(日本経済新聞 2003/08/16)
小説「津軽」の像(北津軽郡中泊町小泊砂山)
前回 太宰治の津軽時代の20年に触れたが
太宰は 戦時下の
1944(S19)年5月12日から6月5日まで
故郷津軽を旅し
38年の生涯で唯一となった
その足跡とともに
自分自身を見つめ直した
小説「津軽」を発表している。
この自伝的小説「津軽」には
太宰の人間性等が垣間見られ
特に 越野たけ(1898-1983)と
30年ぶりに会う小泊の場面だ
以下 小説「津軽」 から引用
「ここには、私の叔母がゐる。
幼少の頃、私は生みの母よりも、
この叔母を慕つてゐたので、
実にしばしばこの五所川原の
叔母の家へ遊びに来た。
私は、中学校にはひるまでは、
この五所川原と金木と、二つの町の他は、
津軽の町に就いて、
ほとんど何も知らなかつたと言つてよい。」
「私はこの時、生れてはじめて
心の平和を体験したと言つてもよい。
先年なくなつた私の生みの母は、
気品高くおだやかな立派な母であつたが、
このやうな不思議な安堵感を
私に与へてはくれなかつた。
世の中の母といふものは、皆、
その子にこのやうな甘い放心の憩ひを
与へてやつてゐるものなのだらうか。
さうだつたら、これは、何を置いても
親孝行をしたくなるにきまつてゐる。
そんな有難い母といふものがありながら、
病気になつたり、なまけたりして
ゐるやつの気が知れない。
親孝行は自然の情だ。
倫理ではなかつた。」
また
「私はたけの、そのやうに強くて
不遠慮な愛情のあらはし方に接して、
ああ、私は、
たけに似てゐるのだと思つた。
きやうだい中で、私ひとり、粗野で、
がらつぱちのところがあるのは、
この悲しい育ての親の影響
だつたといふ事に気附いた。
私は、この時はじめて、
私の育ちの本質をはつきり知らされた。
私は断じて、上品な育ちの男ではない。
だうりで、金持ちの
子供らしくないところがあつた。
見よ、私の忘れ得ぬ人は、
青森に於けるT君であり、
五所川原に於ける中畑さんであり、
金木に於けるアヤであり、
さうして小泊に於けるたけである。」
*生母・太宰夕子(たね・1973-1942)
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