「1858年夏、シシーはお産の前の数日をさわやかなラクセンブルクで過ごしていた。ところが出産は予定日より早まった。8月21日の午後、急に陣痛が始まったのである。大至急ウィーンのフランツ・ヨーゼフと大公妃に知らせが送られた。
(略)
その15分後、扉が中から開いて大公妃がそっとささやいた。「男の子ですよ、フランツ・ヨーゼフ」
「大丈夫でしたか」これが皇帝の第一声。待望の世継ぎが生まれた、ということはとっさには意識にのぼらなかったのだ。
「母子とも無事です。難産だったからシシーはだいぶぐったりしてますが、もう入っていいでしょう」
入ってみると、シシーが憔悴しきっているので、フランツ・ヨーゼフはぎくりとした。おずおずとシシーがかぼそい声で尋ねた。「また女の子だったの?」
「ちがうよ、シシー、男の子をさずかったんだ」
(略)
フランツ・ーゼフは、皇位継承者ができて喜びもひとしお、その若い母親に世界中の宝石を贈ってやりたいほどだった。皇太子誕生の報は国中で熱狂的に迎えられた。気前よく施し物が配られる、との期待からである。フランツ・ヨーゼフの見るところ、息子は格別美男子というわけではないが、まるまるといかにも丈夫そうだった。誕生第一日目にして早くも、彼は息子のルドルフを陸軍大佐に任じた。洗礼にさいしては、“金羊毛皮勲章”をその揺りかごに入れ、誇らしげに告知した。「われは欲するものなり、神の恩寵によって賜った男子が、この世に参入する日よりわが勇敢なる国軍に所属せんことを」
(略)
ルドルフが成長するにおよび、(息子がのちに欲するかどうかもかえりみず軍人になるよう定めた皇帝の)専断はしばしば父子論争のきっかかとなる。」
(マリールイーゼ・フォン・インゲンハイム 西川健一訳『皇妃エリザベート』295-296頁より。)
『ルドルフ・ザ・ラスト・キス』のプログラムに掲載されている少年ルドルフの表情は、孤独の中を漂っているように見えます。瞳がすごくさびしそうです。誕生した、その時父フランツは目に入れても痛くないほどの歓びにあふれていただろうに、親子のすれ違いの伏線はすでにひかれていました。それは、結果的にあとでそういうことだったのだと気づくことしかたぶんできない。気づいた時にはすでに間に合わない。親子だからこそ、家族だからこそわからない。結果的に息子の方が先に旅立っていくことになってしまった。それは結果でしかない。誕生した時にそんなことを望んだはずはないし、そんなことを想像することすらできなかった。ハプスブルクの未来の皇帝として、ルドルフが自分で選び取ることができなかった運命、あがない切れなかった運命。
少年ルドルフが手にする銃は、2012年の公演ではおもちゃのようなものだったと思います。孤独な少年に、「呼んでくれれば来てあげる、必ず」と忍び寄ってきた死の影トートに向かって、少年ルドルフが「ほんとう?」とおもちゃの銃を向ける演出でした。今回は、孤立無援となった青年ルドルフがトートから手渡されるのと同じ銃を少年ルドルフがトートダンサーから手渡されます。銃に魅せられる少年ルドルフに寄り添い、髪をなでおろすような仕草をしながら、トートは冷たく不気味に微笑みかけます。少年時代にすでに死の影が忍び寄り、ルドルフ自身からトートに微笑みかけていることを暗示している場面だと思います。流れがわかりやすくなったといえばなりました。
この日も子役ちゃんはエンジェルボイス。歌がうまい。小柄でひ弱な感じがよく出ていたと思います。母の姿を一生懸命に探し求めているのに会うことは許されませんでした。観ていて辛いものがあります。
シシィが旅に明け暮れている間に深まっていった父子の溝。古川さんルドルフは、涙と汗をあふれさせながらの熱演でした。2012年の舞台でもビジュアルが美しい方だなと思いましたが、『レディ・ベス』のフェリペ王子役を経て、さらに美しく孤独なルドルフでした。軍服の着こなしがきれいです。この日はダンスの切れもいっそうよくて体がよく動いている感じがしました。京本さんルドルフを前日に観た後で、より強い古川さんルドルフを感じました。自分の意志があるのに、考えを持っているのに、想いがあるのに、皇太子という立場であるために身動きとれない苦悩。すごく、むずかしい役どころなんだろうなとあらためて思いました。
「闇が広がる」で、井上さんトートと古川さんルドルフの声が今一つ聴こえない感じがあるのは、影コーラスがかぶり過ぎているからなのかな。ちょっと残念です。もう少し強く二人の歌唱で聴きたい感が残ります。トートが追い詰めていこうとするように立膝をたてながら鋭いまなざしでルドルフにせまっていくシーンは、毎回印象に残ります。
トートから銃を手渡されたルドルフが、自らトートに口づける場面をプレビュー初日に観た時は、帝国劇場中が驚いた感じでした。三度目の観劇の時の京本さんルドルフもそうでしたが、井上さんトートは長い時間おでこをくっつけてルドルフと見つめ合うようになっていました。トートの瞳の中に何をみて、何を思ったか。ルドルフは引き金をひいて自ら旅立っていきます。
ルドルフが母に助けを求めてきたとき、すでに人生に疲れ切ってしまっていたシシィは、政治の話はもううんざりといった表情で、ルドルフのもとを立ち去ってしまいます。「ママも僕をみすてるんだね」。ルドルフの声は、魂がぬけていったように力がなくなっていき、崩れおれます。
「ママは自分を守るためあなたを見捨ててしまった」。棺の上で泣き崩れて、トートの影を感じると「早く死なせてほしい」と頼むシシィを嘲笑うかのように拒絶するトート。自分を責めるシシィの姿に毎回私自身をどうしても重ね合わせてみてしまうことは、何回も書いているのでここでは書かないことにします。年老いてきたフランツはシシィに手を差し伸べて支えようとしますが、シシィは気づいているのかいないのか、一人ふらふらと彷徨うようにルドルフの眠る棺へと向かっていきます。
生きることは一日一日が闘いで、こうして生かされていることが奇跡の重なりあい。生きることはむずかしくて、みんな精一杯与えられた命を生きていて、誰が悪いとか何が悪いとか、因果関係で説明がつくことばかりではない。幾重にもより糸が折り重なったような、そんな生きる、ということ。
ラストで喪服を自ら脱ぎ棄ててシシィが少女時代の笑顔に戻り、自らトートに口づけて一人旅立っていくのは、精一杯生きてきたから、闘い抜いたからの、くしゃくしゃな笑顔。
四度目も色々と自分の中の思いを重ね合わせながらの観劇でした。カーテンコールのシシィとトートは、プリンセスとプリンスの笑顔。井上さんはすみからすみまでエスコート役に徹していて美しいです。重い作品の最後に救われます。花ちゃんのお辞儀の仕方は、宝塚で10年以上娘役として舞台に立っていた人の美しさと貫録にあふれていて素敵です。
この日は、ハンガリーに連れて行った長女のゾフィを亡くしたシシィに、トートが忍び寄って、「早く認めるんだ、俺への愛を」とささやきかける場面も印象に残りました。同じキャストでも観る旅に印象が変わるので、一回一回大切に観たいと思います。
(略)
その15分後、扉が中から開いて大公妃がそっとささやいた。「男の子ですよ、フランツ・ヨーゼフ」
「大丈夫でしたか」これが皇帝の第一声。待望の世継ぎが生まれた、ということはとっさには意識にのぼらなかったのだ。
「母子とも無事です。難産だったからシシーはだいぶぐったりしてますが、もう入っていいでしょう」
入ってみると、シシーが憔悴しきっているので、フランツ・ヨーゼフはぎくりとした。おずおずとシシーがかぼそい声で尋ねた。「また女の子だったの?」
「ちがうよ、シシー、男の子をさずかったんだ」
(略)
フランツ・ーゼフは、皇位継承者ができて喜びもひとしお、その若い母親に世界中の宝石を贈ってやりたいほどだった。皇太子誕生の報は国中で熱狂的に迎えられた。気前よく施し物が配られる、との期待からである。フランツ・ヨーゼフの見るところ、息子は格別美男子というわけではないが、まるまるといかにも丈夫そうだった。誕生第一日目にして早くも、彼は息子のルドルフを陸軍大佐に任じた。洗礼にさいしては、“金羊毛皮勲章”をその揺りかごに入れ、誇らしげに告知した。「われは欲するものなり、神の恩寵によって賜った男子が、この世に参入する日よりわが勇敢なる国軍に所属せんことを」
(略)
ルドルフが成長するにおよび、(息子がのちに欲するかどうかもかえりみず軍人になるよう定めた皇帝の)専断はしばしば父子論争のきっかかとなる。」
(マリールイーゼ・フォン・インゲンハイム 西川健一訳『皇妃エリザベート』295-296頁より。)
『ルドルフ・ザ・ラスト・キス』のプログラムに掲載されている少年ルドルフの表情は、孤独の中を漂っているように見えます。瞳がすごくさびしそうです。誕生した、その時父フランツは目に入れても痛くないほどの歓びにあふれていただろうに、親子のすれ違いの伏線はすでにひかれていました。それは、結果的にあとでそういうことだったのだと気づくことしかたぶんできない。気づいた時にはすでに間に合わない。親子だからこそ、家族だからこそわからない。結果的に息子の方が先に旅立っていくことになってしまった。それは結果でしかない。誕生した時にそんなことを望んだはずはないし、そんなことを想像することすらできなかった。ハプスブルクの未来の皇帝として、ルドルフが自分で選び取ることができなかった運命、あがない切れなかった運命。
少年ルドルフが手にする銃は、2012年の公演ではおもちゃのようなものだったと思います。孤独な少年に、「呼んでくれれば来てあげる、必ず」と忍び寄ってきた死の影トートに向かって、少年ルドルフが「ほんとう?」とおもちゃの銃を向ける演出でした。今回は、孤立無援となった青年ルドルフがトートから手渡されるのと同じ銃を少年ルドルフがトートダンサーから手渡されます。銃に魅せられる少年ルドルフに寄り添い、髪をなでおろすような仕草をしながら、トートは冷たく不気味に微笑みかけます。少年時代にすでに死の影が忍び寄り、ルドルフ自身からトートに微笑みかけていることを暗示している場面だと思います。流れがわかりやすくなったといえばなりました。
この日も子役ちゃんはエンジェルボイス。歌がうまい。小柄でひ弱な感じがよく出ていたと思います。母の姿を一生懸命に探し求めているのに会うことは許されませんでした。観ていて辛いものがあります。
シシィが旅に明け暮れている間に深まっていった父子の溝。古川さんルドルフは、涙と汗をあふれさせながらの熱演でした。2012年の舞台でもビジュアルが美しい方だなと思いましたが、『レディ・ベス』のフェリペ王子役を経て、さらに美しく孤独なルドルフでした。軍服の着こなしがきれいです。この日はダンスの切れもいっそうよくて体がよく動いている感じがしました。京本さんルドルフを前日に観た後で、より強い古川さんルドルフを感じました。自分の意志があるのに、考えを持っているのに、想いがあるのに、皇太子という立場であるために身動きとれない苦悩。すごく、むずかしい役どころなんだろうなとあらためて思いました。
「闇が広がる」で、井上さんトートと古川さんルドルフの声が今一つ聴こえない感じがあるのは、影コーラスがかぶり過ぎているからなのかな。ちょっと残念です。もう少し強く二人の歌唱で聴きたい感が残ります。トートが追い詰めていこうとするように立膝をたてながら鋭いまなざしでルドルフにせまっていくシーンは、毎回印象に残ります。
トートから銃を手渡されたルドルフが、自らトートに口づける場面をプレビュー初日に観た時は、帝国劇場中が驚いた感じでした。三度目の観劇の時の京本さんルドルフもそうでしたが、井上さんトートは長い時間おでこをくっつけてルドルフと見つめ合うようになっていました。トートの瞳の中に何をみて、何を思ったか。ルドルフは引き金をひいて自ら旅立っていきます。
ルドルフが母に助けを求めてきたとき、すでに人生に疲れ切ってしまっていたシシィは、政治の話はもううんざりといった表情で、ルドルフのもとを立ち去ってしまいます。「ママも僕をみすてるんだね」。ルドルフの声は、魂がぬけていったように力がなくなっていき、崩れおれます。
「ママは自分を守るためあなたを見捨ててしまった」。棺の上で泣き崩れて、トートの影を感じると「早く死なせてほしい」と頼むシシィを嘲笑うかのように拒絶するトート。自分を責めるシシィの姿に毎回私自身をどうしても重ね合わせてみてしまうことは、何回も書いているのでここでは書かないことにします。年老いてきたフランツはシシィに手を差し伸べて支えようとしますが、シシィは気づいているのかいないのか、一人ふらふらと彷徨うようにルドルフの眠る棺へと向かっていきます。
生きることは一日一日が闘いで、こうして生かされていることが奇跡の重なりあい。生きることはむずかしくて、みんな精一杯与えられた命を生きていて、誰が悪いとか何が悪いとか、因果関係で説明がつくことばかりではない。幾重にもより糸が折り重なったような、そんな生きる、ということ。
ラストで喪服を自ら脱ぎ棄ててシシィが少女時代の笑顔に戻り、自らトートに口づけて一人旅立っていくのは、精一杯生きてきたから、闘い抜いたからの、くしゃくしゃな笑顔。
四度目も色々と自分の中の思いを重ね合わせながらの観劇でした。カーテンコールのシシィとトートは、プリンセスとプリンスの笑顔。井上さんはすみからすみまでエスコート役に徹していて美しいです。重い作品の最後に救われます。花ちゃんのお辞儀の仕方は、宝塚で10年以上娘役として舞台に立っていた人の美しさと貫録にあふれていて素敵です。
この日は、ハンガリーに連れて行った長女のゾフィを亡くしたシシィに、トートが忍び寄って、「早く認めるんだ、俺への愛を」とささやきかける場面も印象に残りました。同じキャストでも観る旅に印象が変わるので、一回一回大切に観たいと思います。
皇妃エリザベート (集英社文庫) | |
マリールイーゼ・フォン インゲンハイム | |
集英社 |