あかない日記

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クーデンホーフ光子 4

2021-09-13 | 人物忌


   ポペチョヴイツェは 
       ウィーンの北西約400kmにある 

 


クーデンホーフ光子の
欧州における ゆかりの地に触れる。


1896年1月28日 夜汽車で神戸駅へ
 神戸港から客船で
 香港 シンガポール セイロン 
 インド アラビア
 エジプト
 パレスチナ イタリアと
 陸路ウィーンを経由し
 3ヶ月かけてロンスベルクへ

 ボヘミアの領地ロンスペルグ城に住んだ。
 (ドイツ国境に近い
   現チェコのポペチョヴイツェ)

*乳母として日本人2人が同行している。

 

  ポペチョヴイツェの町 中央にロンスペルグ城は建つ


    ロンスペルク城正面 

 

住んだロンスペルク城は
14世紀ごろ建てられ

1864年 城と邸宅は 
クーデンホーフ=カレルギー家
によって購入された。



光子が家族と住んでいた
ロンスペルク城は、
その後兵舎などに使用され荒廃したが

光子の遺品等は 
ロンスペルク 約10km東にある
ホルショフスキー・ティーン町にある

カレル・ヤン・トラウトマンスドルフ侯爵
(1845-1921)の城に保管され展示されている。


光子の着物姿の肖像画や
記名されたゲストブック 
使っていた急須もある。

なお 現在ロンスペルク城
は修復されつつある。

 

 

 
  シェーンブルン宮殿とウィーン市内
       右にシュテファン大聖堂

 

  
    マキシング通り12番地

 

1906年 夫急逝(46歳)
1908年 子供たちの教育のため
 一家はウィーン・シェーンブルン宮殿西側
 のヒーツィング地区・
 マキシング通り12番地に移る。

 光子は「黒い瞳の伯爵夫人」として、
 ウィーンの社交界へ

 

1914(T3)年 第一次世界大戦勃発

 ストッカウへ疎開
(ロンスベルグの隣村,夫が買っていた所)

娘たちと仮設病院で奉仕活動。

 長男、三男は戦場へ 
 二男リヒアルトは
 女優イダ・ローランと結婚

 


    ウィーンの郊外 メードリング

 


   メードリングの家

 

1920(T9)年 
 ウィーンの郊外
 メードリングに屋敷を買い移住。

 
なお 現在メードリングの博物館
Museum Mödling - Thonetschlössl)には

 光子のコーナーが設けられており 
 関係品や写真が展示されている。

  
     カレルギー家の墓


1941(S16)年8月27日
 二度目の脳卒中により
  メードリングの自宅で没 67才


光子は 望んだ夫の墓には入らなかったが 
シェーンブルン宮殿西側のピーツィンガー墓地の
カレルギー家の墓に眠る。

墓石には
「 Mitsu  Aoyama」の名がみえる。

 

参考:
 ・「ウキペディア」

    ・「Google」
 ・「吉田羊、プラハ・ウィーンへ
   ヨーロッパに嫁いだ なでしこ物語」

 ・「NHKザ・プロファラー」

 

 



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