敬老の日、内閣総理大臣、都知事、市長から御祝い状と記念品が届いた。記念品は銀杯、花瓶、商品券でそれらを飾って本日ホテル昭和館で百寿祝賀会を開催した。孫6人、曽孫3人を含め、17人が集まった。
母の生きてきた波瀾万丈の100年間、自分史の中から主な事象を見てみると
1923年、8歳で関東大震災を実家の秦野で経験、先の東日本大震災時、一人暮らしの母をすぐ見舞ったが、関東大震災に較べれば、昭島の震度は3.5ぐらいだったせいか「何ともないよ」と落ち着いていた。
1936年、宮内庁のOLだった母は住居の赤坂から徒歩で通勤、三宅坂当たりで2.26事件の反乱軍に阻止され、出勤できなかった。当時21歳のOLとして軍国日本の現実に直面したわけだ。
そして太平洋戦争に突入し、人生最大の山場が訪れる。1942年結婚し、父が出征した後1945年5月25日赤坂一帯は激しい米軍の空爆、2歳の私をおぶって焼夷弾の降る中を、逃げ延びた。ここで焼夷弾にやられていたら、私を含め今日集まった大部分はいなかったわけだ。
母の自分史から赤坂大空襲の様子を再現してみると、「空襲警報がなり、着の身着のまま元赤坂の実家を出て、見附の弁慶橋につく頃は焼夷弾が雨あられと落下する状態となり、お堀に入り水を掛け合う人や赤坂東急ホテル(当時はなかった)裏の横穴式防空濠に入る人など火の海の中を逃げ惑った。母は私を背負い、永田町方面へ坂を上がり、奇跡的に焼夷弾に当たらず永田町の小学校(当時)へ逃げ込んだ。小学校は海軍が守っており、延焼は免れ、九死に一生を得た。坂下の赤坂の街は焼き尽くされ、実家の焼け跡には鉄瓶だけが残っていた。伯父一家は弁慶橋の下で難を逃れ、横穴式の防空濠に逃げ込んだ人は火の中で犠牲者となった」その後、館林へ疎開し、終戦を迎えた。