2011年12月29日(木) 晴れ
30数年付き合いの魚屋さんに29日になると新巻鮭(オス)1匹とスルメ1束、筋子贈答用1箱、数の子、酢だこ、刺身用帆立を届けてもらう。昨年は大雪の中難儀したが今年は晴れていてよかった。新巻の頭と尾を組み合わせ神棚に飾る。
スルメはイカ人参を作るために切る。これは私の仕事。妻は棒たらを煮ている。
少しずつ正月を迎える準備が始まった。
11月18日(金) くもり 晴れ
京都に魅せられた男の一人旅38
第五日目 東福寺2
三門から東北へ歩くと、五社成就宮があり鳥居をくぐって参拝。十三重石塔を過ぎ右に最勝金剛院があったので寄る。奥は墓地だった。
この道の紅葉が美しい。ぱちり。
本堂を左手にみながら北へ歩くと偃月橋(えんげつきょう)に出た。この橋は1603年の建築で、単層切妻造の屋根は桟瓦葺。
広大な境内に北谷、中谷・南谷を巧みに取り入れている東福寺。通天橋の眺めは中谷にあたり、ここにかかる三つの歩廊橋は上流からこの偃月橋(重文)、通天橋、臥雲橋といい、これらを「東福寺三名橋」という。
この橋を渡るのは初めてである。通天橋ほどは込みあっていない。人通りが途切れたところで写真を写した。
橋を渡ると即宗院 。山門は慶長18年(約400年前)の遺構で左右に石造りの仁王様を配した貴重な建造物である。
即宗院は南北朝時代、島津氏久の菩提のため玄柔和尚を開祖として創建された。池は「心」の字体を表している。
即宗院の脇に国宝龍吟庵方丈があった。この方丈を昭和39年解体修理完了した時、四周に庭園がなかったので昭和の名作庭家重森三玲に委嘱して庭を造った。
南庭は古式により白砂だけの庭。西側の庭は「龍吟庭」と名付けられている。白砂の大海と白モルタルの縁取りにより黒雲をあらわし、各所に配された石によって雲間から頭と胴体をくねらせて現われて飛翔する龍を表現している。庭を区切る竹垣は雷紋と稲妻紋をあらわす。
この説明を読みながら庭をよくみると龍の躍動感が感じられるから不思議である。
東側は赤砂の石庭であった。赤砂の庭は初めてみた。
伝統を踏まえながら自由な発想によって大胆に表現された作庭である。一見に値する。(つづく)
30数年付き合いの魚屋さんに29日になると新巻鮭(オス)1匹とスルメ1束、筋子贈答用1箱、数の子、酢だこ、刺身用帆立を届けてもらう。昨年は大雪の中難儀したが今年は晴れていてよかった。新巻の頭と尾を組み合わせ神棚に飾る。
スルメはイカ人参を作るために切る。これは私の仕事。妻は棒たらを煮ている。
少しずつ正月を迎える準備が始まった。
11月18日(金) くもり 晴れ
京都に魅せられた男の一人旅38
第五日目 東福寺2
三門から東北へ歩くと、五社成就宮があり鳥居をくぐって参拝。十三重石塔を過ぎ右に最勝金剛院があったので寄る。奥は墓地だった。
この道の紅葉が美しい。ぱちり。
本堂を左手にみながら北へ歩くと偃月橋(えんげつきょう)に出た。この橋は1603年の建築で、単層切妻造の屋根は桟瓦葺。
広大な境内に北谷、中谷・南谷を巧みに取り入れている東福寺。通天橋の眺めは中谷にあたり、ここにかかる三つの歩廊橋は上流からこの偃月橋(重文)、通天橋、臥雲橋といい、これらを「東福寺三名橋」という。
この橋を渡るのは初めてである。通天橋ほどは込みあっていない。人通りが途切れたところで写真を写した。
橋を渡ると即宗院 。山門は慶長18年(約400年前)の遺構で左右に石造りの仁王様を配した貴重な建造物である。
即宗院は南北朝時代、島津氏久の菩提のため玄柔和尚を開祖として創建された。池は「心」の字体を表している。
即宗院の脇に国宝龍吟庵方丈があった。この方丈を昭和39年解体修理完了した時、四周に庭園がなかったので昭和の名作庭家重森三玲に委嘱して庭を造った。
南庭は古式により白砂だけの庭。西側の庭は「龍吟庭」と名付けられている。白砂の大海と白モルタルの縁取りにより黒雲をあらわし、各所に配された石によって雲間から頭と胴体をくねらせて現われて飛翔する龍を表現している。庭を区切る竹垣は雷紋と稲妻紋をあらわす。
この説明を読みながら庭をよくみると龍の躍動感が感じられるから不思議である。
東側は赤砂の石庭であった。赤砂の庭は初めてみた。
伝統を踏まえながら自由な発想によって大胆に表現された作庭である。一見に値する。(つづく)
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