前回の人力車に乗った道を今回は歩いて、宝筐院と清凉寺に向かった。今回は前回と重複するが徒歩での風景と清涼寺をアップします。
往きは正門が開いていて校舎も紅葉も見る事が出来た嵯峨小学校です。今回は徒歩で校庭側から来ました。 1
前回も気になりました個人医院です。 2
清涼寺の立派な仁王門です。清凉寺は別名、嵯峨釈迦堂としても京都では親しまれています。清凉寺の説明をウキペディアから一部引用させていただきます。清凉寺(せいりょうじ)は、京都府京都市右京区嵯峨にある浄土宗の寺院。山号を五台山(ごだいさん)と称する。嵯峨釈迦堂(さがしゃかどう)の名で知られ、中世以来「融通念仏の道場」としても知られている。宗派は初め華厳宗、後に浄土宗となる。本尊は釈迦如来、開基は奝然、開山はその弟子の盛算(じょうさん)である。
清凉寺[編集]
棲霞寺草創から数十年後、当時の中国・宋に渡り、五台山(一名、清凉山)を巡礼した奝然(“ちょうねん”938-1016)という東大寺出身の僧がいた。奝然は、宋へ渡航中の985年、台州の開元寺で現地の仏師に命じて1体の釈迦如来像を謹刻させた。その釈迦像は、古代インドの優填王(うでんおう)が釈迦の在世中に栴檀の木で造らせたという由緒を持つ霊像を模刻したもので、「インド - 中国 - 日本」と伝来したことから「三国伝来の釈迦像」、釈迦に生き写しとされ「生きているお釈迦様」と呼ばれている。奝然は、永延元年(987年)日本に帰国後、京都の愛宕山を中国の五台山に見立て、愛宕山麓にこの釈迦如来立像(985年とされ、「清凉寺様式」と呼ばれ、現在国宝)を安置する寺を建立しようとした。奝然は、三国伝来の釈迦像をこの嵯峨の地に安置することで、南都系の旧仏教の都における中心地としようとしたものと思われる。すなわち、都の西北方にそびえる愛宕山麓の地に拠点となる清凉寺を建立することで、相対する都の東北方に位置する比叡山延暦寺と対抗しようとした、という意図が込められていたとされる。しかし、延暦寺の反対にあい、その願いを達しないまま長和5年(1016年)、奝然は没した。かれの遺志を継いだ弟子の盛算(じょうさん)が棲霞寺の境内に建立したのが、五台(臺)山清凉寺である。
清凉寺のHPはこちらです。
3
五臺山と刻まれている。 4
仁王門から本堂への参道の西側には法華経に由来する多宝塔、法隆寺夢殿を模した聖徳太子殿、狂言堂などがある。
5
法隆寺夢殿を模した聖徳太子殿としてアップしていた建物は多宝塔で正しい聖徳太子殿は菊の紋が入ったこちらの建物でした。訂正してアップします。
少し向きを変えて同じ聖徳太子殿です。
「その法隆寺夢殿を模した聖徳太子殿です。」とアップしましたが、実際は多宝塔です。
6
信心が浅いわけではありませんが、時間が押していて本堂に安置されている木造の釈迦如来立像を拝むこともできずに先を急ぎました。国宝である三国伝来の赤栴檀の釈迦如来(国宝)を拝まずに後にしました。西域のエキゾチックお釈迦様だそうです。
7
8
9
10
11
弁天堂です。 12