あかない日記

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博物学者 田中芳男

2021-06-22 | 人物忌


 谷中霊園の田中芳男の墓

 


 6月22日は 幕末-明治時代の博物学者
 田中芳男が亡くなった日

「日本の博物館の父」とも呼ばれる。

その田中芳男の墓が谷中霊園にある。

説明文には

「幕末から明治期の
博物・物産学舎、農務官僚。

天保九年(1838)、
信濃国飯田(現、長野県飯田市)に
医師田中隆三(如水)の
三男として生まれる。

安政四年(1857)、
伊藤圭介(1803-1901)に入門、
ここで医学・蘭学・本草学を学ぶ。

文久元年(1861)
芳男は圭介に従い、
幕府の洋学研究機関「番所調所」の
一施設「物産所」勤務のため江戸に出る。

慶応三年(1867)、
パリ万国博覧会に赴き、
ジャルダン・デ・プラント
(フランス国立自然博物)を
日本の自然史博物館の理想とした。

明治三年、芳男は、
町田久成とともに大学南校に
開局した物産局
(文部省博物局の前身)で働く。

ここで我が国の博物館創設のために尽力し、
後の東京国立博物館、国立科学博物館、
東京都恩賜上野動物園の基盤を築いた。

明治4年、芳男の主唱により
招魂社(靖国神社)で
開かれた「大学南校物産会」は、
近代博覧会の嚆矢として画期的な事業である。

また芳男は、明治六年と九年には、
明治政府からウィーンと
フィラデルフアの万国博覧会に派遣され、
日本と西洋との文化交流にも
大きな役割を果たした。

明治十五年の上野博物館開館の後、
芳男は博覧会事業の重きを置き、
日本初の産業博物館、神宮農業館の創設、
また農会・水産会・山林会の会頭を
務めるなど農林水産業の振興に貢献した。

大正四年、男爵を授けられ、
翌五年六月二十二日、本郷の自宅で没する。

享年七十七歳。

墓石の正面に
「従二位勲一等男爵田中芳男墓」とあり、
裏面に略歴が刻まれる。

田中芳男墓は、平成9年台東区史跡として
台東区民文化財台帳に登録された。

 平成12年3月 台東区教育委員会  」

とある。

 

*伊藤圭介(1803-1901)
  尾張国名古屋出身 日本初の理学博士
*町田久成(1838-1897)
  薩摩藩士

1867(慶應3)年 パリ万博に赴き
出品用の昆虫採集から現地での
展示業務までを幕府の命により遂行した。

この経験が総合研究施設としての
博物館を理想とするようになる。


またこの時収集した様々な印刷物を
貼り込んで作成した
「外国捃拾帖(くんしゅうじょう)」も

他に類を見ない貴重な資料になっている。





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