋の経営に転じる前、アムステルダムでキャファ織り(薄手の絹と繻子)の職人として修業したことを思い出そう。織物産業で最大の成功を収めたのは、すべてのなかで一番贅沢な輸出品、すなわちタペストリーであった。1593年、フランソワ・スピーリングがデルフトに最初のタペストリー製作所を設立し、他の者がこれに続いた。スピーリングは、主としてバーグと宮廷に対して持っていたコネクションを通じて、タペストリーの組物を首尾よく全国会議と外国の高位高官に売ることができた。しかしタペストリーの生産は大変費用がかかり、市場も非常に限られていたので、比較的少数の地方職人しか雇わなかった。

 デルフトの贅沢品の輸出産業は、数名の熟練した金銀細工師も擁していたが、その数と収入は、より大規模な地方産業の不況を埋め合わせるほどのものではなかった。17世紀のデルフトでより大きな成長を遂げた産業は陶器であった。」

                                 まだまだ続きます。

この記事についてブログを書く
« 花組『ポーの一族』_美の宝石... | トップ | 花組『ポーの一族』_終わって... »

美術館めぐり」カテゴリの最新記事