2018年6月22日(金)晴 28.5℃~13.5℃
「会津戊辰戦争 籠城した女性たち 」
三、籠城した女性たち
籠城については女・子供は城中の手足纏であり又空しく糧食を頂くのは不忠になるから避難するという人々もいた。城中の様子を
①山川操子は『婦人世界』明治42年7月号で次のように語っている。
「略 私ども婦人の仕事は弾をこしらえるのとご飯を作ることの他に、負傷兵を介護する大任がございました。・・・・・火薬を頭から体中に浴びて真っ黒に火傷した人がありました。身体中の皮膚はすっかり爛れて着物を着せることもできませんから裸体のままで起きましたが、それが時々「起こしてください」と申します。抱きかかえるように起こしますと、火傷した皮膚がむけて両手にべっとりつきます。
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≪弾丸の作り方≫
小さく切った紙切れを広げてそれを細かい竹筒に巻きます。さうすると紙が筒状になりますから紙の一方をチョットひねって底を拵え、中の竹筒をスポット抜きます。その中に弾を入れてその上に火薬をいれて、紙の上の方をまたチョット捻ります。これをいくつも並べて置きますと汁から十三歳の子どもが兵士のところに運ぶのです。
②山本八重は『婦人世界』明治42年11月号で次のように語っている。
ご婦人などは白無垢に生々しい血潮の滴ってゐるのを着ていました。これは多分家族に卑怯者があって城中に入って戦うのは嫌だといふのを手に掛けてその足で参られたのでございます。・・・・・・一番心配でたまりませんでしたのは、厠に入ってゐる時でございました。武家の婦人として一矢も酬ゐに犬死するやうなことがあっては主君いも家名にも恥ずかしいわかですから、もし厠にをります時、あの大砲でも破裂してこのまま最後を遂げました時は婦人として最も醜態をさらsねばならぬことです。
母さく子、姉うらの反対を押し切って大小をたばさみ、鉄砲と弾薬を携えて足袋裸足で廊下橋へかけつけた。この時御門番は帯など締めていたくらいですから城門の警戒など少しもできていませんでした。もしこの時少数の敵でも侵入すれば残念ながら落城していたかもしれない。
北出丸では銃をもち敵兵を狙撃して活躍した。
③井深梶之介の話
・・・散弾が四方八方から飛来する中、妙齢女丈夫(23歳の八重子)が藩公の御前に召され、着弾しなかった砲弾を分解して極めて冷静に説明していた。
④女傑 諏訪喜智のこと
性質剛健、男勝りの評あり。諏訪大四郎(禄1700石の家老職)の後妻。
8月23日養子の伊助は陣将として前線で戦っていた。その妻子と子どもたちを村里に逃れさせ。自らは城を枕に死ぬ覚悟で、立派な火事装束にて薙刀を携え供の者を一人従えて入城した。入場中は、山川唐衣と共に女性隊の総指揮をとり、死者の埋葬・傷病兵の介抱・食事の炊き出し。弾丸の製造に尽力した。(小島一男編『會津女性人物事典』など』
照姫をはじめ籠城中の女性たちの働きは素晴らしいものであった。
「会津戊辰戦争 籠城した女性たち 」
三、籠城した女性たち
籠城については女・子供は城中の手足纏であり又空しく糧食を頂くのは不忠になるから避難するという人々もいた。城中の様子を
①山川操子は『婦人世界』明治42年7月号で次のように語っている。
「略 私ども婦人の仕事は弾をこしらえるのとご飯を作ることの他に、負傷兵を介護する大任がございました。・・・・・火薬を頭から体中に浴びて真っ黒に火傷した人がありました。身体中の皮膚はすっかり爛れて着物を着せることもできませんから裸体のままで起きましたが、それが時々「起こしてください」と申します。抱きかかえるように起こしますと、火傷した皮膚がむけて両手にべっとりつきます。
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≪弾丸の作り方≫
小さく切った紙切れを広げてそれを細かい竹筒に巻きます。さうすると紙が筒状になりますから紙の一方をチョットひねって底を拵え、中の竹筒をスポット抜きます。その中に弾を入れてその上に火薬をいれて、紙の上の方をまたチョット捻ります。これをいくつも並べて置きますと汁から十三歳の子どもが兵士のところに運ぶのです。
②山本八重は『婦人世界』明治42年11月号で次のように語っている。
ご婦人などは白無垢に生々しい血潮の滴ってゐるのを着ていました。これは多分家族に卑怯者があって城中に入って戦うのは嫌だといふのを手に掛けてその足で参られたのでございます。・・・・・・一番心配でたまりませんでしたのは、厠に入ってゐる時でございました。武家の婦人として一矢も酬ゐに犬死するやうなことがあっては主君いも家名にも恥ずかしいわかですから、もし厠にをります時、あの大砲でも破裂してこのまま最後を遂げました時は婦人として最も醜態をさらsねばならぬことです。
母さく子、姉うらの反対を押し切って大小をたばさみ、鉄砲と弾薬を携えて足袋裸足で廊下橋へかけつけた。この時御門番は帯など締めていたくらいですから城門の警戒など少しもできていませんでした。もしこの時少数の敵でも侵入すれば残念ながら落城していたかもしれない。
北出丸では銃をもち敵兵を狙撃して活躍した。
③井深梶之介の話
・・・散弾が四方八方から飛来する中、妙齢女丈夫(23歳の八重子)が藩公の御前に召され、着弾しなかった砲弾を分解して極めて冷静に説明していた。
④女傑 諏訪喜智のこと
性質剛健、男勝りの評あり。諏訪大四郎(禄1700石の家老職)の後妻。
8月23日養子の伊助は陣将として前線で戦っていた。その妻子と子どもたちを村里に逃れさせ。自らは城を枕に死ぬ覚悟で、立派な火事装束にて薙刀を携え供の者を一人従えて入城した。入場中は、山川唐衣と共に女性隊の総指揮をとり、死者の埋葬・傷病兵の介抱・食事の炊き出し。弾丸の製造に尽力した。(小島一男編『會津女性人物事典』など』
照姫をはじめ籠城中の女性たちの働きは素晴らしいものであった。
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